たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年12月23日執筆  2005年12月27日掲載

タヌキに呼ばれた話(1)

2004年10月28日。新潟中越地方を最大震度7の地震が何度も襲った10月23日から5日後、福島県阿武隈山系にある国有林の一部が競売で落札された。
小さな山を丸ごと1つと、隣接する別の山の南東斜面一帯全部。コナラやクヌギ、モミ、ブナなどの雑木林2箇所の伐採権が、落札価格70万円で民間業者に渡った。
材木にできるような木ではない。落札した業者は山を皆伐(山ごと丸裸に伐採)し、伐った木は細かく砕いてチップにする。
別に珍しいことではなく、日本全国の国有林で、普通に行われていることである。

山、あるいは林、あるいはそこに棲む「何か」が、このときに信号のようなものを発信した……と、今、僕は感じている。
その信号──多分、「霊気」のようなものに呼び寄せられたという話を、何回かに分けて書いてみたい。




1年前の2004年12月14日朝。僕は富岡(福島県)のホテルで、ハイテンションな不動産屋さんと、饒舌な新潟の家裁調停員を前にしていた。
阿武隈の土地を買う契約をするためである。
前日からノロウイルス(要するに牡蠣中毒)にやられ、ここまでは地獄の道中だった。運転席で「わあ、流れ星がきれい!」とはしゃぐかみさんの横で「うぅ……次のPでも停まって……」と弱々しい声を出しながら、トイレ乗り継ぎの旅。おかげで常磐道のパーキングエリアは全部覚えてしまった。
一夜明けても身体はきついまま。
粗相をしないよう、なんとか気を引き締めながら、合計数百万円の現金と小切手を二人の前に差しだし、不動産売買契約を結んだ。

購入したのは国有林に挟まれた千百坪余りの土地と、そこに建っている築10年のプレハブ平屋建ての家(ハウスメーカー製の小さな家で、風情はまったくない)、それに車が3台は入れられる大きな倉庫。
10.23(じゅってんにいさん)で一瞬のうちに新潟(震度7だった川口町)の家を失ってから2か月も経っていない。まさか年内に新居を決めるとは、しかも生まれ故郷の福島県に来るとは思ってもみなかった。

地震からこの契約までは、実に慌ただしい数十日だった。
10.23、川口町が震度7を含む激しい地震に何度も襲われた日、僕らは幸いにも川崎の仕事場にいた。「新潟で震度6強」という第一報を聞いたときも、まさか震源が我が家のすぐそばだとは思わなかった。
小千谷が震度6強と分かってからも、建物が滅茶苦茶になっている状況までは想像したくなかった。

情報はなかなか入ってこなかった。小千谷より川口町のほうが被害がひどいと分かったのも2日くらい経ってからのことだ。
うちからいちばん近いスーパーは川口駅前の「安田屋(あんたや)」だが、見慣れた安田屋が原形をとどめないほど崩れ落ちている映像を見たときは、これはいよいよダメだと覚悟を決めた。
それでも情報が入ってこない。我が家がある田麦山地区の小高という集落は、二十数戸しかない山奥で、そこから先には人家はない。地震後に唯一の進入路が崩れて孤立した。その手前も、道はあちこちで寸断されていて近づけない。
1週間経って、ようやく向かいの奥さんが携帯で連絡をくれた。
「表から見ると一見なんとか建っているけれど、裏から見たら完全に斜めにひしゃげていて、いつ倒れるか分からない状態」とのこと。
やはりダメだったか……。身体中から力が抜けた。

タヌパック越後と名づけた我が家のことは、家を失った記録と一緒に簡単な記録をWEBに置いておくことにした
川崎の長屋にずっと住みたくはない。一日中仕事漬けで、頭がおかしくなる。ここは「仕事場」と決めて、ちゃんと人間らしく暮らせる家を探そうと思ったのが30代半ばのこと。
数百万円で購入できる自然の豊かな環境を探し続けて、行き着いたのが越後のこの地だった。
購入したのは1992年の秋。それから十数年。自分の手で少しずつ建物を直し、もうこれ以上直すところはないという状態にまでなった。冬でも暮らせるように、34万円で四駆を買い、豪雪地帯用車庫も新築。これで永住のめどが立ったと思っていた矢先に、震度7が直撃した。
越後永住計画は、文字通り一瞬にして「つぶれてしまった」のである。

