たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年6月10日執筆  2005年6月14日掲載

靖国神社の「狛犬」 なぜ中国獅子が靖国神社にあるのか?


秋に出版する予定の狛犬本(題名はまだ未定)の原稿をほぼ書き上げ、目下、英訳とDTPの仮レイアウトができあがるのを待っているところだ。
狛犬の本を世に出すとしたら、70代くらいになってからかなあ、と漠然と考えていた。音楽や小説を生み出すエネルギーがなくなってからの楽しみにとっておこうと思っていたわけだが、まさか依頼を受けて書くことになるとは……。

狛犬の写真を撮り始めたのが25歳のときだから、今年でちょうど四半世紀になるが、狛犬についてはまだまだ知らないことがたくさんある。「テレビチャンピオン・狛犬王選手権」なんてのがあって出場したら、予選落ちすること間違いない。(クイズの問題作りならやりたいけど)
特に、灯台もと暗しというやつで、首都圏近郊の狛犬については、ほとんど調べるのを怠ってきた。都内23区内の狛犬は、三遊亭円丈師匠以下、狛研(日本参道狛犬研究会)がほぼ完全なデータを発表しているから、僕はもっぱら地方の、一風変わった狛犬を探し回っていた。
しかし、「狛犬の本」を出すとなれば、メジャーな?狛犬も改めて見ておかなければなるまい、というわけで、重い腰(腰だけでなく、身体全体が重いのだが)を上げて、都内の有名狛犬をいくつか見て回ることにした。

都内のお勧め神社をひとつあげるとすれば、赤坂の氷川神社(港区赤坂6-10)。全部で7対の狛犬と2対のキツネがいて、狛犬は最も古いのが延宝3(1675)年建立。都内の狛犬の中でも2番目か3番目くらいに古い。
他にも弘化3(1846)年の江戸獅子狛犬、明治15(1882)年建立の獅子山(築山の上に獅子が身構えた形で配置され、たいていは複数の子獅子もついている)、護国系狛犬など、まるで狛犬のサンプル集を展示しているような神社だ。

さて、今さらっと「護国系」狛犬と書いたが、これは何か。
全国の護国神社には、胸を張ったいかつい顔の狛犬がいることが多いのだが、形は大体決まっていて、元になっているモデルは大きく分けると4つある。

大宝(だいほう)神社型
 滋賀県の大宝神社(だいほうじんじゃ)にある、国の重要文化財に指定されている木製狛犬(推定年代鎌倉時代。現在は京都国立博物館に寄託)を模したもの。日光東照宮陽明門に置かれた木製彩色狛犬はこれのコピー。
 この狛犬をモデルにした石造り狛犬は、昭和以降、岡崎市の石屋で大量に作られており、「岡崎古代型」などと呼ばれることもある。

東大寺南大門型
 奈良東大寺南大門には有名な仁王像(国宝)があるが、その裏側に、日本最古(建久7=1196年)の石造り狛犬とされている獅子像があることは意外と知られていない。
 これは中国(宋)の石工が中国の石で作ったもので、正確には「狛犬」とはいえないのだが、「日本最古」の石造り獅子という触れ込みからか、これを真似た狛犬が数多く造られている。

籠(この)神社型
 京都府宮津市の籠神社(このじんじゃ)には、一時期、「国産最古」と言われていた石造り狛犬(国重要文化財)がある。現在では、当初の鎌倉時代の作という鑑定には疑問が投げかけられ、安土桃山時代説が有力になっているようだが、ともかく東大寺南大門の中国獅子とは違って、「純国産」で「最古」という評価があったため、これのコピーも多数存在する。

弥彦神社型
弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)は、旧社殿が明治45(1912)年に焼失。大正5(1916)年に、建築家の伊東忠太、大江新太郎が共同で現在の社殿を再建したが、そのとき、伊東忠太の意匠による狛犬が奉納された。この狛犬も人気があり、その後、いくつかコピーが生まれている。

