たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年11月19執筆  2004年11月23日掲載

頭上50cmを跳ぶ

今年のアテネオリンピックではいろいろなドラマがあったが、陸上の男子走り高跳び優勝者を覚えているかたがどれだけいらっしゃるだろうか。
ステファン・ホルム(スウェーデン)という28歳の選手で、記録は2m36cmだった。
ちなみにこれは、世界記録には9センチ、五輪記録には3センチ及ばない。
一見地味な優勝者と思われがちだが、彼は「身長がたった181cmしかない」ハイジャンパーということで、少しだけ話題になった。
男子走り高跳びの世界記録は2m45cmで、キューバのソトマイヨルが持っている。ソトマイヨルの身長は193cmで、頭上52cmを跳んだことになる。ホルムは頭上55cmを跳んだわけで、走り高跳びのルールが「身長よりどれだけ高く跳べるか」であれば、ソトマイヨルよりも高く跳んだことになる。ちなみにホルムは2m37cmという室内記録も持っているので、彼の「身長差走り高跳び記録」は56cmである。
しかし、ホルムのこの56cmは「世界記録」ではない。ホルムのホームページには「50cm倶楽部」というコーナーがあり、頭上50cm以上を跳んだハイジャンパーたちの一覧が出ている。それによれば、歴代記録はこうなる。
身長差身長記録名前
59173232i Franklin Jacobs
58173231 Rick Noji
58175233i Anton Riepl
57183240i Hollis Conway
56176232 Takahiro Kimino
56181237i Stefan Holm
56184240 Sorin Matei
56184240 Charles Austin
55178233 Milton Ottey
(単位はcm 小文字のiがついているのは室内記録)

ホルムのサイトにある資料が正しいとすると、歴史上、自らの跳躍力だけで頭上50cmを超えた男は33人。ホルムは6番目の記録保持者ということになる。栄えある1位のJacobsの記録は、1978年1月28日にニューヨークで出したもの。2位に日系アメリカ人、5位には日本記録保持者の君野貴弘が名を連ねている。ジェイコブスの232cmという記録は室内記録なので、屋外記録ではリック・ノジが世界一になる。

これを題材にしてかつて小説を書いたことがあった。
小説を書くときの筆名を「たくき よしみつ」から「鐸木能光」に変えた最初の作品。筆名を漢字にしたのは、僕が新人賞をいただいた出版社の文芸部長らから、「ひらがなの筆名で売れた作家はひとりもいない。漢字にしたら」とアドバイスされたからなのだが、皮肉にも、僕の小説がこの出版社の活字媒体に掲載されたのはこれが最後になった。
文藝ネットにもPDFバージョンが置かれているが、記録の記述部分が多少間違っていることが判明したので、そこだけを訂正し、「たくき よしみつ」としてここに再掲。
30枚ちょっとの作品。お時間と興味があるかたは、ちょっと長いですが、ここから先もぜひおつきあいください。



  瞑想教室     たくき よしみつ  

 電車が揺れた。
 ドア横の手摺り棒にもたれて立っていた僕は、反射的に脚を踏ん張ったが、その瞬間、足首に埋め込まれたボルトが軋み音を立てたような気がした。
 いや、そんなはずはないとすぐに思い直す。
 ボルトはとっくに外したのだから。
 僕は再び目を窓の外に移す。
 気の早いクリスマスの飾り付けを施した商店街のモール、まだ開いていない飲み屋のシャッター、あるいは住宅街の合間に立つ「複々線化絶対反対!」と殴り書きされた看板……そんな光景が一定速度で通り過ぎていく。
 平日の昼下がりだが、車内に空席はない。
 僕は、国立競技場のロッカー室に忘れてきた荷物を取りにいくため、小田急線に乗っていた。
 シューズやトレーニングウェアを入れたスポーツバッグが、もう一年以上、競技場の管理室に保管されているという。
 あの日から、ずっと……。

〈瞑想〉
 突然、網膜にそんな文字が焼き付いた。
 沿線に建つ古ぼけたアパートの二階。
 いちばん右端のドアに、手書きの文字でそう書かれた看板のようなものが見える。
〈瞑想〉
 ……なんのことだろう?
 確かめる間もなく、アパートは手前の雑居ビルの陰に隠れ、見えなくなった。