地震の直後は、家を失った喪失感よりも、自分の心の空虚感と対決する気持ちのほうが強かった。
これから先の人生、失いっぱなしのまま、ぐずぐずと気持ちも崩れていくことだけは避けたい。考え方を転換させなければ。
これはきっと、「おまえは安住するにはまだ早い」という天の啓示なのだろう。
そう考えることにした。

ようやく現地に入れたのは、地震後、2週間以上経った11月6日のことだ。
覚悟していたとはいえ、あまりに無惨な状態に言葉が出なかった。
この家は280万円で手に入れ、その後、少しずつお金を注ぎ込んで直してきた。
外壁、内壁は自分の手で張り、屋根も葺き替えた。すきま風吹き込み放題の窓も、一部をようやくアルミサッシに替えて、まだ数年しか経っていない。
それが全部ゴミになってしまった。

家を建て直す(新築する)ことは考えられなかった。今までと同じ規模の家を建てるとすれば、最低でも1500万円はかかるだろう。そんな金はない。
しかも、小高集落は、はやばやと村ごと集団移転をすることを決議し、町と交渉を始めていた。町が住民に出した条件は「代替地を探す代わりに、小高の土地には二度と戻らないこと。倒壊しなかった家屋にも住まないこと。新しく家を建てないこと」というものだった。家だけでなく、事実上、土地も取り上げられてしまったわけである。

そうなるとまったく別の土地、しかも中古の家がついている場所を探さなくてはならない。
越後一帯の中古物件を扱っている不動産業者をネットで見つけ、すぐに家探しを始めた。予算は500万円くらいまでと考えていた。それ以上は我が家の収入レベルでは難しい。
2回目の後片づけのとき、不動産屋さんの案内で何軒か越後一帯の売り物件を見て回った。もちろん、地震の前から売りに出していた物件だ。
しかし、お目当ての物件はことごとく地震にやられていて、まともな状態のものはひとつもない。物件にたどり着くといきなり「倒壊注意」なんて書いた黄色い紙が貼ってあったり、玄関を開けようとしても建物が歪んでいて開かなかったり……。

越後は土地が安い。豪雪地帯だからだろう。しかし、首都圏からは200kmくらいで、関越トンネルができてからは非常に便利な場所である。それ故に、越後以外で魅力のある土地が安く手に入るとは思えなかったのだが、仕方なく、探すエリアを広げた。
そして見つけたのが、奥秩父の中古別荘物件。
小さな会社の社長が社有物件として使っていたものらしいが、経営不振で手放すという。別荘地のいちばん奥にあり、窓からは丹沢山系が一望できる。家具も全部置いていくという。
池袋まで直通電車もあるし、駅からは徒歩15分。FTTHはないがADSLは可能だから、仕事にも問題ない。
価格は500万円では済まず、予算的に苦しかったが、直しが不要ですぐに住めることは魅力だった。購入を決めて、売り主と別れた。
すでに僕の頭の中では、大きな窓から外の雄大な山々を眺めながら原稿を書くイメージが広がっていた。よし、災厄に負けず、むしろこのショックをバネにしていい仕事をしよう……。
ところが、翌日、売り主から入るはずの連絡が入らなかった。不安がよぎる。
予想は当たった。
翌々日、メールが来た。
「もうあの別荘に家族揃って行くことはかなわないのね、と、妻に泣かれてしまいました。もう半年待ってもらえないでしょうか……」
といった内容だった。

実は、この物件を見に行く途中、かみさんが突然車の中でものすごい頭痛に襲われた。その別荘につくなり、かみさんは別室のベッドを借りて寝込んでしまった。
それも何かの予兆だったのだろう。これは縁がなかったのだと思い、諦めた。
実際、かみさんは最初から乗り気ではなかったようだ。
いい物件ではあったが、やはり何かが違う感じはあった。
なによりも「別荘地」というのがよくなかった。我が家はそうした土地には生涯縁はなかったのだ。

かみさんの頭痛は、ストレス性の過労によるものと診断された。聞けば、地震からずっと、毎晩地震の夢を見てちゃんと睡眠が取れていなかったらしい。
「タヌパック秩父」が幻として消えた翌々日、今度はかみさんがネットである物件を見つけた。
「ねえ。これ見て!」
そう指さしたのは、家の写真ではなく、雑木林の写真だった。
冬枯れて落ち葉が敷き詰められた雑木林。美しい光景だった。
「これが家の前の景色なのよ。国有林ですって。沢も流れていて……」

