たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年9月30日執筆  2005年10月4日掲載

ゴミだらけの人生

10.23中越地震で消えたタヌパック越後。その跡地に最後まで残っていた家電ゴミなどを片づけてきたという話は先週書いた。
つぶれた家は解体業者が瓦礫を片づけ、残されたのはアルミの窓枠や家電ゴミなど。しかし、片づけに行ったときは、アルミ材の山はきれいに消えていた。廃墟を回っている廃品回収業者が持っていったのだろう。アルミはまだ「お金になるごみ」なのだ。
家電ゴミの山の中から、なぜかテレビ2台、ガス給湯器、トイレ周りの備品一式、風呂場周りの水道器具一式も消えていた。これらもまだお金になるらしい。
サーモスタット付きシャワー水栓は新品を買うと安くても2万円くらいするので、残っていたら回収しようと思っていたのだが、しっかり消えていた。
残っていたのはパソコンとCRT、古いバッテリー1個、エアコン2台分(室内機、室外機ともに)とパイプ、電気温水器、CDプレイヤー、洗濯機など。すべて「元○○」と呼ぶべきもので、原形はほとんどとどめていない残骸ばかりだ。

これらを、現地で借りた軽トラックに積んで、事前に町役場で発行してもらった「家電ゴミ収集申請書」と家屋全壊の罹災証明書をつけて、指定の回収場所に持っていった。
しかし、そこでは「エアコン、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の家電4品目以外のゴミは引き取れません」とのことで、電気温水器やCDプレイヤー、パソコン、CRTの残骸などは引き取ってもらえなかった。

役場に電話して、どうすればいいのか訊くと、町の粗大ゴミ処理センターに直接持ち込めば処分できるものもあるかもしれないとのこと。
持っていくと、パソコン関連は全部ダメだと断られた。はるばる運んで、ここで引き取ってもらえたのはCDプレイヤーの残骸のみ。
残ったものを廃品処理業者のところに持ち込み、ようやく軽トラックの荷台は空になった。

今日、そのときの請求書が届いた。

鉄くず 0.7m3 3500円
バッテリー 1個 1000円
パソコンリサイクル運搬1個 1500円
パソコンリサイクル処分(モニター1台) 2800円
消費税 440円 合計9240円

もしかしたら何万円も取られるのかと身構えていたので、少しほっとした。
それにしてもパソコンの処分は高くつく。パソコンといっても、外側は自作の木の箱で、小さな基盤(それもぐちゃぐちゃにつぶれて何がなんだか分からなくなったしろもの)だけなのだが、それでもパソコンと名のつくゴミは別扱いとなるらしい。

これだったら、まだ動く、あるいはパーツの一部が利用できる可能性のあるパソコンは、価格1円で送料のみのジャンク品としてヤフオクにでも出したほうがいいかもしれない。希望者と連絡を取り合って発送する手間は面倒だが、ゴミを減らすことにはつながるだろう。物流による汚染は起きるが、ゴミとして処分しても物流汚染は起きるのだから同じことだ。

住宅解体現場から集めてきた浄化槽ブロアーをヤフオクで中古品として売っている人とか、解体自動車から取った部品をこまめに分類してヤフオクで売っている人とか、最近はインターネットのおかげで、リサイクル(リユース)が活発化している。
うちでも、浄化槽ブロアーの中古品をヤフオクで買ったことがある。新品だと2万円以上するが、中古なら3000円から、高くても5000円くらいで落札できる。浄化槽ブロアーなんてものはそうそう壊れるものじゃないし、新品だからどうというわけでもないので、中古で十分。
こうしたリユース活性化は大変にいいことだ。

しかし、ゴミを処分業者のところに運び入れた段階で、ゴミを出した側は気分もすっきりしてしまうが、本当は、その先がどうなっているかまで考えなければいけないのだろう。業者が不法投棄するかもしれないし(その不法投棄先がゴミを回収した元の土地だった……なんてことも大いにありえる話)、合法的に処分されたとしても、結局最後は埋め立てゴミとして捨てられるのだ。
「危険地域」に指定され、ライフライン復旧も断念された我が家の跡地がきれいになる代わりに、どこかの土地が汚れることになる。ゴミ処分といっても、実態はそういうことだ。

