たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年5月18日執筆  2002年5月21日掲載

本の本質


文藝ネット(http://bungei.net)の掲示板に、視覚障碍を持つかたから「音声ブラウザと呼ばれる、画面を音声に変換するソフトを使って、このフリー図書館の文芸作品を読むことができません」という書き込みがあった。
文藝ネットでは、長文の原稿に関してはフォント埋め込みのPDFファイル(Adobe社のAcrobatのファイル形式)か暗号化QTViewテキスト(テキストファイルだが暗号化されていて、専用ビューワを使うと正しく読める)、短い原稿は縦書きHTML(特殊なレイアウトによってブラウザ上で擬似的に無理矢理縦書きに読ませる)という方式を使っている。そのどれもが視覚障碍者用に開発された音声読み上げソフトでは読むことができない。

この問題は当初から分かってはいたのだが、他の問題とのかねあいもあって、そのままになっていた。言い訳じみてしまうが、そもそもWEB上で文芸作品を提供していくこと自体、著作権や縦書き表示の技術など、いろいろな問題を抱えている。それらを一つ一つ解決していくだけでも、ずいぶん手間がかかってしまったのだ。
問題のひとつは、WEB上に掲載された作品はデジタル化されているためにコピーが容易で、改竄や不法再配布されやすいという危険性だ。
著者にとって、編集者に渡すのと同じ原稿を「ご自由にお取りください」という形で一般公開することには大きな抵抗がある。無料で公開することそのものも、執筆で食べている人間にとってはそれなりの決意を必要とするが、盗作や改竄の危険性には、さらに神経をつかわざるをえない。

例えば、ある物語のテキストファイルを自動英訳ソフトにかけて英語化してしまう。英訳ソフトは不完全だから、生成された英文はそのままでは使い物にならないが、大体のプロットなどは分かるはずだ。
この滅茶苦茶な英文を、原典をまったく読んでいない英語ネイティブの人間に読ませて、意味の通る物語を再構築させることは簡単だろう。なまじ原典を読んでいないだけに、適度な想像力を働かせながら改作していくには、でたらめな英文であることはむしろ都合がいいかもしれない。
その結果できあがった英文の物語を、どこかの国で「新作」として出版したらどうなるだろうか。盗まれた側はなかなか気づかないに違いない。もし気づいたとしても、もともと売れていない作品、あるいは出版されていない作品なら、まず間違いなく「原作者」は泣き寝入りとなりそうだ。
日本推理作家協会は、こうした事態を懸念して、テキストファイルによる文芸作品配信には反対するという立場を表明している。

部分的な盗用なども、テキストファイルが手元にあれば簡単にできてしまう。物語のようなフィクションより、データなどが満載されているノンフィクションのほうが被害に遭いやすいかもしれない。
最近、ホテルガイドの本に、インターネット掲示板に書き込まれた文章がそっくり使われた事件があったが、あれもデータがデジタルであったからこそ、簡単にできてしまうわけだ。元手をかけずに本を出版して売り抜けてしまう方法がある以上、手を出す人間は出てくる。
元データを暗号化するQTView暗号化方式などは、その危険性を少しでも減らすために、「読めるけれどもコピーできない」仕組みの一つだ。

縦書きの問題というのはまた別だ。
英語文化圏で生まれたコンピュータソフトやインターネットの世界では、そもそも文章を縦書きに表示するという発想がない。文字データは左から右への横書きで表示されるのが当然とされている。
しかし、日本語の文芸作品は縦書きが当然で、作者の多くは、作品が横書き表示されることに抵抗がある。横書きでは雰囲気が壊れてしまうと感じるからだ。
そこで、WEB上でもなんとか縦書きに表示しようという涙ぐましい努力が積み重ねられ、縦書きHTMLとか、PDFファイルでの表示など、様々な方法が取られてきた。
しかし、これらの縦書きの工夫は、音声読み上げソフトにとってはすべて仇となり、認識できなくなってしまう。

縦書きか横書きかは、作者にとってはかなり大きな問題だ。僕自身、秀丸エディタでは横書きしかできないため、QXという縦書きができるエディタに乗り換えた。最終的に縦組みで印刷される本を書くのに、横書きで書いているのはどうしても違和感があるからだ。
文章を書くことを職業にしている人たちには、こうしたこだわりがたくさんある。
文字コード問題などはその顕著な例で、「私の筆名に使われている『吉』という字は下が長い『つちよし』だ」、とか、「私の作品の中では、『掴む』という字は、必ず右側が『國』になっている正字の活字に差し替えてくれ」などなど、著作者は出版社にいろいろな注文を出す。

