たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2006年4月21執筆  2006年4月25日掲載

「軍艦マーチ事件」の想い出

最近、小学校の同窓生数人とたまに飲み会をやる。
僕は中学・高校と6年間、私立の男子校に通ったので、思春期に楽しい想い出が少ない。
同窓会に出ても、おっさんが集まり、会社の話だの株の話だのゴルフの話だのをするばかり。ちっとも面白くない。
そこへいくと、小学校の同窓生というと、よほど仲がよかった何人かを除けば、ほとんど記憶もない。卒業アルバムを見せられて、「ほら、ここに写っているのが私」なんて言われて、初めて、ああ、そんな子がいたかもね、と思う程度。その記憶の薄さが心地よい。

数人で集まり、次は××に声をかけてみよう、なんて言い合っている。僕はいつまでも今の数人のままのほうが心地よい気がするのだけれど、記憶の片隅に眠っていた女の子の名前があがったりすると、懐かしくなり、「おお、呼べ、呼べ」なんて調子を合わせている。

そんな中に、弘子ちゃんの名前が出てきた。
子供の頃はなんとも思わなかったのに、大人になってから「ああ、あの子はいい子だったな」と思う子がいる。
弘子ちゃんはそんなひとりだ。

弘子ちゃんの想い出は2つある。
1つは卒業してからのこと。
僕は6年生のとき、ずっと真也子ちゃんという帰国子女が好きだったのだけど、ついに気持ちを伝えられないまま別れの時が来てしまった。彼女は卒業式を待たず、父親の仕事の関係で、またアメリカに行ってしまったのだ。彼女の姿がない卒業式の、なんと味気なかったことか。
これで一生会えないかと思っていたのだけれど、その後、風の便りに、真也子ちゃんと仲のよかった弘子ちゃんが手紙をもらったと聞いた。

そこで数週間悩んだ挙げ句、電話ボックスから弘子ちゃんの家に電話をして、「真也子ちゃんの住所教えて」と頼んだ。
弘子ちゃんは別にひやかすでもなく、「え~と、2・4・2・5、えすえっちえーあーる……と、アルファベットを1文字ずつ読み上げて教えてくれた。落ちていく10円玉の残りを気にしつつ、必死にメモした。

真也子ちゃんに出した熱烈なラブレターは、無視されることなく返事がきて、その後、大学に入る頃くらいまで文通が続いた。100通以上は書いた。
僕の文章力はそのとき培われたものである。

だが、今日は真也子ちゃんではなく、弘子ちゃんの話である。

弘子ちゃんはほんとにいい子だった。
小学校5年生のとき、僕は放送部というのに入った。
放送部員は、朝礼のとき、放送室に入って集合の合図になっているマーチ『双頭の鷲の旗の下に』をかけたり、給食のとき、放送室に行ってお昼の音楽をながしたりする。それがなんだか「他の生徒とは違うことをしている」という特権意識につながり、気持ちがよかった。
朝礼のときなどは、校庭でラジオ体操をしている全校生徒を、朝礼台より高い放送室の窓から見下ろしているのである。気分が悪くないわけがない。

その放送部で、アナウンサー役をやっていたのが弘子ちゃんだった。柔らかな嫌みのない声で、なかなかの適役だった。

ところが、6年生になったとき、放送部希望の子供が多くて、僕はジャンケンで負けてしまい、放送部に入れなかった。
配属されたのは運動部というところ。運動をする部ではない。体育用具室の掃除をしたり、運動会の前に校庭に白線を引く手伝いをしたりする、えらく地味な仕事だった。

弘子ちゃんは6年生になっても放送部に残っていた。そこで、弘子ちゃんが給食のときの放送担当をする日には、僕はこっそり「部外者」なのに放送室に侵入させてもらい、いっしょにそこで給食を食べた。

放送室には「マーチ音楽集」というLPレコードが1枚あった。その中の『双頭の鷲の旗の下に』だけは、朝礼のときの集合合図に使われるため、すり減っていたが、他の収録曲はほとんど再生されることがなかった。
運動会のときには使われてもよさそうなものだが、運動会のときは『ウィリアムテル序曲』なんかが入っている「運動会用」の別のレコードがあって、もっぱらそれが使われていた。要するに「○○のときは××という曲を流す」というマニュアルがしっかり決まっていて、生徒が勝手に選曲することなどはできなかったのだ。

給食の時間のときに流す曲も決まっていて、『子犬のワルツ』とか『ユーモレスク』とか、消化の助けになりそうな?無難な曲しかかけられなかった。
僕はよく放課後、こっそり放送室に忍び込んでは、仲間と一緒にそこにあるレコードを聴いていた。そうこうするうちに、すっかりマーチ音楽が好きになってしまった。
『双頭の鷲の旗の下に』が入っているLPには、他にも『星条旗よ永遠なれ』『キング・コットン』『ワシントンポスト』といった、マーチ王、ジョン・フィリップ・スーザの名曲や、『軍艦マーチ』(正式な曲名はただの『軍艦』らしい)『君が代行進曲』といった国産マーチなどが入っていた。どれも小学6年生の僕には、メロディの分かりやすい名曲として心にしみいった。

卒業式も近いある日、僕はついにかねてからの計画を実行に移した。
その日の給食時の放送担当には弘子ちゃんが入っていた。計画決行には彼女の協力が不可欠。
いつものように、「部外者」であるにもかかわらず、大きな顔をして放送室に忍び込んだ僕は、弘子ちゃんにこう告げた。
「今日はマーチ音楽特集をやります、ってアナウンスして」
もちろん弘子ちゃんはびっくりした。
でも、そんなに抵抗することもなく、「ほんとにいいのね?」と言うと、引き受けてくれたのだ。

その日の給食時間。全校の教室に弘子ちゃんの涼しげな声が流れた。
「お昼の音楽の時間です。今日は特別に、マーチ音楽特集をお楽しみください。一曲目は、瀬戸口藤吉作曲、軍艦マーチです」
次の瞬間、小学校中に、名曲『軍艦マーチ』が響き渡った。

放送部の顧問は、当時の担任・上野和(かのう)先生だった。職員室から血相変えて飛んでくる。もちろん、そんなことは百も承知だ。
男の放送部員と僕が放送室の防音扉の裏側に張り付き、ガンガン叩かれるドアを必死で押さえつけた。
そうしている間にも『軍艦マーチ』は流れ続ける。
上野先生は2、3分の間、「開けろ! 何やってるんだ!」と大声を上げながらドアを叩いていたが、やがて諦めて職員室に引き上げていった。
犯人が僕であることはもちろん承知の上だっただろう。

その後、どんな風に怒られたかはあまり覚えていない。
「まったく、なんてことしてくれるんだ」と、苦笑していただけのような気もする。
上野先生が3分で引き上げてくれたおかげで、野川小学校始まって以来(多分)の、「生徒の自主的企画によるお昼の音楽放送」はやり遂げられた。
45年経った今でも、いい想い出になっている。

そんなわけで、弘子ちゃんには、僕は2つも借りがある。もし会えることがあれば、まっ先にあのときのお礼を言わなくては。(全然覚えていなかったりするんだろうけど)

うん、今度は弘子ちゃんも呼ぼうね>幹事の矢島君



●うとうと


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