たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年9月10日執筆  2004年9月14日掲載

永井明さんのこと

9月5日、船の科学館で、永井明ドクターを送る会があった。
亡くなって2か月以上が経つが、いまだに僕の気持ちの中では永井さんの死がうまく消化できていない。
永井さんご自身は、この春くらいから死を覚悟されていたらしい。臨終を看取った医師仲間のかたや、奥様のお話からは、「覚悟の死」であったことがうかがえる。でも、最初に訃報を聞かされたときは、まさに青天の霹靂。最初は同姓同名の人のことかと思ったほどだ。

永井さんは、僕にとっては本当に不思議な人だった。直接お会いしたのは数回しかない。その1回1回を、時間を遡って思い出してみる。

初めてお会いしたのは、1992年の暮れか93年初めのこと。
都内の高そうな料理屋で、集英社の担当編集者夫妻と永井さん、永井事務所の名物秘書・浦井さんの5人で食事をしたとき。
きっかけは、永井さんが、僕にとって(今のところ)最初で最後の文庫本『雨の降る星』(絶版)の解説を書いてくださったことだった。そのお礼を兼ねて、編集者がその席を用意してくれたのだった。
『雨の降る星』は、某映画会社制作映画の「原作」として92年の初夏に依頼され、夏に一気に書き上げた小説だった。その映画会社の社長が息子に代替わりし、それを機に新社長が「社会派映画」を作るのだと燃えて、最初に「エイズ映画」を作るということだけが決まったらしい。
その原作がほしいというわけだが、実は脚本は別途書かせているという。脚本をノベライズするより、最初から小説としての原作があったほうが箔がついて宣伝もしやすい、ということらしい。「主人公が若い女性でエイズになる」という条件さえ満たしていればどんな内容でもかまわない、という、実に荒っぽい注文だった。
僕はこの仕事を引き受け、夏の間に書き上げて提出したのだが、そのときには、別の有名な「ドキュメンタリー作家」のルポルタージュを「原作」とするという話がまとまっていて、僕が書き上げた作品は宙ぶらりんになった。
それが文庫書き下ろしという形で出たのが年末のこと。文庫には解説が必要だというので、永井さんにお願いしたのだった。
これも、もう時効だと思うので告白すれば、別の大物文芸評論家に断られた末の依頼だった。当然、僕は右も左も分からないひよっこだから、解説の人選などは編集者に任せっきりだった。
「永井明さんがやってくれることになったわよ」
「ああ、よかったです。で、どういうかたなんでしょうか」
「あら、知らないの? 『ぼくが医者を辞めたわけ』がベストセラーになったじゃない。医療つながりってことで……」
『ぼくが医者を辞めたわけ』という本が売れているということも、そのときに知った。

その次は、永井事務所の忘年会に呼んでいただいたとき。多分、1993年末だと思う。
その席で、漫画家の福山庸治さんや、映画監督の大森一樹さんを紹介された。
その忘年会で、僕は福山さんと一緒に「売れない漫画家と売れない作家」と紹介された。僕は高校生くらいのときから福山さんの漫画は読んでいて、好きな漫画家のひとりだったので、僕の中ではその忘年会の中では福山さんがいちばんの有名人だった。その「有名人」と一緒に「売れない作家」と紹介されたことは、むしろ面はゆかった。
それがきっかけで福山さんとはメールのやりとりをするようになり、しばらく一緒に遊んでもらった。

その次は、四谷三丁目のピアノバーみたいなところで、大野雄二トリオを招いたパーティに誘われたとき。落語家・柳家小りん、編集者・穴吹史士、作家・永井明の「快気祝い」というふれこみのパーティで、永井さんはなんと「恋煩い」からの快気ということになっていた。
ちょうど僕が仕事の上でどん底にあったときで、会費の1万円が、かなりの覚悟だったのを覚えている。
大野雄二さんは僕が大好きな作曲家のひとりで、昔、ビクターから一瞬デビューしたときには、大野さんの作曲した「丸井からありがとう」というキャンペーンソング(クレジットの丸井が創立20周年だか25周年だかの記念に作った歌)を歌ったこともある。ベースの鈴木良雄さんも尊敬するアーティストなので、純粋に音楽を聴きに行った。
その席上で、このAICをひとりで切り盛りしている穴吹さんを紹介していただいた。それがずっと後になって、AICで書かせていただくきっかけとなっている。

