たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2007年1月26日執筆  2007年1月30日掲載

想い出に残る宿(3)U屋旅館

いよいよ想い出に残る宿シリーズ・第1位の発表である。
栄えある???第1位は、U屋旅館(山形県)に決定!

訪れたのは1986年8月18日。
この日付は「狛犬データベース」で確認した。その旅行のときに訪れた新潟県村上市の岩船神社の狛犬が、その日に撮影したと記録されていたので分かった。
結婚して5年目の夏ということになる。
音楽業界から完全にはじき出され、本を出すなどということも夢のまた夢。ひたすらチャンスを切り開こうとあがいていた時期だ。

今の仕事場になっている木造長屋を買ったのもこの年だった。
通勤していない強みで、毎日新聞を隅から隅まで読み、折り込みチラシも、特に古家物件情報にはよく目を通していた。
すると、今まで2000万円前後で結構物件が出ていたのが、突然、値が上がり始めたのに気がついた。
バブルが始まる前兆だった。
これはまずい、と、周りから借金をしまくって、無理をして木造長屋を購入したのだった。
これは本当にタッチの差で、購入後1年で周囲の不動産価格は軽く倍になった。

そんな時期だったので、旅行するにもお金がない。そこで、500円玉貯金をして、貯金箱が重くなると、それを持って旅行にでかけた。

それまでによくやっていたのは、ラブホ一泊&民宿一泊の週末旅行。
OLをしていたかみさんが戻る金曜日の夜、家でほとんどプータロー(今はニートというのかな)状態だった僕は、ひとりで旅行バッグに着替えなんかを詰め込んでかみさんの帰りを待っている。帰って来るなり、晩飯も食べずに車で出発し、その日は走れるだけ走って東京から離れる。大体200kmくらい走ると夜中の11時くらいになるので、そのへんでラブホに泊まる。
東北道だと、頑張って郡山あたり、頑張らないと鹿沼IC。
中央道だと諏訪あたり。
東名道だと無理をして名古屋まで行き、さらに頑張って名阪国道に入ったあたり。頑張らないと沼津あたり。
翌日土曜日は一日遊んで、予約を入れてあった民宿に泊まる。日曜日も日没まで遊んで、そのまま一気に帰ってくると、家に着くのが深夜。
かみさんはそのまま月曜日も早起きして出勤だったから大変だった。
若いからできたのね。
長屋を買った1986年頃にはかみさんはOLをやめて僕と一緒にライターや編集関係の仕事をやっていた。だから、休日を避けて、平日に旅行することができた。
夏ならば、お盆休みの時期は外す。

で、1986年の夏(お盆休みの後)は、日本海沿いに山形県あたりまで上ってみようという計画を立てた。
目をつけたのは、山形県にある由良(ゆら)温泉。海沿いにある小さな温泉地だ。例の「宿泊帳」で「U屋旅館」というのを見つけて予約しておいた。
近くには温海温泉、湯野浜温泉、湯田川温泉というのもあるが、なにせ貧乏旅行だから、いわゆる「温泉地の温泉旅館」に泊まるだけのお金がない。
由良温泉はなんとなく安い宿がありそうな気がした。U屋旅館は一泊8000円で、普段の感覚からすると相当高い宿なのだが、夏のせっかくの旅行だからそのくらいは張り込もうということになった。

神社の狛犬を見ながら由良温泉に着いたのは夕方。
温泉と名前が付いてはいるものの、実際にはいわゆる温泉街ではなかった。ひなびた漁師町という風情。
予約していたU屋旅館を探したが、いくら探しても見つからない。
海岸沿いの集落の常で、道は細く入り組んでいる。すれ違うどころか、通り抜けられるかどうかも怪しいような細い路地を車で行ったり来たり。
それでも見つからない。
案内図を見ても、いくつもある宿泊施設の中にU屋旅館の名前は見つからない。
仕方なく、道を歩いているおじさんを呼び止めて訊いた。

「すみません、このへんにU屋旅館というのがあると思うんですが……」
呼び止められたおじさんは、U屋旅館と聞くなり、たちまち顔を曇らせた。
「U屋? あんたら、あそこに行くの? なんで?」
「なんでって、今夜泊まるのに予約してあるんですけど」
「予約? ええ〜? あそこに泊まるの? やめておきな。安くてうまいもん出す民宿がいっぱいあるから、いくらでも紹介してやるよ」
「でも……予約しちゃったんで……」
「どうしても行くというなら止めるわけにもいかないけどね。やめといたほうがいいけどなあ。この道を戻ったところの左側だよ」
そう言うと、おじさんは首をかしげながら去っていった。

いや〜〜な予感満ち満ちたまま、ゆっくりUターンすると……あった。
黒く煤けたような看板に、かろうじて「U屋」という文字が読み取れる。
木造の古い建物だ。
玄関に入ると、暗い顔をした女将が小走りに出てきた。
「電話で予約した鐸木ですけど……」
「はい! お待ちしてました」
どうやら今度はすっぽかされてはいないようだった。

しかし、他に客がいる気配はない。
女将はすぐに部屋に案内してくれた。まるで逃げられては困るとでも言うかのように。
部屋は二階だった。
「こちらです」
と案内された部屋を見て、これは現実だろうかと目を疑った。