 がたんと音がして、もう一度電車が大きく揺れた。
 僕のすぐそばに立っていたスーツ姿の乗客が、慌てて目の前の吊革に掴まった。
 その拍子に、彼が手にしていた携帯電話機が音を立てて床に落ちた。
 落ちた電話機は、その中年ビジネスマンには似つかわしくないピンク色だった。
〈停止信号により、電車は停車いたします〉
 車掌の間延びしたアナウンスが車内に響く。
 何か事故でもあったのだろうか。
 それにしてもへたくそな運転士だ。
 電車は結局五分近くそこに停まった挙げ句、徐行しながらようやく次の駅までたどり着いた。
 前の電車が人身事故を起こしたらしい。
 本来なら停まらない駅に臨時停車した急行は、ドアを開けたまま、なかなか動き出す気配がない。
 じれた乗客の何人かはホームに降り、タクシーでも拾うつもりなのか、改札口へと足早に向かっていった。
 別に急ぐこともなかったのに、なぜか僕も、誘われるようにその駅の改札を出た。
〈瞑想〉
 さっき一瞬目にした文字が、網膜にまだかすかな残像を結んでいる。
 自然と、線路に沿って逆方向へと歩き始めていた。
 まだ開いていない一杯飲み屋や、客など来そうもない小さな電器店の間を抜け、小田急線の高架を頼りに歩いていくと、周囲の雑然とした町並みの中でも一際みすぼらしい安アパートの前に出た。
 今時、波板トタンの壁で、しかもペンキはあちこち汚らしく剥がれている。軒下からは、錆びてちぎれかけた雨樋がぶら下がっていた。
 アパートの裏手では何かの工事をしていて、コンクリートドリルの激しい騒音と地響きが襲う。地面が揺れる度に、ちぎれかけた雨樋もかすかに揺れた。
 一階に三部屋、二階にも三部屋。建物自体が小さいので、一戸分の間口は暴力的なまでに狭い。
 一階の二部屋は人が住んでいる気配がなかった。
 玄関横に錆びた二層式洗濯機が置いてある残りの一戸も、住人がいるのかどうかは怪しい。
 轟音を立てて、背後の高架線をロマンスカーが通り過ぎていった。さっきの事故処理は終わったらしい。
 このアパートにとっては、防音処理なんて砂漠にコカコーラの自動販売機を置くくらい贅沢なことだろう。騒音に相当タフな人間でなければ住めそうにない。
 二階の右側、階段を上っていちばん奥の部屋のドアには、確かに「瞑想」と書いた板が貼ってあった。
 あまりうまい字ではない。
〈瞑想〉
 ここまで来て、この目で実際に確かめても、その看板の意味はまったく分からない。「ピアノ教室」とか「着付け」とか「指圧」なら分かる。でも「瞑想」ってなんだ?
 しばらくぼうっと眺めていると、突然その部屋のドアが開き、男が二人出てきた。
 長髪でブレザー姿の男と、短髪で大柄なジーンズの男。大柄な男はカメラバッグと三脚を持っているので、プロのカメラマンだろう。まるで、有名人の家を雑誌の取材か何かで訪問したという感じだ。
 男たちは部屋の奥に向かって軽く会釈し、一言二言挨拶すると、にやにやしながら鉄の階段を下りてきた。
 階段を下りきったところで、ブレザーのほうの男がカメラマン風の男のほうに「……鳥肌が……」と耳打ちしているのが聞こえた。
 近くに路上駐車させてあったワゴン車にその二人が乗り込み、路地の向こうに消えていくまでを、僕はずっと見守っていたが、やがてふっと我に返った。
 たまたま電車が事故で停まってしまったことが引き金となったとはいえ、窓から見かけた不思議な看板の正体を見届けるために見知らぬ街に降り立ってしまうなんて、まともなことじゃない。本来の目的地である国立競技場に行くことを無意識のうちに拒否しているのだろうか。
 ただ、忘れ物を取りに行くだけなのに。
 右足首が、またギシギシと音を立てたような気がして、思わず足元を見た。しかし、嫌な機械音は、足首からではなく、近くの工事現場から聞こえてくるものだった。
 僕は意を決して、そのアパートの階段を上っていった。
 手摺りの付け根が見事に腐っていて、下手に掴むとかえって転落事故につながりそうだった。
 いつ抜けてもおかしくないような鉄の外廊下を奥まで進み、問題のドアの前に立った。
〈瞑想〉
 やはり、何度見てもそう書いてある。
 板だと思ったものは段ボール箱の切れ端だった。折り目が浮かんでいて、端のほうにはホチキスの針を抜いた穴も残っている。
 文字は、インクのなくなりかけたフェルトペンで、何度も何度も重ねて書いたようだった。さらによく見ると、「瞑」の「目」偏と「想」の右上の「目」が両方とも「日」になっている。
 下手だし、誤字なのに、その文字は妙な説得力を持って僕に何かを訴えかけてくる。
 背後で、また電車が通り過ぎた。今度は各駅停車だ。
 あの電車の窓から、僕はこの看板を見たのだなと確認した途端、右手が勝手にドアをノックしていた。
「はい」
 中から女性の声がした。
 その声を聴いた途端、後悔と、淫靡な期待が入り交じって、喉元に酸っぱいものがこみ上げてきた。
「どうぞ」
