たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年8月16執筆  2002年8月20日掲載

「神社」という存在

毎年8月になると、首相や閣僚が靖国神社を「公式」参拝した、しなかったというニュースが流れる。
靖国神社という特定の宗教法人に、公人としての肩書きで参拝することは、国と宗教の完全分離をうたっている憲法に反していないのか、というのがこのニュースの原意なのだが、毎年繰り返されるうちに慣れてしまい、「ああ、もうそんな季節か」という程度の感慨しか持たない人が増えているのではないだろうか。
流すメディアのほうも、ほとんど定型化した風物詩というか、どこそこ産のメロンの初セリが行われて1個2万円で競り落とされました、というニュースに似た感覚で報じている気もする。

さて、今回は、靖国問題は論じない。前回の狛犬に引き続き、夏休みバージョン第二弾として、「神社を訪ねる趣味」について述べてみたい。

日本にはいったいどれくらいの神社があるのだろうか。小さな社や祠(ほこら)まで含めると、一体いくつあるのか、見当もつかない。
僕は狛犬を見て廻るのが趣味だから、当然、神社をよく訪ねるが、神社が好きなのかと問われると、返答に困ってしまう。もちろん、狛犬が目的なのは確かなのだが、神社そのものも嫌いではない。
神社巡りの面白さはどこにあるのだろうか?

神社には「祭神」が決められていて、縁起を書いた立て札や案内看板などが置かれていることがある。しかし、明治の廃仏毀釈・神仏分離令の際に、にわか仕立てであてはめたものも多い。

例えば、三尺坊という天狗で有名な秋葉山。現在、山頂には立派な秋葉山神社があるが、もともとここには秋葉寺があり、明治の神仏分離のとき、神社に入れ替わった。
その後、復寺の嘆願書が出され、復活するが、山頂にはすでに秋葉神社が建っているため、やむなく頂上から約800メートル下った場所に新たに秋葉寺を建立した。
今なお、秋葉山を訪れる観光客で、この寺にまで足をのばす人はほとんどいない。
僕は、概してお寺よりは神社のほうが好きなのだが、秋葉神社と秋葉寺に関しては、秋葉寺のたたずまいのほうが好きだ。天狗がいるとしたら、秋葉寺のほうが可能性が高そうな雰囲気がある。

もともと日本人は「神様」に対しては妙におおらかなところがあり、厳密な区別をしない傾向がある。仏教が入ってきてからは神仏混淆が進んだし、現代では、子供が生まれたら神社にお参りに行き、結婚するときはキリスト教の教会で式を挙げ、死んだら仏式で葬式を出すということが珍しくない。
先日、カトリックの教会で親族の葬儀があったが、礼拝堂の中で焼香をしたのにはびっくりした。納骨の際には、お墓の前で聖歌を歌う中、お線香をあげた。

乱暴な言い方だが、日本人には、もともと自然を畏怖する素朴な信仰心があったが、外から入ってくる宗教に対しても比較的寛容で、排斥するよりは一部を取り入れてしまう方向に動いてしまうのかもしれない。

神社にもいろいろあるが、やはり自然と溶け合った神社が好きだ。ご神体は山そのものであるとしている神社などは最も理想的だが、そうでなくても、うっそうと木が茂り、深閑としたたたずまいの神社には、どこかほっとさせられる。
古くから村の鎮守様として地元の人たちの暮らしに密着してきた神社は、今でも「鎮守の杜」を残し、周囲に違和感なく溶け込んでいることが多い。こうした神社は、周辺にある自然が、宅地開発などから守られ、残されているだけでも大きな意義がある。

逆に、広い境内にびっしりと敷石が敷き詰めるなどしてきっちり整備され、犬を入れるななどという看板が立てられている立派な神社には魅力を感じない。神様よりも「人間」の要素をより多く感じてしまうからだ。
明治以降の国家神道色が濃い神社も、どちらかというと苦手だ。護国神社と名のついた神社にはそうしたものが多く、狛犬も、前脚を突っ張り、胸を突きだし、相手を威嚇するタイプが多い。狛犬マニアの間では「護国系」「招魂社系」などと呼ばれ、分類されることもある。

神社には、皇紀2600年と彫られた石造物がよくある。皇紀というのは神武天皇が即位したとされる年を起点に数えるもので、皇紀2600年は昭和15(1940)年にあたる。太平洋戦争が勃発する直前ということもあり、国威発揚ムードと相まって、狛犬、灯籠、鳥居などが数多く新設された。
そうしたものを見ると、奉納した氏子たち、ひとりひとりのドラマを想像してしまう。

栃木県栃木市泉川町にある護国神社は、小さな山を利用した公園になっているが、立派な獅子山(石やセメントで作った小山の上に狛犬が乗っているもの)があり、一種独特の雰囲気を作っている。砲弾や錨など、大戦を思い起こさせるモニュメントや戦死者慰霊碑などが周囲に並ぶ中、子供たちが嬌声をあげて走り回ったり、犬が散歩していたりして、なんだかそこだけ時間が止まったような、不思議な空間なのだ。
力の入った狛犬がいたこともあり、非常に印象に残っている。

神社には意味不明なものもよくある。
小説『鬼族(きぞく)』(河出書房新社)は、青森県の岩木山周辺が舞台だ。
この小説執筆のために取材で訪れた巌鬼山神社には4対の狛犬がいたが、いちばん古そうな狛犬の台座に、奇妙なオブジェが添えられているのを見つけた。男根に龍が巻き付いているというものだ。どんな意味があるのか分からないが、さっそく勝手な想像を膨らませ、小説の中に使わせてもらった。(狛犬ネット参照)

先日訪れた、新潟県南魚沼郡大和町にある天満宮でも、不思議なものを見た。田圃の中にある小さな神社だが、社殿の中に、なぜかリンカーンの写真が飾られているのだ。(takuki.comの日記参照)
天満宮といえば菅原道真だが、なぜにリンカーン?
狛犬仲間のひとりは、その神社は、実は終戦まで学校にあった「奉安殿」が転用されたもので、奉還すべきご真影を秘匿していたのをアメリカ軍に見咎められて「リンカーン」に差し替えたのではないか。あるいは、奉安殿であった痕跡を残すために、意図的に異国の偉人の「写真」を掲げたのではないか、などという推理を披露してくれた。
恥ずかしながら、僕は奉安殿というものを知らなかったので、ひょんなことからまたひとつ勉強することになった。

神社巡りには、こんな予期せぬオマケがついてまわる。
夏休み。人混みと渋滞ばかりのレジャーに疲れたら、近所の神社を訪ねて、いつもとは違う角度から見つめてみるのもいいかもしれない。

巌鬼山神社の狛犬

■写真 巌鬼山神社(青森県弘前市十腰内)の狛犬
台座のところに小さく見えるのが問題の「男根に龍」。詳細は狛犬ネットへ。






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