たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年3月26日執筆  2004年3月31日掲載

石工・小松寅吉を讃える

先日、封書が一通届いた。
手書きの封書が届くというのはそう多くはない。仕事関係も交友関係も、今ではほとんど電子メールでやりとりが完了してしまうからだ。
差出人の吉田利昭さんというお名前には見覚えがなかったが、福島県石川郡石川町という住所ですぐにピンときた。小林和平関連だな、と。
AICで「石工・小林和平を讃える」という文章を書いたのは去年の6月のことだった。和平の狛犬については、その後も狛研のメンバーたちをはじめ、多くの人たちが興味を持ち、わざわざあの交通の便の悪い地へ出向いている。少しずつでも、名工・和平のことが知られるようになって、とても嬉しい。

吉田さんは和平と同郷で、今回、郷土史再編にあたり、石工・小林和平のことを調べて書いていらっしゃるという。お手紙には、僕がまだ知らなかった和平の作品情報が含まれており、写真も何枚か添えられていた。
さらには、和平の師匠である石工・小松寅吉布孝(のぶたか)という人物についても書かれていた。
吉田さんからの情報をまとめるとこうなる。

石工小林和平は、明治14年7月13日、福島県石川郡石川町沢井に次男として生まれ、12、3歳頃に近隣の浅川町福貴作の石工・小松寅吉布孝に弟子入り。
大正8年に独立し、数々の名作を残した後、昭和41年、86歳で没した。
塵肺を煩いやすい石工で86歳というのは異例の長寿といえる。
その師匠・小松寅吉布孝は、卓越した技術と奇抜なデザインで知られる石工で、布孝の父親・小松理兵衛布弘(のぶひろ)は、高遠石工の出といわれている。
高遠藩は藩の政策として石工を育てた。高遠石工は全国に散っており、布弘もそのひとりだったのだろう。脱藩して出先に定住するのは藩の掟に背くことになったのかもしれないが、そのへんのドラマについては分からない。

吉田さんの手紙には、この小松寅吉布孝の作品情報もいくつか入っていた。
須賀川牡丹園に唐獅子や鶏などの石像が、また、白河市借宿の新地山参道入り口には、なにやら不思議な石造物を遺しているらしい。
Googleで「小松寅吉」を検索すると、たった1件ヒットするページの中に、この場所の説明がある

///石川街道わき、借宿村(白河市)の新地(しんち)山は、古来の歌枕「人忘れずの山」である。
阿武隈川をはさんで、烏峠山塊の木ノ内山「人懐かしの山(泉崎村)」と向いあう。
このあたりは古代白河郡の中枢ゾーンだった。古歌あり。
“みちのくの あふくま川の岸にこそ 人忘れずの山はありけり”
山麓に、白河楽翁公がこの歌名所を詠(よ)んだ歌碑がある。その石柵は、奇巧の石工(いしく)小松寅吉が彫り飾っている。(白河市立図書館のサイト「白河の伝説」より)///


俄然興味が湧き、いても立ってもいられず、情報を頼りに、小松寅吉と小林和平の作品を巡るルートを作成してみた。須賀川牡丹園をスタート地点にして、白河の新地山をゴールにしたコースだ。
須賀川のホテルを予約した翌日、お袋から電話がかかってきた。この話をしたところ「あら、ぜひ連れて行ってよ」と言う。ひょえ~、お袋も行くのかよ(さまぁず・三村風)。
昨年、これが最後の親孝行かもしれないと思って和平狛犬巡りに連れて行ったのだが、最後というのは甘かった。たまたま電話がかかってきたのも何かの運命なのだろう。
雨が降るらしいよ。降水確率70%だよ。などと言っても全然動じない。「じゃあ、長靴用意していったほうがいいかしら」ときた。
お袋には負ける。親孝行、したいときには親はなし。というわけで、急遽お袋も同行することに。

降水確率70%の予報だったのだが、行きと帰りだけ雨が降り、幸い、狛犬巡りの最中はまったく降らなかった。雨雲も我々の気迫に負けたか。
1日で10箇所以上を回るという強行軍だったが、実に充実した旅になった。
いきなり、須賀川牡丹園の唐獅子(小松寅吉)の迫力にぶっとび、最後は、白河新地山参道入り口の石柵の奇抜さ、巧みさに感嘆。詳しくは狛犬ネットに報告しているので、興味のある方は覗いてみてくださいな。

