たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2007年3月23日執筆  2007年3月27日掲載(最終回)

梁山泊と青虫

今週のAICは、執筆者の多くが、原稿の最後に「ご愛読ありがとうございました」と書いているはず。
僕はAICには2002年1月から参加させていただいた。数えてみたら、5年3か月で263本(多分)のコラムを書いたことになる。
AICには足かけ10年の歴史があり、そのへんのことは大先輩の本田成親さんがすでに書いていらっしゃる

AICは朝日新聞社の梁山泊だと、僕は当初から解釈していた。
だから、AICで書いてみないかと言われたときは、梁山泊に入れてもらえるなんて、なんという運だろう(運がいいとか悪いとかではなく)……と、興奮したものだ。
梁山泊の首領はもちろん穴吹さんだ。
穴吹さんは僕のことを「変な人よ〜」などと人に紹介するのだが、梁山泊の開祖から、さらに「変な人」と認められるのは誇らしい。
穴吹さんとの出会いは、以前、故・永井明さんのことを書いたコラムにちょこっと出てくるので、その部分を、多少手を入れて再掲してみる。


〜四谷三丁目のピアノバーみたいなところで、大野雄二トリオを招いたパーティがあると、永井さんから誘われた。落語家・柳家小りん、編集者・穴吹史士、作家・永井明の「快気祝い」というふれこみのパーティ。
大野雄二さんは僕が大好きな作曲家のひとりで、昔、ビクターから一瞬デビューしたときには、大野さんの作曲した『丸井からありがとう』というキャンペーンソング(クレジットの丸井が創立20周年だか25周年だかの記念に作った歌)を歌ったこともある。ベースの鈴木良雄さんも尊敬するアーティストなので、純粋に音楽を聴きに行った。
その席上で、このAICをひとりで切り盛りしている穴吹さんを紹介していただいた。それがずっと後になって、AICで書かせていただくきっかけとなっている。
ちなみに、このとき、穴吹さんは最初の癌からの生還祝いだった



このときの穴吹さんは、怖い顔をしていた。店の中が暗かったせいもあるかもしれないが、永井さんが僕のことを紹介したときも、一瞬ギロッと睨んだだけで、ほとんど話もできなかった。名刺はいただいていたので、その後、本が出るたびにしつこく謹呈し続けた。
天下の朝日新聞の編集者ということもあるけれど、永井さんがわざわざ紹介してくださったのだから、きっとすごい人なのだろうと思ったからだ。

当時の僕は、小説は出ない、経済破綻、家庭崩壊……と、人生最悪のときだった。
「売れなかった本」のデータが大手取次店のコンピュータに残っているから、もう、鐸木能光の名前で本は出せない、とも言われていた。筆名を変えて新人賞に応募し直したりもした。
数年後、ようやく『黒い林檎』という小説を河出書房新社から出すことができた。これはもう出せないと思っていたので、100部だけ自費出版本も作ったのだが、その自費出版本も穴吹さんには謹呈していた。
担当編集者はこの作品にかなりの期待を込めてくれていて、発売1か月前に100部限定の「ゲラ本」(校了前の原稿をそのまま印刷した書店経営者向けの非売本)を作るという試みをしてくれた。この限定100部のゲラ本の中の1冊も、穴吹さんにはお送りした。
さすがに根負けしたのか、穴吹さんはAICの中でこのことを書いてくださった。
その話を人づてに聞いて、お礼のメールを書いたところ、そのメールの内容が面白いからAICの読者フォーラムに掲載したいという返事が来た。
かなりきわどい話も書いていたので、一部書き直しをして送り直した。
すると今度は、「いっそAICで書いてみませんか」というメールが来たのである。

その後、数年ぶりに穴吹さんにお会いしたのだが、声をかけられても、穴吹さんだとは分からなかった。それほど、四谷三丁目のお店で初めてお会いしたときの印象とは違っていた。いや、印象が違うというようなレベルではなく、顔がまったく違っていた。(この「顔が激しく変わる」ことは、ご本人も以前にAICで書いていらした。)
ニコニコしながら近づいてきた白髪の男性は、爆笑問題の田中裕二が歳を取ったような感じで、初対面のときの怖い印象はまったくなかった。
もっとも穴吹さんも僕のことを、AICの中で「陰気な雰囲気のの青年」と書いていたくらいで、人間、初対面の印象なんて、相当いい加減なものだということだろう(僕が穴吹さんに初めて会ったときはすでに40代だから、「陰気な雰囲気」はまだしも、「青年」ってことはない)。