まず、床がどう見てもまっすぐ(水平)ではないのだ。傾いている上に、畳が波打っている。
一歩足を入れると、ズボっとめり込むような感触があった。
部屋は広いのだが、逆にその何もない空間が気味悪い。
女将は僕らが部屋に入ったのを見届けると、逃げるように下に行ってしまった

他に客がいないようなのに、よりによってなんでこんな畳が腐った傾いた部屋に……。
もっとましな部屋に替えてもらおうと、一旦部屋を出て、廊下を挟んだ隣の部屋(そこも無駄に広い)の障子を開けると……。
あああ〜ダメだ。こっちは畳が波打っているどころか、畳があちこち剥げている。完全に穴が空いて、下の板が見えている部分もある。
……ということは、案内された部屋がいちばんマシな部屋……?
「あそこに泊まるの?」
と言ったさっきのおじさんの言葉が甦った。あの言葉をもっと深刻に受け止めていれば……。
しかし、心根の優しい僕らは、ここで「帰ります!」と言って出ていくことはしないのだった。

まあ、部屋の凄まじさは眠ってしまえば関係ない。真夏だから、いつかの「Nの湯」のように、息が白くなる部屋で凍えることもない。
飯くらいはちゃんと出てくるんだろうと思ったら、これが甘かった。
ひどいとか、貧しいとか、そういうレベルのものではない。
「食えない」のである。
出てきたのは、明らかに焼いて1日以上経過し、堅くなった「元焼き魚」。
冷えたというのではない。昨日、あるいは一昨日調理したまま捨てずにどこかに置いてあったという代物なのだ。おそらく、お盆休みの時期、他の宿が満杯で仕方なく迷い込んできた客用に焼いたものの、やっぱりこんな宿は嫌だと逃げられて余ったものだろう。
それを捨てずに取っておいたのか……。
勇気を出して箸を付けてみたが、堅くて身がほぐれなかった。
結局、空きっ腹に入れることができたのは、飯(これも冷えていた)と味噌汁くらいしかなかった。

温泉というのだから、風呂は……と思って行ってみると、あまりの汚さに、脱衣場からUターンしてきてしまった。狭かったし、洗濯機だの洗濯物だのもあったから、多分、客用の風呂場はとうの昔につぶれてしまって、ここは家族が普段使っている風呂なのだろう。貧乏下宿の風呂場でももう少しきれいだろうと思うような、戦慄すべき空間だった。

これはもう悪夢としか言いようがない。これ以上の災難だけは避けたい。
宿に泊まって、他の客ではなく、宿の人間を警戒して財布をしっかり隠したのはこのときが初めてだ。
当然、部屋に鍵などかからない。寝ている間に襲われたらどうしようと、本気で怖かった。

翌日、これまた生卵くらいしか出ない朝食の後、女将が会計にやってきた。
念のために訊いてみた。
「おいくらですか?」
「おビールが1本入って1万7000円です」
しっかり一人8000円を取るのだからすごい。お化け屋敷体験料としてはあまりに高いぞ、女将。
僕はこつこつと貯めていた500円玉貯金から、宿泊代1万6000円+ビール代1000円なりを支払った。
500円玉だけで33枚である。
33枚の500円玉を、女将は両手ですくい取るように受け取ると「ちょっとお待ちください」と言って部屋を出て行った。
どこへ行ったのかと、空いたままの障子から身を乗り出して覗くと、女将は廊下を隔てた隣の部屋(畳が一部なくて床下が見えている部屋)に入り、500円玉を剥げた畳の上に置いて1枚1枚数えているのだった。
その顔には、言いようのない薄ら笑いを浮かべている。
数え終わり、戻ってきて、「ありがとうございました」と言ったときには、もう笑顔は消えていた。

U屋旅館に何が起きたのか、一体何が原因で廃れたのか、廃屋同然になるまで廃れながらも、なぜ旅館を続けているのか……何もかもがミステリー。特に、女将の人生には興味を覚える。この土地の人ではないような気もした。なんか、横溝正史ワールドだなあ。

というわけで、今回で一応「想い出の宿」シリーズは完結である。
第3位のK温泉、第2位のNの湯、ともに忘れがたいが、インパクトの強さではこのU屋旅館には到底及ばない。
生きている間にもう一度くらい由良温泉を訪れてみたい気もする。
今回、この原稿を書くにあたって、ネットで検索してみたが、「U屋旅館」は見つからなかった。当然、廃業したのだろう。部屋が水平ではなかったくらいだから、建物が残っているかどうかも怪しい。もしかしたら、僕らはU屋旅館最後の客だったのかもしれない。
あのお化け屋敷が、その後、奇跡の復興を遂げて地元でも有名な繁盛旅館になっている……なんてことがあれば面白いけれど、そんなドラマは望むべくもない。
となれば、今度あの地を訪れるときは、付近でいちばん高級そうな宿に泊まって、U屋旅館の想い出を肴に、美酒を飲みたいものである。




●由良温泉からの帰り、国道7号線旧道にて
(1986年8月19日 新潟県朝日村)




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