たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年7月19日執筆  2002年7月23日掲載

オーディションをしよう

あれよあれよという間に、ドルとユーロが逆転してしまった。
一時期、ユーロは80円台、ドルは130円台だった。それが今では、ユーロが118円、ドルが115円なんていう日がある。円高ではなく、ドルが落ちているのだろう。

ドルとユーロのレートから、単純に「これからはヨーロッパの時代だ」などと想像するのは馬鹿げているかもしれないが、以前から、日本はもう一度ヨーロッパの文化を見習ったらどうだろうと思っていた。ヨーロッパ文化を見習うということは、まず、アメリカ追随をやめるということだ。
言うまでもなく、現在の日本の文化は、ほとんどがアメリカを模倣している。テレビ番組の作り方、商品の作り方と売り方、経済行為に対するモラル感や手法。
売れそうなものをリサーチし、大量に作り、大規模な宣伝攻勢をかけ、売った儲けでさらに次の商品を売る。しかし、それが幸福感を満たしてくれていた時代は、もう終わっている。

ヨーロッパに学ぶべき点、ヨーロッパ文化の魅力は多岐に渡り、とても一度では書き尽くせない。今回は「テレビドラマ」という話題に絞ってみよう。

最近は衛星放送でチャンネルが増えて、アメリカの番組やヨーロッパの番組を見る機会が増えた。それで分かることは、日本がいかにアメリカを真似ているかということと同時に、ヨーロッパがいかにアメリカ的なものに染まらず、独自の文化性を保っているかということだ。

例えば、刑事物やミステリードラマ。アメリカのドラマは、美人とマッチョマン、あるいは二枚目の主人公が出てきて、派手に打ち合い、殴り合い、車が追っかけっこして、謎解きはどんでん返しが必ずある。『マイアミバイス』(古いな)なんかが典型。「アメリカ的な娯楽性」を刑事ドラマの中に盛り込み、突き詰めていくと『ロボコップ』になったりする。

一方、イギリスの刑事物ドラマはまったく違う。
主人公はまず美人・美男子ではない。知力や体力が飛び抜けたスーパーマンタイプでもない。あくの強い個性派、あるいは「凡人」と呼んでもいいような、実直な職務遂行派。
撃ち合いやカーチェイスシーンなども滅多にない。その代わり、ストーリーには直接関係ないような人間の心理描写が盛り込まれていく。
具体的な作品例としては『フロスト警部』『マクベス巡査』『リーバス刑事』など。

主人公は、警察官であっても特には不正を働き、間抜けな失敗をし、人を傷つける。警察の上司は俗物で、組織は腐りきっている。犯人も、単純な悪人ではなく、なぜ犯罪者になったかという背景が重視され、描かれる。
悪と正義などという単純な対決構図ではなく、徹底的に「人間とはなんだろう?」という視点で描いている。老人や障碍者のセックスとか、村社会の閉鎖性、差別問題などなど、日本ではおよそ敬遠しがちなテーマも積極的に扱う。
一言で言えば「暗い」。
だが、そこに描かれる人間像や社会問題は、視聴者の深く印象に残る。
疲れ切っているときに見るのはちょっと辛いが、アメリカ的な、派手で、定型化されたドラマよりははるかに面白いし、見応えがある。

アメリカ的な番組作りは、まず視聴率ありき。過去のデータに照らしてみて、いちばん受け入れられるレベルで番組を作る。それがプロの仕事だと自らに言い聞かせながら。
日本はそうしたアメリカの悪い点だけを真似ている。結果としては、薄っぺらで、子供っぽい内容のものが多くなる。
どの国でも、数の論理でいけば、子供っぽいものが優勢になる。そういうものがあってもいい。しかし、それだけでは文化の質は低下し、長い目で見れば文化が生み出す経済価値の低減・喪失にもつながるだろう。

日本のドラマ制作で、海外に真似てほしいことがひとつある。「オーディションの手間を厭わない」ということだ。
アメリカのドラマ制作現場でもオーディションはかなり活発だと想像するが(あくまでも想像)、イギリスのドラマは徹底している。
主人公以外の登場人物も、いかにもそれらしい顔の俳優が起用されていて、リアルに演じる。
おそらく、番組1本ごとに、入念なオーディションをして役者を採用しているのだろう。また、それに応える豊富な人材に恵まれているのだろう。
例えば、障碍者が重要な役を演じる話では、障碍者を起用する。これは、障害を持ちながら役者活動をしている人がいて、そうした人材を選べるということを意味している。
日本のドラマでは、ジャニーズ系の男優が医者や弁護士を演じたり、若くて美しすぎる女医や女刑事が出てきたりするが、イギリスのドラマではそういうキャスティングはまずない。逆に、腹が出て、髪を刈り上げている中年の女性刑事が、主人公の重要なパートナーを演じたりしている。そういう、いかにも現場たたき上げ風の女性刑事が、ピンチに陥った主人公に、たった一言「大丈夫」と静かに励ますシーンはリアリティがあり、説得力がある。これが藤原紀香演じる女性刑事だったらどうだろう。あまりにも絵空事すぎて、ドラマの楽しみ方そのものが、まったく違ったものになってくるはずだ。

以前、NHKのドラマ制作部のプロデューサーと酒を飲む機会があった。同席していた雑誌編集者が、彼が制作した最近のテレビドラマについて「○○が医者の貞淑な妻というキャスティングは絶対おかしいよ。違和感があって話にのめり込めなかった」というようなことを言った。
それに対してプロデューサーはこう答えた。
「今、日本に30代後半から40代前半で使える女優って、ほとんどいないんだよ。××が駄目なら△△。それも駄目なら○○。これくらいでしょ。他にいる?」

そのやりとりを横で聞いていて、がっかりしてしまった。
NHKでも、ドラマのキャスティングは、芸能事務所との関係だけで行われているのだと思い知ったからだ。なぜ公募オーディションをしないのか? なぜ有名俳優でなければならないのか? そのドラマの内容に合っていて、演技力の優れた役者はたくさん埋もれているのではないか? NHKができなかったら、民放などましてやできない。
オーディションをするには時間も金もかかるだろう。しかし、有名俳優に高額なギャラを出すことを考えれば、予算的にはむしろ安くつくことも多いのではないか。要は、制作する側のやる気と根気がないだけなんじゃないか。

オーディションがないから、いい役者も育たない。芝居に命をかけている人たちは少なくないはずだが、チャンスがないままでは、いつまでもバイト生活で堪え続けるのは無理だ。
イギリスでは、多分、制作者も役者も、ドラマが本当に好きなのだ。一般視聴者の好みを無視しても、自分たちの制作意欲を満たすものを作ろうとしている姿勢が見て取れる。

文化を創るのは人間であり、質の高い文化を享受できるかどうかは、プロデュースする人たちが、個人の資質をいかに発掘し、生かせるかにかかっている。ドラマに限らず、あらゆる芸能の現場に呼びかけたい。もっとオーディションをしよう。特に、子供相手のアイドル発掘的なものではなく、本物の大人の芸を身につけた人材を世に送り出すようなオーディションをもっともっと増やせないものだろうか。

ウナギ犬狛犬
■陰陽神社(茨城県那珂郡山方町)の「ウナギ犬狛犬」。寛政10(1798)年3月建立。
撮影:鐸木能光