ところで、この夏、「シリーズ 地球と人間の環境を考える」(日本評論社)の中の本を何冊かたて続けに読んだ(1冊1600円+税という高価な本なので、中古で買えるものは全部アマゾンの中古本情報で購入した)。
12冊出ていて、
1 地球温暖化(伊藤公紀)
2 ダイオキシン(渡辺正・林俊郎)
3 酸性雨(畠山史郎)
4 環境ホルモン(西川洋三)
5 エネルギー(小島紀徳)
6 リサイクル(安井至)
7 水と健康(林俊郎)
8 ごみ問題とライフスタイル(高月紘)
9 シックハウス(中井里史)
10 バイオマス(奥彬)
11 畜産と食の安全(岡本明治・倉持勝久・牧野壮一)
12 これからの環境論(渡辺正)
……という内容。

このシリーズの編集委員は渡辺正(東京大学教授)伊藤公紀(横浜国立大学教授)林俊郎(目白大学教授)の3人。
僕は知らなかったが、彼らはすでに、地球温暖化やダイオキシンでは、環境派を自認する人たちと大バトルを繰り広げていたらしい。

目下全世界を席巻している地球温暖化キャンペーンのいかがわしさ、怪しさについては、このコラムでも以前、言及したことがあるが、ダイオキシンについての論争には気がつかなかった。
ゴミ消却によって発生するダイオキシンの量などたかが知れていて、到底、人体に影響を及ぼすようなものではない。ダイオキシン法は世紀の悪法である、という主張の本が出ているらしいことは知っていたのだが、不勉強にして、今まで手にとってはいなかった。
中西準子氏の『環境リスク学―不安の海の羅針盤』や、この「シリーズ 地球と人間の環境を考える」の2にあたる『ダイオキシン』(渡辺正・林俊郎著)がそうだった。

リサイクルが声高に叫ばれ始めた当初から、「燃せるものは燃す、というのが正しいゴミ処分法である。その際、コジェネなどでエネルギーを取り出せればなおいいが、無理矢理リサイクルするのはエネルギーの無駄遣いであり、かえって環境を汚染することにつながる」と主張していた学者は何人かいる。しかし、そうした意見は大衆に「受けない」ため、メディアは取り上げようとしない。その結果、一方の情報だけが氾濫してしまう。
「リサイクルをしてはいけない」とか「牛乳パックはゴミ焼却場で燃やそう!」といった挑発的なタイトルやスローガンの本が出版されるにいたって、ようやく、それならニュースになりそうだと、メディアも重い腰を上げ始める。

「ダイオキシン法」は無意味だなどと今頃言われても、すでに成立し、国内での焼却炉建てかえは大方終わってしまっている。新型焼却炉メーカーに莫大な利益をもたらす一方で、ただでさえ財政難に悲鳴を上げている地方自治体を圧迫した、などと言われても、時すでに遅しである。
ちなみに、新型焼却炉の導入など、ダイオキシン対策の名の下に注ぎ込まれた税金は日本全国で数兆円規模になるという。
もともと問題になる量にほど遠かったダイオキシン排出量をさらに減らすためという目的であれば、この数兆円は無意味だったというのが渡辺教授らの意見。
唯一よい点があったとすれば、新型焼却炉導入で、古い焼却炉よりも、黒煙、悪臭、一酸化炭素、塩化水素、ホルムアルデヒド、二酸化硫黄などなどの汚染物質が減ったことだが、そのプラス面と数兆円の税金投入を比べた冷静な議論が行われた結果の新型焼却炉導入ではない。
今からできることがあるとすれば、ダイオキシン法成立を巡って、事前に十分な議論ができなかった、あるいは議論ができるような雰囲気でもなかったということ振り返り、何が起きていたのかをきっちり検証することだろう。むろん、ダイオキシン法そのものの見直し、再考察もしてもらいたいものだ。

ちなみに、ダイオキシン法は悪法であると主張する学者たちも、第一期の環境行政によって脱硫対策や排煙対策などの分野で著しい成果を上げたことはきちんと評価している。
あれをあの段階でやらなかったら今頃大変なことになっていたことは間違いない。(中国がまさに今その段階に来ていて、世界的な環境問題の火種となっている)

薬害C型肝炎、薬害エイズ、アスベスト……。適切な対応をしなかったばかりに多くの死者を出した行政の怠慢は過去にたくさんある。
一方で、「やらなくてもいい対応に巨額の金を注ぎ込んだ」という事例の検証は難しい。それによって直接死者が出るわけでもないから目に見えにくいし、関係者が後から間違っていたと気づいても、なるべく表沙汰にはしたくないからだ。

