たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2003年1月31日執筆  2003年2月4日掲載

定期試験廃止論

最近、食事やお茶の時間のBGM代わりに、スカパーの「GLC24時間英会話チャンネル」というのをぼーっと見ていることがある。
NHK教育テレビの類似番組などに比べると無駄がなく、なかなかよくできている。画面が静止画像だけで構成されている時間が多く、お金をかけていないところも好感が持てる。
若い人が本気で英語をマスターしたいなら、こうしたシンプルで実効性を追求した教材番組を真剣に活用すればいいのに、と思う。
ひとりでやるには相当な根気がいるが、学校の授業などで使えば、嫌でも参加しなければならず、効果が上がるだろう。

日本では、ろくでもない中身の大型英語教材セットが数万円、数十万円という値段で売られていることが多い。制作している教材会社の興味は、いかに効率よく英語をマスターさせるかではなく、いかに効率よく儲けるかにある。キャッチセールスや、訪問販売中心の教材ビジネスには特にその傾向が強い。それらしく見えていれば、商品の品質はどうでもいい。客の欲求に訴えかけて売ればいいのだから、ポイントは商品価値ではなく、セールス技術ということになる。
この手の英語教材は、怪しげなダイエット商品、健康商品と同じだ。効果がない、意味がないと気づいたときには、客はすでに大金を支払っている。その客は二度と買わないだろうが、新規の客が現れることにより、商売は継続していく。

なぜこうしたものがいつまでもなくならないのかと考えると、やはり、日本の学校教育に問題があるという結論に行き着く。
教育の中身をお上が細かく決めて、教材(教科書)も細かに検定する。教科書には、あらかじめ決められた以上の内容を盛り込むことができない。
薄くて硬直した教科書を使って、生徒は、定期試験と入学試験を繰り返しながら進級していく。

教科書とともに、学校の定期試験というものも諸悪の根元だ。
定期試験では、教科書の何ページから何ページまでと出題範囲が決められていて、それ以外の内容が問われることはまずない。

高校時代の友達で、定期試験では常に学年1番の優等生がいた。試験の直後、彼の家に遊びに行ったことがあるが、机の上には墨で単語やフレーズを塗りつぶした教科書が散乱していた。彼は、同じ教科書を何冊も用意して、授業で使う教科書の他に、暗記用として使いつぶしていたのだ。
「だって、教科書に書いてある以外のことは出ないんだよ。全部覚えてしまえば必ず満点が取れるじゃん。単純な理屈さ」
彼は自信満々にこう言った。
一方、僕は、教科書には興味が持てず、『英語らしい表現400』(岩田一男)などという本を面白がって読んでいた。そんな僕に彼は、「馬鹿じゃないの? 試験に出ないことやっても意味ないじゃん」とも言った。

しかし彼は、ときどき行われる実力テスト(出題範囲が決められていない)や、出版社や予備校が行っている全国統一模試の類では今ひとつパッとした成績がとれなかった。
それでも、教師たちは彼が東大に合格することを疑っていなかった。
僕が通っていた高校は、1学年が200人に足りない規模の生徒数だったが、毎年東大に二桁の合格者を出していた。だから、学年トップの成績を続けている彼が合格しないはずがない、という理屈だ。
結局、彼は東大受験に二度失敗した後、諦めて私立大学に進んだ。高校時代、自分よりはるかに成績の悪かった級友の2年後輩になるという屈辱を味うことになったのだった。

日本の教育システムには常々怒りと絶望を感じているが、それでも、教科書を丸暗記しただけで東大に入れて、エリートコースまっしぐら……と、単純にはいかないところに、少しだけ救いを感じる。

英語に関して言えば、文部科学省検定教科書を丸暗記したところで、英語ができるようにはならない。内容が圧倒的に不足しているからだ。
それをさらに細切れに範囲限定して、教科書を丸暗記しておけば、理屈(文法)も分からないままで満点が取れるような定期試験というのは、子供にとって百害あって一利なしではなかろうか。
丸暗記したものは、試験が終われば忘れてもいい。次の試験には別の範囲が出るのだから。……そんな歪んだ「強制労働」の繰り返しの果てに残るものは、虚無感と貧困なエリート意識だけだ。

ところが、「教科書準拠」を謳っている教材には、教科書の欠点や不足を補うというよりも、教科書の「範囲」に縛られた強制労働の量をむやみに増やしているだけのようなものが多い。
Lesson 2の段階では、orangeは出てきてもappleは出てこないから例文に出してはいけない、などという馬鹿げた規制をかける。あれをしてはいけない、これはまだ教えてはいけないというマイナス発想で編集している。これではいつまで経っても英語の醍醐味など見えてくるはずがない。英語嫌い、勉強嫌いの子供を増やすだけだ。

中間試験対策とか、期末試験対策などという口上に惹かれてこの手の教材を買ってしまう子供もいる(実際には、子供は早々とくだらなさを見抜いているが、親が中身を見もしないで買ってしまう)だろうが、いつまでもこんなことをしていてはいけない。

検定教科書制度や教育指導要領を変えるのは、国を相手にしなければならないから時間がかかる。しかし、教科書丸暗記主義の定期試験をやめることは、学校レベルで可能ではないか。
試験を全廃するのではない。その学年、時期にふさわしいレベルを想定した実力試験の類に切り替えていくのだ。
英語なら、当然、「出してはいけない単語」などない。読解試験には、多少、未習の文法事項が出てきてもいい。生徒は想像力を働かせて、その時点での学力をもとにチャレンジする。実際の社会ではすべてがそうなのだ。

そうした、真の実力、習熟度を試される試験なら、挑む子供もやる気が出る。より高いレベルに達するためには、どんな教材をどのように活用すればいいのかということも、自分で真剣に考え始めるだろう。それが「学習」ということなのではないか。

定期試験が変われば、学習塾の現場も変わる。
すでに、教育現場の主役は学校から塾に移っているが、塾でいくら優秀な講師を揃えても、生徒たちに学校の定期試験でいい点をとらせなければならないため、思いきったカリキュラムが組めないことが多い。学校の定期試験が、真の実力テスト的なものになれば、塾の役割も変わっていくだろう。

範囲を限定して、そこから外れたことには無頓着、無視、無関心という教育が、いわゆる「指示待ち世代」を作りだした。それはまた、官僚政治の弊害、夢や遊びのない商品開発、心のこもっていないサービス業などにもつながっている。このままでは日本の国際競争力はますます失われるだろう。
定期試験の内容を今のままにしておいて、相対評価だの絶対評価だのという論争をしているのは虚しい。
また、すべての教科で暗記力だけが突出して問われるなら、自分本来の適性に気づかぬまま、落ちこぼれの烙印を押されてしまう子供も増えていく。世の中には、暗記力は弱いが偉大な歴史学者になれる素質を持つ子供もいるはずだ。定期試験は、そうした子供の可能性を容赦なくつぶしている。

与えられたものを一字一句丸暗記して、人力コピーを作成するような定期試験は、さっさとやめるべきだ。

大葦神社の狛犬


■大葦神社(栃木県鹿沼市下大久保)の狛犬

建立年月は不明だが、間違いなく江戸時代。
詳しくは狛犬ネット(http://komainu.net)へ。


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