たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年5月21日執筆  2004年5月25日掲載

老いるショック

20年ほど前のことになるが、テレビ雑誌の仕事で、老優と呼ばれる役者さん4人にインタビューしたことがあった。
都内の料理屋で、中村伸郎、浜村純 、花沢徳衛、殿山泰司という4氏を前に、まだ20代終わりか、30代になったばかりの僕がいろいろな話を聞き出すという図。
4人の中でいちばん若かったのは殿山さんで、1915(大正4)年生まれ。他の3人はみな明治生まれ。
その席で、どういう神経か、僕は「死を怖れるということはないですか?」と訊いた。
前後のつながりは覚えていないのだが、多分、老いをテーマにしたテレビドラマかなにかの取材だったので、老いと死というものを、実生活ではどうとらえているか、というような流れだったと思う。
若造の口から不躾な質問が飛び出したにもかかわらず、みなさん怒ることもなく、しかし異口同音に、急に強い口調になってこうおっしゃった。
「ないよ、そんなの」
「ないない」
「ぜんぜんない」
「死が怖いというのは、あなたがまだ若い証拠ですよ」

若いときは銀座でならした(この表現も年寄り臭いが)という殿山さんは、僕の目をじろっと覗き込んで、
「歳取ると、だんだん女とやりたくなくなるんだよ。それは確かだね。死ぬことも、どうでもよくなってくるんだ」
とおっしゃった。

あのとき、僕は性欲も強かったし、死ぬことがとても怖かった。20年以上経った今、殿山さんの心境にずいぶん近づいている。
死ぬことへの恐怖は薄らいできたが、老いることへの恐怖は強まるばかりだ。

話変わって、毎年夏休みに入る前の3週間、僕は母校・上智大学の教壇に立って授業をやる。外国語学部英語学科の授業だが、「普通に」就職しなくとも生き延びている卒業生として、学生たちにカツを入れてくれというリクエストにこたえるものだ(一応、非常勤講師としての正式授業で、教員証も持たされている)。
そこで僕は、自分の今までの人生がいかに失敗であったかを、包み隠さず話す。

中学2年のとき、まだアマチュアだったオフコース(小田和正、鈴木康博、地主道夫の3人によるフォークグループ)の演奏を生で聴いて感動し、翌日から音楽一筋の人生を決意して挑戦し続けてきた……というところから始まる(教室には1969年のYAMAHAライトミュージックコンテストフォーク部門決勝大会で歌うオフコースの『Jane Jane』が流れる)。
いくつもの失敗の末、CBSソニーの売れっ子ディレクターT氏(当時、矢沢永吉らを担当)に認められ、オフコースのような男性デュオユニットとしてようやくデビューのチャンスを掴んだのに、同時に獲得に名乗りを上げたビクターのディレクターM氏との間で心が揺れ動き、迷った末にビクターを選んだことが、僕の一生を狂わせる結果となった。
ソニーのディレクターT氏が僕を作曲家として認めていて、日本最大手の音楽出版社社長と組んで育てようとしていたということは、ビクターを選び、ソニーに断りに行った日に知った。T氏からは別れ際、「きみたち、こんなことしたら、この業界で生きていけなくなるよ」と凄まれた。
そのとき、すでに大きな後悔をし始めていたが、もう後には引けない。
しかし、そこからは悪夢のようなことばかりが続いた。
ビクターでデビューアルバムを録音中、若い女性マネジャーと結託してソロとしてデビューすることを画策していた相棒(高校の2年後輩)と決別した。相棒はまんまとソロデビューを果たし、僕の曲は録音されたままお蔵入りになった。
ドラムス:村上ポンタ秀一、林立夫(パラシュート)、ギター:安藤やすひろ(スクエア)、今剛、キーボード:井上鑑、サックス:ジェイク・コンセプション……といったそうそうたるバックミュージシャンたちによってレコーディングされながら、僕の曲は、結局そのまま一度も世に出ることはなかった。今ではレコード会社にもマスターテープは残っていないだろう。
あのとき、なぜ耐えて「せめて1年は一緒にやろう」と相方に言えなかったのか。そもそも、ソニーを選んでいたらこんなことには……。

その後も、ソロとして再デビューを試みるが、ディレクターが会社内で問題を起こして移籍したり、レコードが出る前に事務所がつぶれたり、まるで何かに祟られたように不運が続いた。

