たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年4月15日執筆  2004年4月20日掲載

「危機管理能力」とは何か

これを書いているのは2004年4月15日(木曜)の夜。
この文章がAICに掲載されるのは20日(火曜)の朝。
先週に引き続き、この時間差を思いながら書いている。

……と書き始め、1200字ほど書いたところで、3人の人質が解放されたというニュースが飛び込んできた。

ここまで、日本国内では「危険を承知で出かけたのだから、どんな結果になっても自己責任」「テロリストに屈することだけはありえない」というレベルの話ばかりが飛び交っていた気がする。
「自己責任」ということに関しては、確かにその通りだろう。しかし、日本のマスメディアが、イラクの人々の生の声や現地の生活レベルでの情報をあまり報じてくれない中で、彼らがもたらす情報は貴重だった。イラク人たちの心の中で日増しに日本への憎悪が深まる中、彼らは多くの制約と困難を抱えながらも、それぞれに悩み、よりよい方向を探って行動していたはずだ。
そもそもなぜこんな泥沼に陥ったのかということを考えずに、拉致された人たちを悪し様に非難するだけというのは、本末転倒であり、ますますこの国を危うい状況へと導くだけではないか。
せめて、拉致された者たちが命がけで日本に送ってきた情報から、かの地で何が起きているのか、イラクの人々は何を考えているのか、読みとる努力くらいはしたいと思う。

要するに、イラクでは今「戦争」をしている。だからこそ「掃討作戦」だの「停戦協定」などという言葉も出てくる。
問題の本質は、日本は、戦争をしている国に、戦争の一方の当事国に対して全面的に支持表明をし続けたまま「軍隊」を派遣した、ということだ。
「自衛隊は人道支援をしに行っているのであり、撤退させる理由が見つからない」と政府は言う。「人道支援」というのは、例えば災害救助であるとか、戦争被災地の戦後復興援助を言うのだろうが、イラクでは今、戦争状態が続いているのだ。
その戦争とは、ほとんど言いがかりのような理由をつけて一方的に攻撃を仕掛けたアメリカ政府と、アメリカ政府のそうした傲慢さを心の底から憎む人たちとの間で起きている。
日本政府はといえば、この戦争が始まろうとしていたときから一貫してアメリカ政府を無条件で支持してきた。それによって日本が失ったものはあまりにも大きい。アラブ諸国で築きあげてきた親日感情を失い、さらには国連勧告をも無視して暴走したアメリカに盲従することで、今まではアメリカに従うことの口実に利用されてきた感のある「国連主導」路線という大義さえも捨ててしまった。尊敬されず、最低限度の大義も失った国が、どのような形で「貢献」「支援」できるのだろうか。
「アメリカ支持」を世界に向けて宣言している国の政府が、軍服を着て、兵器を持った部隊を「攻め込まれた国」に送り込んだ。それに対して、「戦争」の一方の当事者はどう思うか。いくら政治家たちが無神経とはいえ、分かりそうなものだろう。
なぜ、売られてもいない喧嘩を買って出るのか。

やられたらやり返すという単純な暴力の連鎖が続いている。ファルージャでの「掃討作戦」という言葉。「掃討」とは「完全に除き去る」という意味だ。1人やられたら何百倍にしてやりかえすと言わんばかりに、アメリカの軍隊は手段を選ばず「皆殺し作戦」に近いようなことをやっている。それをも「治安維持」と呼ぶのだろうか。
NGO PEACE ONのサイトには、3人に続いて拉致されたフリーの記者・安田純平氏が東京新聞に送った記事や、その下書き原稿(未発表原稿)が紹介されている。バグダッドが今どうなっているのか、イラクの人々は日本をどう見ているのかを知る貴重な情報だ。
その原稿の最後に、「事件は悲しい出来事だ。このやり方には反対する。無事に戻ってくるよう祈っている」と繰り返す一方で、「日本人3人のほうが価値が高いのだろうが、この数日だけで何百人も死傷しているイラク人のことも同様に尊重すべきではないのか」と語るイラク人のことが書かれている。
3人の人質解放に重要な役割を果たしたと言われるイスラム聖職者協会の幹部は、3人を日本大使館に送り出す前に、「ファルージャの惨状を日本に伝えてくれ」と託したという。