その次はかなり時間が空く。福山庸治さんが『F氏的日常』(「週刊ダイヤモンド」連載、河出書房新社で単行本化)で第5回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞したときのパーティで。2年くらい前だったと思う。
永井さんは少し遅れてやってきて、福山さんにおめでとうと声をかけた後は、パーティがお開きになる直前まで僕と一緒に話をしていた。
「そろそろいい頃合いかな」と耳打ちされ、二人で会場を後にした。
「たくきさんは相変わらず売れないねえ」というような話をしながら駅に向かった記憶がある。

最後にお会いしたのは昨年末、新宿二丁目の飲み屋で。そのときはごくごく普通に、焼酎のミルク割りを楽しんで、電車がなくなる時間まで話していた。
この飲み屋は新宿二丁目にありながら、珍しくそっち系統ではない「普通の」飲み屋で、女将(ママ)さんは元編集者らしい。
この店は、僕にとっては特別な店になっている。
15年前に「小説すばる新人賞」をいただいたとき、編集者に初めて連れてこられたのがこの飲み屋だった。そして、その編集者に数年後、「ごめんね。あんたをこれ以上面倒見られなくなったの」と、事実上の放り出し宣告を受けたのもこの店。
そのとき、やりとりを聞いていた女将さんが、帰り際、会社の後輩でもあるその女性編集者を、珍しくきつい言葉で叱責していたのを覚えている。
永井さんはその店の常連だった。
昨年末、どこかで飲みましょうという話が出たとき、この店を選んだのは永井さんだった。

恐らく、これが永井さんと直接お会いしたすべての「記録」だと思う。
5回?
数えてみると、たった5回しかお会いしていないことに気づく。しかし、なんと「効率」のいい5回なのだろう。どの回においても、必ず誰かと縁結びしてくださっているのだ。
永井さんは、飄々としていながら、常に他人のことを気にかけていたのだということがよく分かる。
今、僕がなんとか物書き仕事を絶やさずにいられるのは、永井さんのおかげである。永井さんと知り合えなければ、もっとずっと前に執筆者生命を絶たれていたことだろう。

さっぱりしていて、酔っても最後まで笑顔が絶えない。大野雄二トリオのときも、終電に間に合うかどうかきわどかったところを「たくきさん、一緒に帰ろう」と後から手を掴んでひきとめ、同じ方向とも言えないのに、タクシーに押し込むようにして送ってくださった。
おそらく、僕と同じように、永井さんにそれとなく助けられていた「売れない××」は他にも何人もいるはずだ。

永井さんの人気は、この自然体の魅力が支えていたのだろう。
送る会の席で、「でも、永井さんのポジションを埋めるような人材は出てこないでしょうね」と言ったところ、まったくそうだねえ、ということで一同納得してしまった。
軽妙洒脱な文章家は古今東西けっこういる。これからも出現するだろう。でも、書く文章と同じように、実際に身軽で、嫌みがなく、潔く生きている作家は極めて少ない。

新宿二丁目で飲んでからまだ半年しか経っていない今年7月。
東京が37度というとんでもない猛暑の日、落合の火葬場に出かけた。訃報がメールで届いたのが前日。ご本人の強い遺志で、葬儀などはいっさい執り行わないということだったが、最後のお別れをするために、火葬場には数十人の人たちが集まっていた。その中には、二丁目の飲み屋の女将さんの顔もあった。
「永井家」という看板もない。参列者の記帳テーブルもない。火葬炉の前に、突然の訃報を知らされた人たちが自然に集まっただけの、静かなお見送りだった。
それらしいことと言えば、最後に火葬場の外で、奥様が短くご挨拶されただけ。セレモニーのようなものは一切なし。
誤解されるかもしれないが、これほど見事な死に方はない。悲しみの中で、「ああ、俺も死ぬときはこうしてもらおう」と思ったものだ。

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 死に際の立派さにこだわる人も少なくないが、そんな必要はない。余計なことですらあると思っている。死、それ自体に価値の上下なんかない。そんなところに何かの価値を見出そうとするのは、人間の過信、傲慢さの表れなのではなかろうか。
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 死にまつわる属性に関してはいくつか思うことはある。積極的に死にたいと願っているわけでもない。ただ生理的に『人は誰でもいつかは死んでしまう』ことを素直に受け入れているのである。
 悟っているわけでも、もちろんない。世俗欲は両手からこぼれ落ちるほどもっているし、日々煩悩に悩まされてもいる。だが、こと死に関しては、『しゃーないな』と思っているのである。
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絶筆となった『適応上手』には、そう書かれている。
「死ぬのはしゃーない」
その言葉通り、見事なまでに自然体で人生を全うした永井さん。
たった5回しかお会いしていないけれど、僕の残りの人生の中で、永井明という作家は、これからもずっと生き方のひとつの指標になっていくに違いない。

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