 無言の来訪者に、部屋の住人は、警戒心のかけらもない優しい声をかけてくる。
 思いきってドアを引くと、鍵はかかっておらず、あっけなく開いた。
 部屋の中は予想通り狭く、薄暗かった。
 家具らしきものもない六畳ほどの和室の真ん中に、髪の長い女性が座布団も敷かずにちょこんと座っていた。
 喪服のような黒い着物に真っ赤な帯。生地は薄手で、浴衣か長襦袢のように見える。胸元からは、白いというよりは、青みがかった大理石のような肌が覗いていた。
 薄暗がりの中で、大きな濡れた目が光る。
「瞑想にみえられたのですね?」
 彼女はゆっくりとそう言った。
 ラジオの定時ニュースを読む女性アナウンサーのように、澱みのない、静かな、それでいて明瞭な意志を持った声だった。
「……はい……」
 なぜそう答えたのか分からない。彼女の気迫に押されただけかもしれない。僕は身体を硬直させたまま突っ立っていた。
「どうぞお入りください」
 促されるまま、僕は五十センチ四方ほどの、形ばかりの玄関に足を踏み入れ、少し躊躇した後、ドアを閉めた。
 明日から十二月。街にはまだ冬の気配はないが、薄手の着物一枚しかまとっていない様子の彼女には、外から入る風は冷たいに違いない。
 部屋には暖房器具らしきものも見あたらなかった。
 折り込み広告で穴をふさいだ襖の向こうは押入だろう。台所と呼ぶには粗末すぎる畳一畳ほどの一角に、古い一口型のガスコンロと片手鍋が置いてあったが、他には冷蔵庫もテレビも見あたらない。
 部屋の隅には風呂敷包みが一つと段ボール箱が二つ置かれていた。それが彼女の全所有物なのだろうか。
「どうぞお座りください」
 彼女は微笑むと、正座したままそう告げた。
 狭い部屋だったが、家具がないので座る場所は十分にあった。でも、座布団もないから、逆に座るべき位置が分からず、腰を下ろすまでに数秒の間が空いてしまった。
 結局、彼女の正面、二メートルほど距離を置いた畳の上に胡座をかいた。
「では、始めましょう」
 彼女はそう言うと、両手を胸の前で合わせた。
 始めるって……何を?
 そう問いかけようとして、初めて彼女を間近に正面から見たとき、僕は思わず息を呑んだ。
 迷いも疑いもない眼差し。欠点が一つも見つからない整った顔立ち……。
 凛とした美しさに、僕はただ圧倒されていた。
 彼女は合掌したまま静かに目を閉じた。
「瞑想」に入ったということなのだろうか。微動だにしない。
 僕はどうしていいか分からず、黙って彼女を見つめていた。
 化粧っけのない顔に、長い髪が数本ほつれてかかっている。黒い薄手の着物の袖から露出した二の腕には、ほとんど透明に近いような産毛が、部屋の冷気と戦うように輝いていた。
 そのままどれだけの時間が経っただろう。
 彼女は身動きひとつせず、まだ目を閉じていた。
 見ると、黒い着物の合わせ目から覗く彼女の胸元には、細かな鳥肌が立っていた。
 さっき部屋から出ていった二人の男たちの下卑た笑顔を思い出した。あの二人はこの部屋で、彼女と一緒にどんな時間を過ごしていたのだろうか。
 僕は改めて自分の格好と彼女の格好を比べてみた。
 僕はダッフルコートを着たままだ。それでも畳に直に座っているので、尻から脚にかけては冷え切っている。
 黒い薄手の着物一枚では、鳥肌が立つのも無理はない。
 一体この女は何者なのか? 頭がおかしいのだとしたら、そのうちここで凍え死ぬかもしれない。そうなる前に、警察なり役所なりに通報したほうがいいのだろうか?
 そうしたまともな疑念と戸惑いが頭を巡り始めたとき、彼女はすっと眠りから覚めたように目を開いた。
「うまくいきませんか?」
 残念そうな声で彼女は言った。
「え?」
「瞑想です。うまく瞑想できませんか?」
「え……ええ。……すみません……」
 なんで謝らなければいけないのだろうと思いながらも、ついそう答えてしまった。
「では、今日はこのへんにしておきましょう。次までには、もっとうまくできるようになってきてください」
 そう言うと、彼女は軽く会釈し、立ち上がってドアのほうへ歩いていった。僕を送り出すということらしい。
 僕は慌てて立ち上がり、ドアのほうへ向かったが、すぐに気がついて訊ねた。
「あの……料金というか……お金は……」
 彼女ははにかんだように微笑すると、一歩後ずさって言った。
「お気持ちで結構です」
「気持ちって言われても……」
「では、次のときでも結構です」
「いや、それは……」
 僕は当惑しながらもジーンズの尻ポケットから財布を出し、中身を確認した。
 千円札が三枚と硬貨がいくらか。迷った末に、千円札二枚を抜いて差し出した。千円少し残っていれば、家までは帰れる。
「ありがとう」
 彼女は僕の差し出した千円札二枚を両手で押し頂くように受け取った。
「あの……足りなければ次のときに持ってきます。今日はちょっと持ち合わせがなくて……」
「あなたは素敵なかたです」
 唐突に、彼女はそう言って微笑んだ。
「大丈夫。次にはもっとうまくいきますから」