テロは許されない。テロに屈することはないと繰り返すだけの日本政府。しかし、だいぶ前から、テロという言葉を便利に使いすぎてはいないか。
テロを「暴力」あるいは「暴力的手段」と言い換えてみればいい。難癖をつけて圧倒的武力で他国に攻め込む暴力と、そうした大国の傲慢さに抵抗するために卑劣な手段も選ばない暴力と、どちらが正義でどちらが悪かなど定義することができるはずがない。暴力的手段を仕掛ければ、必ず暴力的手段でやり返される。憎悪の連鎖の中で「テロには屈しない」と繰り返すだけの日本政府は、これから先、日本を安全に守れるのか。
暴走する権力や武力に盲従することを唯一最大の「安全保障」だと決めつけ、自分の頭で物事を考えない、他人の心情を推し量れない指導者こそ、国の危機管理上、最も危険な要因ではないのか。

今回、偽物との噂もある犯人グループからの2回目の声明文の中に、「(逢沢一郎)外務副大臣はファルージャの地に立て」という要求項目があったらしい。おそらく、犯人グループ、あるいはそれに近い人々は、テレビ画面を通じて相沢外務副大臣の姿を見ていたのだろう。高級スーツに身を包み、カメラの前に立つ前にネクタイを替える日本政府の代理人が、彼らの目にどう映ったのかがうかがい知れる。
また、これは犯人グループには見られていないとは思うが、安倍幹事長は3人がまだ解放されていない段階で、「日本政府が最初からテロに屈せず、自衛隊撤退をきっぱり拒否したからこそ犯人グループは3人を解放した」という意味のことを演説の中で「過去形」でぶちあげ、その映像がテレビに映し出された。
ようやく説得に応じようとしていた誘拐犯に向かって、ざまあみろと野次っているに等しい。そんな無神経な人たちに、これから先、日本国民はずっと命を託さなければならないのか。これが政府の「危機管理能力」なのか。

3人が日本に戻った後のことを想像すると、気が重くなる。「国にこれだけ迷惑をかけて、どういうつもりだ」「おまえたちのためにどれだけ税金が使われたことか」などなど、今も氾濫している罵詈雑言がいちだんと高まるのだろうか。
いろいろな見方ができることは認めるが、その中の一部だけが恣意的に増幅されたり、鬱憤晴らし的な暴走につながることを怖れる。
敢えて書けば、こんな見方もできるのではないか。
3人が人質にされたことで、3人が今までイラクのために何をやってきたのかが、イラクの人たち、イスラム圏の人たちにも広く知られることになった。
日本のアメリカ政府一辺倒姿勢に辟易し、日本という国に対して、親しみから憎悪へと急速に気持ちが切り替わってきていたイスラム圏の人たちに、「いや、まだまだ日本人は捨てたもんじゃない」「アメリカのやり方に反対し、身を挺して、イラクのために何かしようとしている日本人もいた」「日本政府の姿勢と日本人の総意とは違う」と知らせることになった。それはひとつの「緩衝材」という安全保障因子になったのではないだろうか。

メディア戦争の中で、3人の命が翻弄され、歪んだ形で利用されたことは確かだが、それでも収支決算としては、もしかすると、日本人全体にとっても「得」だったのではないか。無差別に人を殺してはいけない、というあたりまえのことさえ、戦争の中の憎悪連鎖で忘れられる。憎悪の気持ちだけが増幅された結果、いきなり東京で爆弾テロが起きることだって十分ありえる。
その危険を招き入れているのは誰なのか。政府が強行していることは、はたしてそうした危険と引き替えにするだけの価値のあることなのかをよく考えてみるべきだろう。
状況判断ができず、ひたすらアメリカ政府追従既定路線を堅持という「思考停止」こそ、「危機管理能力ゼロ」状態と呼べる。
そして、この危険状況は、これから先、まだまだ続く。

(2004年4月15夜 記)