それにしてもいつも思うのは、なぜ石工の仕事はこれほどまでに評価が低いのかということだ。
今では、新しく狛犬を奉納したくても、手でこつこつ彫り上げられる石工など日本に数えるほどしかいない。現代の狛犬はほとんどすべてが機械彫りで、中国などから輸入している一種の「工業製品」だ。今後、石の彫刻史は閉ざされ、新しい逸品など出現してこないだろう。となれば、昭和の作品であっても、石の彫刻作品で優れたものは、どんどん文化財に指定して、守っていく努力が必要だ。

今回、今まで知らなかった和平狛犬を何対も見たが、中には和平狛犬のすぐ前に、俗悪極まりない新しい狛犬(機械で削っただけで、彫刻とすら呼べない代物)を置いている神社もあった。宮司も氏子たちも、その神社にある宝物(和平の狛犬)の価値をまったく理解していないのだ。実に困ったものである。

今回のリストには地図に載っていない神社が1つあった。カーナビに導かれるまま付近まで行ってみたが、どうしても見つからない。道を歩いていたおばあさんに「鐘鋳(かねい)神社はどこでしょう?」と訊いてみると、生まれてこの方、そんな神社は聞いたこともないと言う。ずっとここで生まれ育ったという別のおばさんも出てきて、
「そんなの知らないねえ。村の神社っていったら、1つだけあるけど」
「なんていう神社ですか?」
「神社の名前? 知らないねえ。神社は神社だから。一色(いしき)の神社ったら、あそこしかないべ」
「じゃあ、そこかもしれないので行ってみます。狛犬がいるはずなんですよ」
「……いぬ?」
「狛犬ですよ。神社の狛犬。石でできた狗(いぬ)」
「そんなものあったかねえ。ずっとこの村に住んでるけど、聞いたことも見たこともないねえ」
……と、こんな調子なのだ。
別に驚かない。毎度のことだ。地元の人ほど神社のことなど知らない。そこに狛犬がいるかどうかも気にしたことがないのだ。

教えられた道を行くと、やはりその神社だった。小林和平が遺した傑作の1つが、身体中に苔をびっしりくっつけ、頭からはぺんぺん草を生やして待っていてくれた。
和平狛犬の中でも、石都都古別神社、古殿八幡神社の狛犬と並んで3大傑作に数えられるであろう逸品。
一色(いしき)というこの地は、和平の妻・ナカの故郷でもある。それだけに気合いを入れて彫ったのだろう。それが今ではこんな扱いを受けているとは……。
写真を撮っていると、さっき道を訊いたおばあさんがやってきた。
「あんたら、これを見たかったの?」
「ええ。これを見るために東京から来たんですよ」
「へええ、驚いた。こんなものがあったんだねえ。おれはこの村で生まれ育ったけど、今まで全然気づかなかった」
そう言いながら、台座に自分の先祖の名前が刻まれているのを見つけて、
「へええ。これ、うちのじいちゃんだ。じいちゃん、こんなところに名前が……知らなんだぁ。いやあ、来てみてよかった」

その「じいちゃん」をはじめ、先祖はどんな思いでお金を工面し、この狛犬を建立するために努力したことか。それが今では……。う・う・う・う・う。
お袋はついに、
「こんなにすばらしい宝物を粗末にしていると、村も寂れる一方ですよ。すぐに県に言って文化財に指定してもらうよう働きかけるべきですよ」
なんて、同い年(昭和3年生まれ)だというそのおばあさん相手にお説教を始めてしまった。

まったくもって、石工たちの仕事はまともに評価されていない。
古いからいいというものではない。芸術性、独創性、技術を統合的に見て、すばらしい作品はすぐに分かる。しかし、明治以降の作品だというだけで、多くの傑作が、はじめから目もくれられないのだ。いわんや昭和の作品をや、である。
そのへんは、「天才画家」が大量認定され、高額で取り引きされる絵画の世界などとはかなり違う。
別に、狛犬の上に屋根を作れとか、蔵の中にしまい込めなどと言っているわけではない。風雨に曝され、少しずつ朽ちていくのも石芸術の運命。しかし、新しい狛犬(しかもまったく評価外の輸入物工業製品)を奉納したついでに古い狛犬を破棄してしまうとか、名品の直前に、似ても似つかないまがいものを置いてしまうなどという愚行だけはやめてほしい。

今回、名工・小林和平を育てた小松寅吉という彫刻師の存在が分かったことは大収穫だった。寅吉あってこその和平だったのだ。寅吉が伝えた技と芸術性を和平がさらに昇華させた。その連続性がすばらしい。
文化果てる国・ニッポン……にならないよう、子供たちに本当の芸術を教えていくことの大切さを思い知らされた旅でもあった。

鐘鋳神社の狛犬
●ここまでほったらかしにされている和平狛犬
(福島県東白川郡棚倉町一色 鐘鋳神社)
昭和9年建立 石工・小林和平

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