 気がつくと駅の前にいた。
 あの部屋を出て、どうやってここまで歩いてきたのか思い出せなかった。
 小田急線は何事もなかったかのように動いていた。
 もしかしたら、最初から事故などなかったのかもしれないと思った。

 国立競技場の通用門を潜ったときは、もう薄暗くなりかけていた。
「やあ、速田(はやた)君、脚のほうはもういいのかい?」
 顔見知りの老事務員が声をかけてきた。
「ええ、おかげさまで……」
 反射的にそう答えたものの、それはあくまでも儀礼としてだ。競技者としての僕はもう死んでいる。
 僕は一年と五十五日前、シーズン最後の競技会で右足首を複雑骨折した。
 しかも競技中にではない。フィールドに向かう途中、階段の最上段で躓き、派手に転倒したのだ。
 あまりにも滑稽であっけない、競技者生命の最期だった。

 僕の種目は走り高跳び(ハイジャン)。
 自己記録は二メートル十五センチ。国体レベルの競技会でもそこそこのところまではいける記録だが、世界記録の二メートル四十五、日本記録の二メートル三十二には遠く及ばない。
 二メートル十五という記録は、毎年三十人くらいの日本人選手がクリアする平凡な記録だし、僕には主立った競技会での優勝経験もない。
 それでも、僕は陸上競技通の間ではちょっとした有名人だった。なぜなら、身長が百六十三センチしかないからだ。
 もし、走り高跳びという競技が、飛び越える高さの絶対値ではなく、自分の背丈よりどれだけ高く飛べたかを競う競技だとしたら、僕は世界でトップを争えるだろう。
 走り高跳びの現世界記録はキューバのソトマヨルが持っている二メートル四十五センチだが、百九十三センチという彼の身長を差し引くと、その差は五十二センチになる。
 僕の自己記録、二メートル十五は、身長プラス五十二センチで、ソトマヨルと同じだ。つまり、僕もソトマヨルも、自分の頭上五十二センチを超えた男ということになる。
 走り高跳びを始めたときから、僕はいつも「身長差による世界記録」というものを意識していた。
 今のところ、その世界記録はアメリカのフランクリン・ジェイコブスが持っている。彼の身長は百七十三センチで、自己記録は二メートル三十二センチ(室内記録)。身長プラス五十九センチだ。
 僕は練習で一度だけ二メートル二十を超えたことがある。これは身長プラス五十七センチで、ジェイコブスの「身長差記録」にあと二センチと迫っている。
 もし公式記録で二メートル二十二以上を出せたら、僕は世界一のハイジャンパーということになるのかもしれない。
 手応えは掴んでいた。無理な記録ではない。
 身長プラス五十センチを飛び越える「小さなハイジャンパー」として、マスコミも僕に注目し始めていた。
 そんな矢先の無様な事故。
 競技場に出ていく階段で躓いて骨折なんて、悲劇のドラマにもなりはしない。

