たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2003年1月11執筆  2003年1月14日掲載

■広いパレット、狭いパレット

北朝鮮情勢が緊迫してきた。太平洋戦争前の日本を見ているようだと言う年輩者も多い。
同じ朝鮮半島、同じ民族なのに、そこで暮らしている人間の意志とは無関係に国境が引かれ、わずか一世代程度の時間で、生活や文化がこれだけ変わってしまう。「国家」あるいは「国家権力」というものは怖ろしいなと、つくづく思う。

ところで、子供の頃から不思議だったのは、朝鮮人にしても中国人にしても、風貌は日本人と全然変わらないのに、なんでお互いそんなに「区別」したがるのだろうということだった。
よーく見れば、中国人的な風貌、朝鮮人的な風貌というのはあるだろう。でも、そうした特徴は日本人の中にもたくさん見うけられるし、外見だけで確実に国籍を言い当てるのは、ほとんど無理なように思える。
中国人、朝鮮人、日本人、モンゴル人……それらの違いというのは、「人種」の違いというより、単に生まれた場所の違い、もっとはっきり言えば、生まれた場所がどんな政治体制下にあったか(その結果、「○○国籍」を与えられる)という違いだけなのではないか?

大人になってから、いろいろなことを学ぶにつれ、世の中には「大胆な嘘」がたくさんあることを知った。その中のひとつが「日本人単一民族説」だ。
民族、人種というものをどう定義するかにもよるが、日本人が太古の昔から同一の人種であり続けたと考えることには、相当な無理がある。
歴史教科書に出てくる古代史の記述は、ほとんどが「こうだったのかもしれない」という程度の信憑性しかないと思ったほうがよさそうだが、僕自身は、そうした不確かな情報をかき集め、もっとも無理のなさそうな論をつなぎ合わせていった結果、今では大体次のような認識に落ち着いてる。



しかし、30年以上前に学校で学んだ日本の古代史は、こうした認識とはかなり違ったものだったように記憶している。
縄文時代というのがあって、その後に弥生時代が到来する。ある時期に縄文人は弥生人にそっくり入れ替わってしまうような教え方をされたような気がする。
普通に考えて、これはかなり無理がある。
縄文と弥生という区分にしても、ある時期、この両者は並立していたに違いない。

ユーラシア大陸を広いパレット、日本列島を狭いパレットと考えてみる。
広いパレットの上では、複数の絵の具が混在していても、比較的独立性を保ちやすいし、混じるとしてもゆっくり混じっていく。しかし、狭いパレットの上では、絵の具同士の間に距離がとれないので、意図しない色ができてしまう可能性は高くなる。
多分、日本という国の個性は、この「狭いパレットの上にたくさんの絵の具がのってしまった」ことから生まれているのだろうと思う。

乱暴な言い方をすれば、今なお、東日本には縄文(先住民)の血が色濃く残り、西日本には渡来人の色が強く浸透しているような気がする。
浪速と江戸の文化は、これからも違い続けるだろうし、その違いこそが日本という国のよさでもある。決して、違うから東西で戦争をする……とはならないはずだ。

日本人は一大混血民族である、と考えれば、今なお根強く残る、根拠のない人種偏見の種をなくすこともできるだろう。多様性、柔軟性こそが日本人の美点なのだという認識を持てば、その裏返しとしてのいい加減さや無節操、長いものには巻かれろ的な無批判な従順さという欠点も認識しやすい。

絶叫するような口調の平壌放送のアナウンサーを見ていると、自由な思考こそがすべての基盤になると痛感させられる。あの姿に違和感を覚えることこそ、戦後、日本人が学んだ最も大切なことだ。
多くの場合、民族間の対立、人種間の対立というのは、支配下にある人々にそう思いこませたほうが都合がいいと考える権力者たちの策略の結果ではないだろうか。

(「縄文」をキーワードにした遊び場「縄文村」を作りました。お遊びにいらしてください。http://jomon.org

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