この不動産屋のサイトは、僕も数日前にチェックしていたが、そのときはこの物件は載っていなかった。
意気消沈していたかみさんの気を紛らせる意味で、とりあえず遠足気分で見に行こうかと提案した。
不動産屋に電話してみると留守電になっている。ああ、これもまた縁がなかったのかな、と思い、そのまま受話器を置いた。
ところが、夜になってその不動産屋から電話がかかってきた。こちらの電話番号が記録されていたらしい。

「福島の、国有林に挟まれた物件のことで……」
と言うと、すぐさま、
「あれは一昨日ネットに出したばかりなんですが、すでに買いたいというお客さんがいて、明後日、現地をご案内することになったんです」
とのこと。
ああ、やっぱり縁はなかったのか。
しかし、逆に気が楽になり、ひやかしで「ついでに僕らも一緒に見せてもらえませんか」
と訊いた。
「一緒というのはこちらとしてもやりにくいので、では、午前と午後に分けてご案内しましょう。先約のお客さんは午後にいらっしゃるので、午前中はどうですか?」

不動産屋さんは埼玉なので、現地を案内するのも1日仕事、午前中からとなれば前泊して乗り込むことになる。しかし、すでに買う気満々の先約客がいるなら、ひやかしも気が楽だ。
「高くてどうせ買えないんだから……」
と言うかみさんはしかし、この物件が非常に気になっているようだった。
「こんな雑木林が目の前にあって、沢が流れている家なんて、そうそうないでしょ?」
確かにそうだ。田舎の中古物件は、越後の家を買う前にもずいぶん見て回ったから、どの程度のものがいくらくらいで手に入るかは大体分かっている。本当に魅力的な物件が安く出ることは滅多にない。
写真を見る限りでは、実に魅力あふれる物件であることは間違いなかった。

現地を訪ねたのは2004年11月29日。
かみさんが「すばらしい」と絶賛した雑木林は、写真の通りで、嘘偽りなく存在した。
南東と北西に国有林。南東側は植林されたカラマツ林だが、手入れはまったくされておらず、何本かは倒れている。
北西側は若い雑木林で、訪れたときはすっかり落葉し、ドングリがたくさん落ちていた。かみさんはカラマツ林よりも、この雑木林のほうが気に入っていた。家は半分そっちのけで、林の中にずんずん入っていき、はしゃいでいる。
結局、この雑木林が決め手だった。

午後に来るはずだった先約客は、不安を感じたのか、11時頃に到着し、僕らとかち合った。60前後の夫婦だった。
彼らは即座に購入の意志を不動産屋に伝えた。
しかし、その前に、僕らも不動産屋さんに「買います」と伝えていたのだった。正直、経済的にはかなり無理をした決断だった。
「ネットに写真を出して数日で買い手が同時に二人もつくなんて」と、不動産屋さんは嬉しい悲鳴を上げた。

そして2週間後、僕らはこの国有林に挟まれた土地と、小さなプレハブ平屋と、家よりも立派に見える倉庫を手に入れた。
契約の日、越後から救出した荷物も到着した(実は、地震で道が荒れているから被災地に入るのは怖いと、大手の引っ越し業者に何社も断られ、引っ越しも大変だったのだ。ようやく引き受けてくれたのは新潟にも福島にも支店を持っていない群馬県の中小業者だった。感謝)。

2004年12月26日。僕らは阿武隈の新居に入った
この時点で、まさかここを購入する決め手となった雑木林が、すでにチップ業者の手に売られていて、皆伐の運命にあるなど、夢想だにしなかった。
(続く)



●その雑木林から見下ろした新居
(2004年11月29日 初めて訪れた日に撮影)

(c) Takuki Y. http://takuki.com

  目次へデジタルストレス王・目次へ     次のコラムへ次のコラムへ

★タヌパック音楽館は、こちら
タヌパックブックス
★狛犬ネットは、こちら
★本の紹介は、こちら
     目次へ戻る(takuki.com のHOMEへ)


これを読まずに死ねるか? 小説、電脳、その他もろもろ。鐸木能光の本の紹介・ご購入はこちら    タヌパックのCD購入はこちら