しかし、本当にダイオキシン法が無意味だとするなら、今まで一生懸命、塩ビラップをやめてポリエチレンラップを買ってきた我々庶民のささやかな努力はなんだったのか。それ以上に、数兆円の税金を「無駄遣い」された挙げ句、正しい情報を封印された我々の「納税義務」や「知る権利」はどうなっているのか。
これだけ正反対の情報が出てきて、我々はどのように判断すればいいのか。
ここまでくると、情報操作との戦いに疲れ果て、考えることをやめてしまいたいと思う人も出てくるだろう。実際僕も、こうした情報の真偽を追いかける作業に、ほとほと疲れ果てている。過去のAICコラムにも、いくつか訂正や補稿を入れる必要が出てきた。時間をかけて考えていきたい。

最後は、生身の人間としての感覚を呼び覚ますしかない。
例えば、今回、越後の廃墟に残った最後のゴミをあっちこっちに持ち込んで感じたことは、これだけの労力と燃料を使ってゴミを移動させ、その結果として得られるものが見合ったものかどうか、ということだ。
ペットボトルを回収してペレットにするとか、牛乳パックを回収してトイレットペーパーにするなどというリサイクルは、直感的に「エネルギー収支マイナスでは?」と感じる。軽くてかさばるものを、トラックの荷台に積んで遠距離輸送し、工場で再びエネルギーをかけて処理する。その結果得られるものが、100円ショップで売っているようなプラスチック製品やトイレットペーパーだとしたら、やっぱり疑問に感じるほうが正常な感性ではないだろうか。
ペットボトルは燃やして熱エネルギーを取り出すのが正しい処理方法である。紙パックはそもそも作ってはいけない。そうした主張のほうが、なにがなんでもリサイクルせよという主張よりはるかにまともに思える。

再生紙よりもバージンパルプを使ったトイレットペーパーのほうが安く売られている現実はどこから生まれるのか。そもそも「リサイクル」という言葉が、ペットボトルや紙パックの環境負荷を免罪していないか。本当に環境負荷を減らす努力をしようとするなら、ペットボトルや紙パックの利便性を捨てて、容器は洗浄だけで再利用可能なリターナブルガラス瓶にする決意も必要だろう。ペットボトルや紙パックを使うことと、リターナブルガラス瓶を使うことの環境負荷、メリット・デメリットをきっちり計算、検証し、正直なデータを公表し、利用者の判断を仰ぐべきなのだ。
それをしないで、力のあるグループが自分たちに都合のいいデータだけを流し、あるいはデータそのものを捏造して情報をコントロールする。そうした情報戦勝者の天下が続く限り、まともな環境問題議論などできない。

周りに人気のない、山奥の建築解体現場で出た木っ端などを、その場で燃やして暖を取ることも禁止し、トラックに積んで遠方のゴミ処理施設に運んでいくことが「環境負荷」の観点から正しいことなのかどうか。
これも、現場を知る人たちがいちばんよく分かっている。
どう考えても馬鹿げているよね、と感じ取るまっとうな力や感性を、行政や法律、そして庶民の善意や正義感が圧殺している。

ゴミ問題は、ほとほと困り果てないと、行政は正しい方向に動き出さないのだろうか。
「シリーズ 地球と人間の環境を考える」の最終章は、こんな話で終わっている。

今、日本では、食糧の4割近くを残飯、つまりゴミとして捨てている。金額にすると年に11兆円。11兆円というのは、日本国内の農業・漁業の年産額とほぼ同じだから、国産の食糧を全部ゴミにしている計算になる。

つまり、まだ日本では「困り果てて」はいないのだろう。余裕があるからでたらめをやっている。あるいは、でたらめな方法で逃げ回っている。
それにしても、ダイオキシン法の号令の下、国内で新型焼却炉導入などに注ぎ込まれた税金の額がこれと同じ規模、つまり「兆」の単位であるという話には、本当に仰天するしかない。
この金で、一体誰がいちばん儲けたのだろうか……。




ゴミ
●中越地震倒壊家屋から運ばれてきた冷蔵庫
(越後川口町、家電ゴミ集積場にて 05/09/20)

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