しかし、考えてみると、こうした問題は文章の本質には関係がない。
視覚障碍者は最初から文字が見えないので、縦に書いてあろうが横に書いてあろうが、「吉」の字の上が「士」だろうが「土」だろうがあまり興味はないだろう。ましてや、字体のデザインが平成明朝だろうがリュウミンライトだろうがヒラギノ明朝だろうが関係ない。ひたすら文章の意味を追い、内容の価値を見極める。
つまり、視覚障碍者は、文章以外の付加的な要素に左右されず、純粋に文章の価値を評価しやすい読者だとも言える。

文章の価値とはなんなのか?
このことを、文章を書く人間は、もっと真摯に考え直す必要があるだろう。

「本が好きだ」という人はたくさんいる。しかし、「本が好き」イコール「文章を読むのが好き」とは限らない。中には「本という物質としての存在が好き」という「本好き」も多いからだ。

最近は自費出版本を一般の書籍流通ルートにのせる商売が成功しているらしい。
「あなたの本が国会図書館に保存されます」「一般書店に並ぶので、自費出版とは違います」というPRで客(執筆者)を集める。その結果、「父さん自費出版、母さんカラオケ」と言われるほどのブームが起きていて、自費出版専門業者の中には、社員数人で年商10億円を誇る会社もあるらしい。

この商売で大切なことは、決して安っぽい装幀にはしないことだ。必ずハードカバー製本にして、中身の薄い原稿でも、極力分厚く、束(つか)の厚い本に仕上げる。
「立派な本になり、国会図書館や一般書店に並んだ」という「目に見える形」が必要だからだ。
本の外見にこだわることは、何も自費出版業界だけではない。一般の編集者や著者も、本のパッケージングには大いにこだわる。装幀や本文デザインは、編集の仕事の中でもいちばん楽しい部分だろうし、本作りのプロとして、そうした「形」にこだわることは当然だ。

その意味では、僕はあまり「本好き」とは言えない。もちろん、美しい装幀の本は好きだし、自分の本が自分の趣味ではない装幀で世に出るのは哀しいが、それよりも、多くの人に読まれることが大切だと思ってしまう。
どんなに趣味ではない装幀になっても、編集者に文句をつけることは控えている。僕の原稿を認めて、より多くの人に読んでもらいたいと願っている編集者が、その装幀で本を出すことが「売れる」ことにつながると信じているなら、それ以上は反対できないからだ。

僕自身、読者としては、装幀が立派かどうかなんてことはどうでもよくて、軽量で持ち運びやすく、字が大きくて読みやすい本を好む。もちろん、値段は安ければ安いほどいい。
そうなると、当然、ハードカバーよりは、文庫本やソフトカバーの本のほうが好ましいということになる。
100円ショップのダイソーでは、400枚クラスの小説を100円の文庫本として売っているが、あれなどは合理性を究極まで突き詰めた形と言えるだろう。
しかし、100円文庫に書き下ろしされた小説がどんなに素晴らしい作品であっても、今はまだ、メジャーな文学賞の候補にはあがらないだろうし、正当に評価されにくい。そのへんもまた、本の「形」にからんだ問題だとも言える。

本の本質とは何か?
もちろん、文章そのものであり、文章の内容であるはずだ。しかし、考えれば考えるほど、書き手も読み手も、本の「形」に縛られていることに気づかされる。
本の本質を追究していくと、形としての本はどんどんなくなり、デジタルテキストに近づいていく。視覚障碍者にとっての「本」は、最初からそういう「形のないもの」だった。

将来、本の本質が、視覚障碍者にとっても目の見える人々にとっても、ほとんど同じものになる時代がくるかもしれない。文章がファイルとして普通に流通する時代だ。
「本好き」の人には怒られるだろうが、僕はそうした時代が、必ずしも今より悪い時代だとは思わない。
むしろ、本が本という「形」ゆえに、流通システムの矛盾を抱え、本「質」を落としていく現状を見ていると、印刷の発明以来の変化をもたらす本格的なデジタル出版革命が、早く起きてほしい気もする。

花園神社の狛犬

■写真 花園神社の狛犬(茨城県北茨城市華川町花園。恐らく江戸中期建立) 撮影 鐸木能光