穴吹さん率いる梁山泊がついに解散する。
正直なところ、少しほっとしている。連載の中では、いちばん時間がかかり、緊張も強いられる仕事だったから。
当初は、軽妙洒脱を心がけていたのだが、人間ができていないので、何かあるとすぐに熱くなる。イラクの人質事件やPSE問題では相当熱くなって書いた。地デジ問題もしつこく取り上げた。マラソン代表選考問題なども、ついつい長く書いてしまう。
アスパラクラブの中に引っ込んでからは、ミクシィ化とでもいうか、かなり静かになったけれど、ここでは本当に緊張を強いられる話題をよく選んできたから、書いているとき以上に、書いた後のストレスが大変だった。
それから開放されると思うと、ほっとするのだが、同時に、このストレスをこれから先はどこにぶつけていくべきか、ちょっと迷っている。好々爺になるには早すぎるしね。

このところ、毎晩、昔のことを夢に見る。失敗や不安やトラウマが映像化したような夢だ。夢の中で、ああ、ここでこうしていれば今頃は……という後悔がピークになったときに目覚める。とても身体に悪い。
で、そんなことを繰り返しているうちに、気づいたのである。
自分が、子供の頃とまったく変わっていないということに。

上から押しつけられた曲を流すだけの放送係に嫌気がさし、給食時間に放送室に立てこもって「マーチ音楽集」のLPレコードを流した小学6年生。
中学では、オフコースに熱中し、フォークバンドを組んで曲作りに励んでいた。最初はギターの「F」が押さえられなくて、泣きながら練習したものだ。

今は母校の校長になっている工藤くんに誘われ、「文芸同志会」なるものに参加して小説を書き始めたのも中学のときだった。
僕は五木寛之にかぶれていて、ミュージシャンをめざす主人公がいきなり外国に渡って放浪し……という話を書いたりしていたが、顧問の先生からは「流行小説みたいなものだけを読んでいては本物の文学は分からない。よしみつはストーリーテラーとしての才能はすばらしいし、文章もうまいが、小手先だけでは文学は極められない」などと言われたものだ。

ロッカーが隣同士だった須藤くんとは帰り道が同じ方向で仲よくなり、須藤くん(現在は心臓外科医)の影響を受けて写真も撮り始めた。親父が使わなくなってしまい込んでいたペンタックスSPという、日本で初めてTTL測光露出計を内蔵させた一眼レフ(もしかしたら違うかも)をこっそり持ち出して、学校の行き帰りに写真を撮ったりしていた。
一度、桜木町駅でカメラを構えているところを数学のM先生に見つかったときは焦った。
「何やってんだ?」
「あ……いや……写真を……」
「なんの?」
「朝の駅の風景を……趣味なんです、写真が……」
「そうか。あんまり変なもん撮るなよ」
M先生はそう言ってさっさと先に行ってしまった。あれが別の先生に見つかっていたら、えらいことだった。
撮った写真は須藤くんの家で即席暗室を作り、全紙大に引き伸ばしたりして喜んでいた。
田園コロシアムで行われたデビスカップの日本vsインドの試合(柳恵誌郎とムカージ戦とか、そういう時代)を撮ったのをトリミングして全紙に引き伸ばし、
「おお〜、さすがに全紙まで伸ばすと迫力がすごい」
なんて言って喜んでいた。50mm標準レンズで観客席から撮った写真をそこまで引き伸ばすなんてのは、大人ならやらないだろうけれど、中学生は怖いもの知らずだからやるのよね。

テニス仲間のひとりが、自分の息子のことを「青虫」と呼んでいる。蝶(大人)になる前だから青虫ということらしい。
「うちの青虫が、最近、生意気にこんなこと言うようになって……」などと使うわけだが、俺って50代になっても青虫のままなんだな〜、と気がついたわけである。
蝶になることを拒否している青虫。
音楽小説写真も、中学生のときにやっていたことを今も続けているだけ。
何かの道で大成し、名や財を成すわけじゃない。青虫のままだから、子供も作らないで、いつまで経っても自分のことだけで手一杯。
この青臭さが、嫌な人にはほんとに鬱陶しく映るのだろうなあ。ごめんなさいね。

AICには、青虫を飼ってくれるだけの懐の深さがあった。きっと、穴吹さんは、青虫が嫌いじゃないんだろう。

青虫を置いてくれた梁山泊よ、さようなら。
そして梁山泊を覗きに訪れてくださったみなさま、ご愛読ありがとうございました。

★『デジタルストレス王』のバックナンバーは、http://takuki.com/aic/ にずっと置いておきます。また熱くなることがあれば、個人配信版『デジタルストレス王』を出すかもしれません。

画・須藤義夫

●1973年正月に届いた須藤くんからの年賀状
(彼は「絵描きでは食えない」と言って外科医になった。青虫から蝶になったのですね)




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