たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年6月24日執筆  2005年6月28日掲載

文豪たちの悪文

9月1日に出版予定の「文章術」の本(『パソコンで文章がうまくなる!』青春新書インテリジェンス 700円)の執筆で、毎日頭を悩ませている。
文章術について書くのは、これが2冊目だ。他にも、1冊まるまるではなくても、「上手な文章の書き方」とか「文章上達講座」といった企画で原稿を依頼されたことは何度かある。
すべて依頼されて書いたもので、自分から書きたいと思ったことはない。おこがましいと思うし、あんまり教科書的なものは、書いていても楽しくないからだ。

しかし、文章術というテーマは、僕が思う以上に人気があるらしい。よく言われることだが、直木賞作家の書いた小説よりも「直木賞のとり方」というハウツー本のほうがずっと売れたりする。……いや、これはまた動機が別か……。

文章術というテーマで本を1冊書く場合、いちばん大変なのは悪文のサンプルを用意することだ。
実例を出さず、理屈だけ並べても説得力がない。そこで悪文の実例が必要になってくるが、これもできることなら「面白い悪文」であることが望ましい。
文章術の本であっても商業出版物として売る以上、読んで面白くなければいけない。つまらない悪文では、読者は苦痛を覚えるだけで、読み進められなくなるだろう。
悪文であり、かつ適度に面白い……う~~~ん、これは難しい!

今回、短い悪文サンプルは全部自分で作ってみた。しかし、自分で意識的に悪文を作成するのは、普通に文章を書くよりずっと難しいし、時間がかかる作業だ。
まずは、「こういう文章はいけませんよ」と説明したその内容を、できるだけ忠実に実践してみる。

 昨日は運動会でした。朝おきたらちょっとだけ雨がふっていたので、ぼくはリレーのせんしゅにえらばれていたので、ぼくは雨がふったらいやだなあと思っていたので、ぼくはテレビをつけたら、てんきよほうでまゆげのふといおじさんがでていて、ちょっとおこったようなかおで、いまは雨がふっているけれどじきにやむだろうといったので、ぼくはそのおじさんがすこしだけすきになりました。それからぼくはおかあさんが作ったおべんとうのおにぎりをひとつたべました。そうしたら、おかあさんは、あんまりたべたらあとで食べる分がなくなるよといいました。ぼくはおひるもおなじおにぎりかあ、とおもいました。……(以下略)


こういう例なら、なんとか「創作」でも作れる。それでも、短い文章はなんとかなるが、長い文章はきついということが分かった。

次に、自分で書いた文章を段落ごとにバラバラにして、わざと論旨が乱れるように組み立て直してみた。
これは、やってみると、それほど「面白い悪文」にはならなかった。元の文章が大して面白くないからかもしれない。反省。

そこで今度は、他人が書いた文章を元に、まったく違う内容に書き換えてみた。
手始めに、自動車評論家が書いた車の批評をヒントにして、ラーメン評論家が書いたラーメン試食記に書き換えてみた。

凸山軒・あぶらぎっしゅチャーシュースペシャルを食べてみた

 凸山軒のラーメンを食べてみてまず感じるのは、麺がいまいちだということだ。太さはまだいいとしても、時間と競争で萎えていく歯ごたえなど、もう少しどうにかならないものか。スープの色もなんとなくうまそうに感じない。具も、縦に割った煮卵のように、工夫はしているのだが成功しているとは思えない。このラーメンのウィークポイントはこの具にある。もう少しコストをかけても悪くなかったと思うのだが。
 背油はこってり系で楽しいし、ショウガ風味もうまく使っている。私がお薦めするのは背脂オプション付きの「あぶらぎっしゅチャーシュースペシャル」だ。このチャーシューは味付けと煮込み時間が小気味よくバランスされていて、テイスティだ。
 凸山軒のご主人は、このラーメンに凹川苑の博多万歳シリーズのようなコクと味を求めたといっていたが、なるほど凸山軒の「あぶらぎっしゅチャーシュースペシャル」は凹川苑の博多万歳シリーズ「博多っ子純情チャーシュー大将」そっくりの味わいである。
 マニアのなかには、凸山軒の味は底が浅いと主張する人もいる。一口めはいいが、二口めからは、簡単にあと味が予測できて、簡単に食べられてしまうのがつまらないというのだ。が、凸山軒の「あぶらぎっしゅチャーシュースペシャル」を、舌先でコントロールしながら高度に楽しめるようなマニアは、そうそういまい。凸山軒としては大多数の、普通のお客さんが味とチャーシューのボリュームを楽しめるラーメンということで、味や具の構成を決定しているのだ。それはけっして間違いではない。
 では、チャーシュー麺界のライバル、豚治(とんじ)北越谷店の「トントン爆発麺」と比べたらどうか。私なら「トントン爆発麺」を選ぶだろう。かといって、「あぶらぎっしゅチャーシュースペシャル」を選ぶのが間違いだとは私は思わない。