「じゃあ、これ。普通なら捨てているところなんだけれどね」
 事務員がそう言ってスポーツバッグを差し出した。
 受け取ったバッグからは、かすかに黴の匂いがした。
「もう引退するの?」
 あの日、僕が担架に乗せられて病院に担ぎ込まれたのを見ていたその老事務員は、遠慮がちに訊いてきた。
「はい。歩く分にはもうほとんど大丈夫なんですけど、ジャンプはもう……」
「そうか。でも、人生はまだまだこれからだよ……」
 彼がその後どんなことを言ったのか、僕は聴いていなかった。

 厚木にあるアパートに戻ると、その夜、僕はしみだらけの壁に向かって座り、「瞑想」を試みた。
 暖房を止めて、素肌の上に真新しいシャツ一枚だけの格好になり、あの女性の姿を思い出しながら目を閉じた。
 だが、頭の中は雑念ばかりが渦巻いた。
 百六十三センチしかないのに「世界一のハイジャンパー」を目指した僕の学生時代は、ただの道化だったのだろうか?
 せめて何か一つ、はっきりした形を残しておきたかった。あと一年でも続けられたら、マスコミが勝手にドラマを作ってくれたかもしれない。世間に名前が知られれば、タレントに転身なんてことも、あながち夢ではなかったかもしれない。
 視点を変えれば「世界一」かもしれないという僕の実力に、世間の人は気づくこともない。もう永遠に……。
〈うまくいきませんか?〉
 ふと、脳裏にあの優しい声が蘇った。
〈次までには、もっとうまくできるようになってきてください〉
 何をうまくできるようになれというんだ。
 瞑想?
 瞑想ってなんだ?
 うまく瞑想できれば、この挫折感や苛立ちから解放されるっていうのか?
〈あなたは素敵な人です〉
 何を言ってるんだ。僕が世界一のハイジャンパーだってことも知らないくせに、いい加減なことを言って……。きっと、僕の前に訪ねたあの二人の男にも、似たようなことを言ったに違いない。
 あのとき二千円じゃなくて二万円出していたら、〈あなたは世界一素敵な天才です〉とかなんとか、誉め言葉も派手になっていたのかもしれない。
 いや、待てよ。あの部屋はみすぼらしさと隣り合わせの神秘性を演出するための営業用で、本当はすぐそばの高級マンションに住んでいるインチキ占い師なのかもしれない……。
 醜い妄想がどんどん頭の中で膨らんだ。
 そしてひとしきり妄想し尽くして、もう何も考えられなくなったとき、口元を冷たいものが伝わっていくのに気づいた。
 涙だった。
 複雑骨折し、競技者生命を断たれたときでさえ、泣いたりはしなかったのに。
 最後に涙を流したのはいつのことだったか。遠い昔であることは間違いない。
 涙と一緒に大きく息を吐く。
 身体の奥から、濁った何かがすっと外に出ていく気がした。
 大きく口を開け、もう一度息を吐いた。肺活量検査のときみたいに、これ以上吐ききれないところまで息を吐く。
 屈み込むと、さらに大粒の涙が一緒に、堰を切ったように頬を伝わっていった。
 そのまま、頭の中が熱くなり、いくつかの回路が焼き切れ、別のいくつかの回路がつながるような感じがした。

