たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年4月19執筆  2002年4月23日掲載

コピー文化の行き着く先

何年か前、携帯電話機の着信メロディー(着メロ)を書き込むためのガイドブックというものが売れたときがあった。携帯電話機の着信音はどんどん進化していて、今では通信カラオケ並みに複雑なMIDI音源まで装備し、和音が出せるものもあるが、当時は単純なメロディーを書き込む機能が出始めたばかりだった。
着信音を好きなメロディーにするには、携帯電話機のマニュアルを読んで自分で打ち込めばいいのだが、それが分からない人、面倒な人のために、最初から操作するボタンと数値を並べた暗号表のようなものが作られ、売られたわけだ。
僕はメロディー音感があり、メロディーを聴けばすぐに階名が分かるので、この仕事をやらないかという打診があった。もちろんやらなかったし、そんなもの、誰が必要なのかと思っていたが、かなりの数が売れたらしい。

今は、携帯電話のサイトに多くのメロディーがデータとして用意されており、利用者はそのデータをダウンロードして自分の携帯電話に取り込むだけでよくなった。いちいち入力する必要はないから、「着メロガイドブック」の類も自然消滅した。

着メロを数値で手入力することは、メロディーというものの本質を知るいいきっかけになるかもしれない。音楽のアイデンティティを形成しているものはメロディーであり、メロディーの実体は音そのものではなく、音程の差、音の長さの組み合わせなのだということを認識せざるをえないからだ。
装飾的なアレンジを廃して、基本のメロディーだけを入力し、再生する。その結果、特定の楽曲であるということが認識できる。これこそが楽曲に対する著作権のよりどころだ。
メロディーだけを抽出して聴いた結果、「あれ? これって美空ひばりの曲?」「いや、モー娘だよ」、あるいは、「これって、タイヤのCMソングだよね?」「違うよ。テレビ番組のエンディングテーマだよ」というような類似性が出てくれば、その二つの曲は、発表されたときに違って聞こえていたとしても、実際には同じようなメロディーであったということが、嫌でも分かるだろう。

でも、多くの場合は「へえ、似ているんだぁ」「パクったんじゃないの?」「かもね」「うまくやったな」……で終わってしまう。
作曲家が他の曲を真似て創ることなどは当たり前のことで、ばれないようにうまくやるかどうかの技術こそ、ヒットメイカーの資質だ、という認識が、業界内だけでなく、一般人にまで浸透しているかのようだ。

こうした現象を見ていると、文化というものの本質が、「創作」から「コピー」へと変わってきているのではないかという気がしてしまう。
かつて、作家はものを創り出す能力を尊敬された。しかし、現代では、ものを創り出す能力は二の次で、作家としていかに成功したか、つまり、マスメディアに取り上げられ、より多くの人に知られることになったかという尺度で尊敬される傾向がある。
コピーかオリジナルかということは大したことではない。○○というアーティストが知られているかどうか、売れたかどうかが問題にされる。売れた作品、売れた作家は偉い。売れていない作品、無名の作家はダサい……と。

こうした意識は、作品を享受する側だけでなく、商品として提供する側にも巣くいやすい。
著作権の一般的な英訳は Copyright で、文字通り解釈すれば「コピーする権利」だ。
この作品を複製して販売する権利は我が社が所有しており、他の誰かが複製してはならない、という権利がCopyrightの原意ではないかと思う。
しかし、「著作権」をこの意味だけに限定してしまえば、元々のオリジナル作品を誰が作ったのかという部分が軽視されてしまう。
極端な話、すでに売れている作家が無名作家の作品をうまく盗んで自分の作品として発表した場合、その有名作家の複製権を持っている企業にとって、無名作家の「著作権」は邪魔なものになる。
無名作家を売り出すよりも、すでに広く知られている有名作家の作品として売ったほうがはるかに効率よく儲かるからだ。

かつて、「今、どんなCDを部屋に置いておくと、かっこいいと思われますか?」と私に訊いた女性がいた。びっくりさせられたのでよく覚えている。「なんかいいCDないですか?」という質問ならまだ分かる。「あなたの趣味に合うかどうか分からないけれど、こんなのはどう?」と勧めることもできるだろう。でも、そうではない。「どんなCDを持っていると、(人から)かっこいいと思われますか?」なのだ。その音楽を自分が楽しめるかどうかは関係ない。自分の部屋に置いておくと、訪ねてきた人に「お、ちゃんと××を押さえてあるね。さすがだね」と思われるCDは何か、というのだ。
この発言の裏にあるのは、文化の価値は自分で決めるのではなく、情報が決めているという意識だろう。それが当然という考え方に、驚かされた。
(ちなみに、彼女は某小説家養成講座の生徒で、「有名になりたい」が口癖だった。
その言葉通り、彼女は今、小説家になり、メディアに多少スキャンダラスな話題も提供している。有言実行。これはこれですごいことだが……。)

大量にものが売れることを支えているのはコピーの技術だ。デジタル技術のおかげで、今は、メーカーだけでなく、一般のユーザーも簡単にものをコピーできるようになった。このことはもはや防ぎようがない。簡単にコピーできるようになったことで、損をする人、得をする人が出てきて、その攻防戦がそのまま著作権論争になっているようなところがある。「コピーする権利は俺が持っている。おまえにはない」「だってコピーできるんだからいいじゃないか。野暮なことは言うな」……という喧嘩。
なんだか身も蓋もない。著作権問題の本質はそうではないはずだ。「オリジナルを尊重する心」こそ、著作権の原意ではないだろうか。オリジナルを作った人は誰かという認知と、その作品をコピーして儲ける(あるいは楽しむ)権利とは、本来別々のもののはずだ。
それがごちゃごちゃになっている一因は、人々が、作品の価値を、質ではなく量だと思い始めていることにもあるように思う。たくさんコピーされることが、作品の価値を決めるのだろうか?

少なくとも、自分の部屋に置くCDくらい、自分で決めなさいと言いたい。売れているから買う、評論家が誉めているから買うのではなく、小説や音楽くらい、自分で探して、自分で評価してくださいと言いたい。
携帯電話の着メロのように、ボタンを押すと空から降ってきて勝手に入れ替わるようなものが溢れている現代では、文化は誰かが用意して与えてくれるものという感覚になってしまうのは当然なのかもしれないが、それでも、「好きなもの」くらい自分で探し出し、決めてほしいのだ。なんでもかんでも人が(社会が? メディアが?)決めてくれる世の中に、魅力ある文化が育つだろうか? コピー文化は、コピーするべきオリジナルがあってこそ初めて成立する。新しいオリジナルを作る人間が出てこないまま、コピーだけし続ける文化なら、コピーが溢れるばかりで、いつかは衰退していくしかない。




sour (c)tanuki

●挿画 sour (c)tanuki (http://tanuki.tanu.net)






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