さて、靖国神社には、現在4対の狛犬がいる。古いほうから並べると、
1)大清光緒2(明治9=1876)年
2)昭和8(1933)年
3)昭和38(1963)年
4)昭和45(1970)年
となる。
このうち、2)は弥彦神社(伊東忠太)型(実際に伊東忠太が製作を指揮)、3)はブロンズ製で大宝神社型、4)は籠神社型である。
いちばん興味深いのは1)の中国獅子だ。これだけが明らかに「狛犬」ではない。完全な中国獅子。しかもかなり個性的。

なぜ靖国神社に中国獅子があるのか?
靖国神社の狛犬については、liondogさんがさまざまな資料にあたって詳しく調査しているので、その助けを借りて簡単に説明しよう。

明治期に刊行された『新撰東京名所図会』(今で言えば「るるぶ」東京版みたいなもの?)に次のような記述がある。

石獅子 競馬場*の中央、道路の東頭なる左右に。一双の石獅子あり。
周囲に竹柵を結ひ。漫りに衆庶の悪戯を為すを禁ず。其形内地の製と稍異なれり。
是そ廿七八年の役に遼東より捕獲し来りたるものなり。
当時之を引き来るには。軍役夫中より獅子運搬組といふを編成し。
新に堅固なる車を造り。各個分離して運搬せり。
其の車は紀念として。諸社寺に分納し。現に上野の大師堂にも其の一輌を蔵せり。
雄獅子の台石に。大清光緒二年閏五月初六日敬立。
雄獅子の方に直隷保定府深州城東北得朝村弟子李永成敬献石獅子一対と刻せり。
真に是れ京観といふべきものなり」

*靖国神社の境内にはかつて1周約900mの競馬場があり、明治3(1870)年から明治31(1898)年まで「招魂社競馬」というものが行われていた。参道はその細長い競馬場の真ん中を突っ切る形だった。

また、靖国神社が発行している、『靖国神社百年史資料編』には、さらに詳しい経緯が書かれている。要約すると以下のようになる。

日清戦争(1894-95年)の最中、海城の三学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。そこの総責任者であった石黒忠悳軍医総監が、戦の終結後、軍司令官の山縣有朋を訪ねたおり、この獅子像が非常に面白かったという話をしたところ、そんなにいいものならぜひ日本に持ってきて、「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになった。

「靖国神社百年史資料編」には、現地に残っていた奥保鞏(やすかた)中将(後の元帥)と石黒軍医総監、山縣司令官の間で、寺の獅子像を運び出す手はずなどについてやりとりされた書簡も掲載されている。それによると、奥中将は、「大きいほうの獅子像はいかにも新調物にて見苦しい。青石の獅子は時代もあり、なかなかのものだが一対そろっているものがない。他に病院の寺門前に青石の獅子が4体あるが、どれも大小の差が激しい。そこで、これらの中から、形のよい青石の獅子を一体、他に、白石で時代もある獅子を一対見繕って調達した」(大意)というようなことを石黒軍医総監にあてて書いている。

日本に持ち込まれた一対の獅子と一体の獅子を天皇に献上したところ、「陛下には殊の外ご満悦の状に弄するを得たる上、その白石の一対は靖国神社に、他の一躯即ち青石の分は公に下し賜はりし次第」であったという。

大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納した獅子像は、こうして日本に持ち込まれ、今は靖国神社の参道両脇に置かれている。

なぜ靖国神社に中国獅子があるのかという謎はこれで解けたわけだが、これを読んですっきりしない人も多いと思う。
「この狛犬は、偶々その寺の日本野戦病院たりし縁に由って見出され」「畏くも九重の雲上高く召し上げられて天覧の栄を賜はり」「誠に以て世にも稀なる幸福に恵まれし狛犬よと思はれる」(靖国神社百年史資料編)というが、少なくとも、パンダのように日中友好の証として寄贈されたわけではない。
もちろん、参拝客のほとんどはそんなことは知らない。「面白い"狛犬"だなあ」と思いながら見上げている。
しかし、これは「狛犬」ではない。中国人が中国のお寺に奉納した「中国獅子」なのである。

●靖国神社にある中国獅子
大清光緒2(1876)年、中国海城の山学寺に建立。
奉納者・保定府深州城東北得朝村弟子李永成


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