 思考が止まる。
 僕の存在が、一瞬消えて、宇宙空間の真ん中に放り出された。
 掴むものも、脚を踏ん張る場所もない。バーを跳び越える瞬間に似た感覚がいつまでも続く。
 無限。
 意識だけが無限の中に取り残されてしまった恐怖。
 子供の頃、こんな怖い夢を見た気がする。あの夢を、今また見ているのだろうか?
 僕は初めて気がついた。跳び越えることより、着地することのほうがずっと幸せなことなのだと。再び地面に戻れるから、走り高跳びを続けてこれたのだと。
 そのとき、青白く、細い腕がどこからともなく伸びてきて、僕の頬にそっと触れた。
 僕は夢中でその腕に掴まり、泣きじゃくった。
 細い指、冷たいけれど心地よい掌。その手を握り、何度も頬ずりした。
……ああ、戻れた!

「うまくできましたか?」
 顔を上げると、彼女が微笑んでいた。
 僕は慌てて真っ直ぐに座り直し、握りしめていた彼女の手を離すと、自分の濡れた頬を手の甲で拭った。
「ここは……?」
「あら? 今日はよほど深い瞑想に入れたんですね。まだ少しぼうっとしてるみたい」
 薄暗い部屋は、最初に訪れたときと同じように冷気が満ちている。
「だいぶうまくなりましたね。もう大丈夫」
 彼女はそう言って、乱れた襟元を直した。
 僕がむしゃぶりついて乱れさせたのだろうか?
「……ああ、何も覚えていないんです。ごめんなさい」
 謝ることが、なぜか心地よかった。
「いい瞑想ができましたね」
 彼女は優しくそう言って微笑んだ。
 軽く深呼吸すると、ようやく記憶が戻ってきた。
 そうか、もう八回目になる。
 彼女の元へ通うようになってから、ひと月。来る度に、深い瞑想に入れるようになってきていた。
「あなたが練習で二メートル二十センチを飛んだのを見ました」
 彼女がふいに言った。
「え? でも、あのときはそばには誰も……」
「いいえ、今、瞑想で。あなたが二メートル二十センチを飛んだその場所に、私も一緒にいました。誰もいないグラウンド。夕陽が今にも沈みきろうとしていて……」
「そうです!」
 僕は驚いて叫んだ。
「暗くなってきてバーもかすみ始めて、あなたは、もうこれを最後にしようと助走を始めた。いつもよりほんの少し踏み切りのタイミングが違って、でも、それで力むこともなく、すっと身体が浮いた……」
「そう! ……なんで分かるんですか?」
「あなたと一緒にいましたもの。瞑想の中で。今ようやく、あなたのいちばん大切な時間と場所に行けたわ。あなたはもう大丈夫。あなたが自分の背丈より五十七センチも高いバーを超えたこと、私は知っているわ。だから、あなたも忘れないでね。その大切なときに、私があなたと一緒にいたことを」
「うん……ありがとう……」

 その日も、僕が差し出した二千円を、彼女はいつも通り、笑顔で受け取った。
「あなたはもう大丈夫」
 別れ際、もう一度そう言われた。
 気になる言葉だったが、あまり深く考えることもなく、僕はアパートを後にした。