ハンドリングが心許ない→スープのコクがない、といった書き換えをしていくのだが、これはそこそこうまくいった。

最後は、何かいい実物はないものかと、「青空文庫」に探しに行ってみた。
ここには、死後50年以上が経過して、著作権保護期間が切れた作家を中心に、ダウンロードフリーの文章が多数収録されている。
死後50年を過ぎた作家の作品は、誰もが自由に、無料で読めるし、配布できる。昔の作家の作品はデジタルで読めばただですよ、という趣旨だ。テキストファイル作成作業は、多くのボランティアによって行われている。感謝。

僕は今年、死後ではなく「生後」50年である。つまり、僕が生まれるより前に亡くなった作家の作品は、死後50年の著作権保護期間が切れていて、WEB上に公開することにお金はかからない。
もちろん、お金がかからないこと=著作権がない、ではない。その作品を誰が作ったのか、という事実は未来永劫尊重されなければならない。
僕のサイト「タヌパックスタジオ」のトップや、僕の日記ページのいちばん下には「今日の放哉」というのがある。放哉の句が1つ、アクセスしたタイミングによってランダムに表示されるというものだ。これは、尾崎放哉(1885-1926)の死後50年以上経っているから可能なことであるが、これを単に「今日の俳句」として使ってはいけないということは、説明するまでもないだろう。ましてや、「俺が作った」などと言って盗むのは論外である。

どうせなら「文豪」と呼ばれる人たちの文章をサンプルにしたいと思い、まずは五十音順に並んだ作家リストを上からざっと見渡していて最初に目についたビッグネーム・石川啄木(1886-1912)の文章を1つ読んでみた。
「性急(せっかち)な思想」という文章だが、これが恐ろしいほど悪文なのだ。いきなり、想像以上の難物にぶつかり、驚いてしまった。

啄木は人気があったけれど、文章家というよりは詩人だから、こうした論文調のものは苦手だったのか、と思い、次に、直木三十五(1891-1934)と芥川龍之介(1892-1927)という、日本で最も有名になっている文学賞が名前を冠している作家二人の文章を読んでみた。
直木は「貧乏一期、二期、三期」という散文。
芥川は「恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ」というエッセイ風の文章。
どちらも、とんでもない悪文だった。

文豪の書いた文章を悪文のサンプルにして「文章術」を書くことになるとは思わなかったのだが、せっかくだから、これをていねいに分析し、どうしてこういう悪文が生まれたのか、どうすればいい文章になるのかを解明してみた。大胆に添削、書き換えした後の文章も添えた。

ところが、編集部からクレームが出てしまった。「文豪の文章をいじっては困る」というような話ではなく、単純に「つまらない」というのだ。
いくら悪文のサンプルとはいえ、読者にとってこれではあまりに退屈すぎる。そこまでせっかく楽しく読んできたのに、あまりにつまらない文章が出てきて、止まってしまう、というわけだ。

僕の年代以上の人間にとって、いわゆる「文豪」と呼ばれる人たちが実際にはひどい文章を書いていたという話は、それだけでも「面白い」と思うのだが、若い人たちはそうは思わない。昔のオヤジが書いた文章が面白くないのはあたりまえでしょ、と思っているのかもしれない。エンタツ・アチャコの漫才を今聴いても面白くないのと同じで、別に驚くようなことではない、と。
担当編集者も、その上司も、僕よりずっと若い(ああ、僕もついにそういう歳になってしまったのね)。

このギャップをどう克服すればいいのか。
これから先、こういうジェネレーションギャップに根ざす悩みがどんどん増えていくのだろう。そしてすぐに「もう、あんたの感覚や思想が通用する時代じゃないんですよ」と、宣告される日が来るのだろう。

実際のところ、どうなんですかね。
「文豪の悪文」……おまえがわざわざ言わんでも、そんなこと分かっとるわい、ですか?



●つぶれた我が家と地震前に植えたチューリップ
(2005年5月28日 川口町田麦山にて)
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