もう忘れたい、そうした呪われた過去を、毎年1度、学生たちの前で話すのだ。話すたびに1つ歳を取っていく。
話すことで、ふっきれるならいいのだが、そうはならない。授業の時期が近づくと、毎晩のように嫌な夢を見る。過去の失敗を引きずっていることが明らかな、後ろ向きの夢だ。
自分が失敗したときの傲慢さや浅はかさを、今は十分に反省している。そうした未熟な部分を、教室の中の学生たちにも見ることがある。だからこそ話す。
ここまでさらけ出しても、君たちには伝わらないだろうな、と思いながらも、求めなければ何も実現しないのだというメッセージを伝えようと努力する。

50歳を目前にして、もうできないことはたくさんある。例えば作品の「若書き」や、ステージでの暴走的パフォーマンス。
音楽にしても小説にしても、若さで突っ走るような作品は作れないし、演じられない。
今の自分が納得できるものは、多くの人が好むものとは違ってきていることも感じる。
売れることが音楽人生の目標なら、死ぬまで「売れる」ことはないだろう。

となれば、あとは自分がどうやって老いるか。楽しく老いるか。充実感を持って老いるか、が問題。
学生を前に話し、演奏しながら、結局は自分の人生を確認する作業をしている。
「酸っぱい葡萄」ではないが、いつも最後は自分にこう言い聞かせる。
社会的に成功し、あとは別段何をしなくても、印税と、知名度を消費していけばいい、というような老い方は決して幸福ではない。50になっても成功していない人生、50になってもハングリーな精神状態を持ち続けているこの人生は、幸せな人生ではないか、と。

人生50から。ということで、今年はまだ49歳なので、50からの人生を始めるためのリハビリ年間とすることに決めた。そう思えば少しは楽になれる。(……で、リハビリがずっと続いたりして……)

中村伸郎、浜村純 、花沢徳衛、殿山泰司の4氏はもう他界している。
殿山泰司さん、1915/10/17-1989/4/30。
中村伸郎さん、1908/09/14-1991/7/5。
浜村純さん、1906/02/07-1995/6/21。
花沢徳衛さん、1911/10/18-2001/3/7。

中村さんは、別れ際に突然僕の手を両手で握って「お元気で!」とおっしゃった。あまりに唐突で、しかも素直な行動だったので、驚いた。
浜村さんは、「子供を作らなかったからこそできたことは、子供がいなければできなかったことよりはるかに多い」という意味の言葉を残してくださった。結婚する前から、子供を作らないと決めていた僕にとって、とても力強いメッセージだった。
花沢さんは意気軒昂に、戦時中、特高にひどい目に合ったことや、それでも信念を曲げなかったことなどを語ってくださった。
殿山さんが、僕が訊いてもいないのに「歳取ると、女とやりたくなくなる」とおっしゃったことは、自分が歳を取るにつれ、じわじわ、ボディブローのように効いてくる。あのときは全然ピンとこなかったのだが……。

ほんの小一時間のインタビューだったが、そこにいるだけで、4人の名優の生き様が直に伝わってくるような、濃密な時間だった。
僕があと20年以上生きながらえれば、あのときのみなさんと同じ年代になる。
その20年をいかに楽しめるか、だわね。
面白い。やってやろうじゃないか……と、前向きに考えよう。

それにしても、しょーもない駄洒落をタイトルにするようでは、もう終わってるかなぁ。


墓石に刻まれた狛犬
●墓石に彫られたミニ狛犬
宝海寺の墓地(福島県石川郡石川町)にて
(c)狛犬ネット

(2015年5月27日 追記)
これを書いてから11年が経ち、とりあえず「あと20年」のうちの半分以上が経過した。
AICの編集長・穴吹史士さんも、穴吹さんを紹介してくださった永井明さんも、AICで書く前にしばらく連載をさせてもらっていた『草の根通信』の松下竜一さんも、『マリアの父親』で「小説すばる新人賞」を受賞するきっかけを作ってくださった「すばる」の片柳治さんも、みんな60代の若さで亡くなってしまった。
その60代に突入。
「人生50から」とここでは書いているが、そんなこと書いたのをすっかり忘れている。50代を振り返れば、風力発電の暴力や原発爆発で翻弄された10年だったような気がする。
いいことは、狛犬の他にカエルが人生の友に加わったことかな。

今でもときどき、このインタビューのことを思い出す。つい先日のことのような気がするのだが、殿山さん以外はみなさん明治生まれだったとは……。そして、あの日からもう30年以上経ったとは……。

今は「人生60からが楽しいのよ」という所ジョージ氏の言葉を信じて毎日あがいている。あがこうがなにしようが、毎日、平穏に暮らせていることに感謝。

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