 それからひと月、僕は彼女の部屋から遠ざかっていた。
 陸上部の先輩に誘われ、先輩がコーチしている母校の駅伝チームの合宿に参加していたのだ。
 ハイジャンプは無理でも、走ることはリハビリ次第でできるだろうというわけだ。雑用係を兼任しながら、少しずつトレーニングを積んでいくという計画だった。
 合宿が終わって家に戻るなり、僕はすぐにあのアパートに向かった。
 小田急線の窓から眺めるひと月ぶりの風景。
 しかし、あの〈瞑想〉という看板が見えない。
 看板どころか、アパートごと消えていた。
 そんな馬鹿な……。
 駅の改札を走って抜けて、彼女の部屋に向かう。
 アパートがあった場所は見事に更地になっていて、ユンボが一台停まっていた。
 ヘルメットを被った男が二人、昼休みなのか、ユンボの傍らで談笑している。
「すみません。ここに建っていたアパートは……」
 僕は瓦礫さえ残っていない地面を指差しながら、その男たちに訊いた。
「壊したよ」
 太って、よく日焼けした中年の作業員が答えた。
「住んでいた人は?」
「そらあみんな立ち退いたんじゃないの? 俺たちは工事してるだけだから知らないけど。解体するときは空っぽだったよ」
「二階に教室があったんですが」
「教室? なんの?」
 男は面白そうに訊き返した。
 どう説明すればいいものか、それともこれ以上話すだけ無駄なのだろうかと思案していると、隣にいた小柄なほうの男がにやにやしながら話に入ってきた。
「にいちゃん、あの頭のおかしな元ポルノ女優のこと言うてるんやろ? ちょっと前までは、ワイドショーやらなんやらがぎょうさん取材に来よったけど、まだ物好きな野次馬がおるんやな。あの女がおったんは、確かに、ここらしいで」
 僕はなんのことだか分からず、無言でその男の顔を見つめていた。
「なんや、にいちゃん、黒木麗香のファンやったんと違うんか? わしも昔はえろう世話になったけどなあ」
「いえ、……ワイドショーが取材に来たって、何かあったんですか?」
「え? ほんま知らんのか。週刊誌にも載ってるで。可哀想になあ、今時、餓死やて」
「いや、あれは自殺っていう見方もあるらしいよ」
 太った作業員が口を挟んだ。
「どっちにしたかて惨めやなあ。死んだ後まですっぽんぽんの写真が出てなあ……」
 僕は言葉を失ったまま、その場を立ち去った。
 駅に戻る途中のコンビニで、雑誌コーナーを漁った。名前も知らない男性向け雑誌に、その記事は出ていた。
パイパン女王・黒木麗香 孤独な死
 元ポルノ女優・黒木麗香(35)が、取り壊し寸前の安アパートで死んでいるのが見つかった。死因は心不全と推定されたが、胃には残留物がなく、かなりの栄養失調状態だったと見られることから、餓死の疑いもある。部屋には冷蔵庫も暖房器具もなく、ひどい生活環境に疲れ果てた末の壮絶な死であった。
 黒木麗香といえば、往年のファンには「パイパン女王」の異名をとった、異色インテリポルノ女優として忘れられない存在だろう。東大を中退してポルノ女優に転身。生まれつきの無毛症を逆手に取った過激なグラビアやビデオが当局にマークされ、八年前には公然猥褻の罪で逮捕され、マスコミを巻き込んだ猥褻論争を引き起こした。
 今でこそヘアヌードは当たり前だが、生まれつきヘアがなかった彼女の場合、ごく普通のポーズでも過激な性器露出と見なされたことが災いした。
 東大教授・榊原省吾氏が、弁護側証人として入廷。人造ヘアを片手に、「これで隠せば猥褻ではないわけですね?」と検事側に迫ったという武勇伝はまだ記憶に新しい。
 引退後も、霊媒師を名乗ったり、銀座のクラブを任されたもののパトロンが脱税で逮捕されたりと、何かと話題を提供していた彼女だが、ここ数年はまったく行方知れずになっていた。近所の人の話では、アパートのドアに「瞑想」という意味不明の張り紙を出していたが、何をしていたのかは分からないという。
 本誌はたまたま死の数週間前、安アパートで一人暮らしをしている彼女を取材した。これはそのときに撮影した彼女の人生最後のヌード写真である。往年の色香は褪せた感があるが、脱ぎっぷりのよさ、取材陣へのサービス精神はさすがだった。
 暖房も入れない部屋で薄着のままで暮らしていたり、時折意味不明の言葉を発したりと、多少精神状態にも不安を感じさせたが、まさかこんなに急に亡くなるとは思いもよらなかった。合掌。]

 その雑誌には、見開きで「黒木麗香」の全裸が掲載されていた。
 でも、それは「彼女」ではなかった。
 不自然な笑顔には小皺が目立ち、胸もだらしなく垂れている、彼女とは似ても似つかない中年女性の裸……。
 まったくの別人だった。
 僕は雑誌を閉じると、陳列棚に戻した。

「だからあなたも忘れないでね」
 彼女の声が蘇る。
 彼女はどこか別の場所で、今でも〈瞑想〉という看板を掲げているに違いない。
 もしかしたら、僕は駅をひとつ降り間違えただけなのかもしれない。
 何も買わずにコンビニを後にした僕は、新たな切符を買うために、駅に向かった。

                 (初出 青春と読書 1998年1月号)



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