たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2003年8月22日執筆  2003年8月26掲載

アートトリエンナーレとリサイクル幻想

「というわけで今週は夏休みモード。これを送信したら、松代町を再訪しよう。」

……で終わった先週のコラム。実際、原稿を送信してすぐ、松代町を訪問した(写真入りの日記は→こちら)。
いやぁ、面白い!
アートとはなんぞや? と考えながら、炎天下、7時間も歩き回ってしまった。

結局のところ、造形として優れているものは心に残る。アイデアだけで勝負している「アート」は、同工異曲が多く、すぐに飽きてくる。

松代町の酒屋の車庫に、『アメリカ米万歳』という「アート」コーナーが設置されていた。これも『大地の芸術祭』出品作のひとつ。
輸入したアメリカ米でバイオマス燃料を作り、石油燃料の代わりにしようという提案をしているらしい。
「アメリカ米の輸入を促進する自由貿易協定によって日本の農家が存続の危機に面しているという問題に、エコロジカルな解決策を提案」というふれこみだが、一体どこまでジョークでどこまで本気なのだろう。

解説役として学生が二人いた。そのうちの一人は本気で「大規模にやれば、エネルギー収支は確実にプラスになるんです」と熱弁をふるっていたが、どうも熱力学第二法則を分かっていないようだ。
アメリカ米は大規模な石油エネルギー投入型農業で作られている。米を発酵、蒸留してエタノールを得るには、またエネルギーが必要だ。その電力は石油で作られている。
そもそも世界では飢えている人間のほうがはるかに多い。第一級の食糧である米を燃料にしてしまうというのは、飢える人には飢えていてもらって、食糧の余っている国で「エコロジカルな実験」をしましょう、という話だ。そうしたことも全部踏まえてジョークとして展開するなら分かるのだが、どうも解説役の学生はそうは思っていないようだった。

南米ではバイオマス燃料が実際に使われているが、土地代、労働力が極端に安いという状況が生んだ一時的な「エネルギー収支プラス」だろう。南米地域は、世界でも突出して緑地帯喪失速度が速い地域だということも頭に入れておかなければいけない。そこに生えている木を切って薪にすれば、蒸留過程での熱エネルギーはただ。この地では農業労働力はただみたいなものだから、そこで生まれた米を安く買い上げてエタノールを作れば、エネルギー収支はプラス……というのでは、あまり魅力ある話ではない。

そもそも、安い労働力や土地代そのものが、為替レートや南北構造といった、力のある者が仕組んだ「トリック」の産物ではないのか。それを頭のいい人たちが「グローバリゼーション」だの「自由経済」だのという言葉で正当化しているところがある。
人間みな平等だというなら、人間一人が同じ仕事をすることに対する貨幣価値が極端に違うこと自体がおかしいのだ。

いくら頑張っても、アメリカ米を輸入して日本でバイオマス燃料を作ることはナンセンスなのだということを、この学生が理解する日はそう遠くはないだろう。
彼はしかし、熱心にエネルギー問題や農業問題を考えて、この暑い日中、酒屋の車庫に立ち、観光客にパンフレットを配っているのだから、僕の授業で寝ている学生たちに比べれば、まだまだ見所がある。実際、エネルギー問題については、ずさんなデータを意図的に利用して、都合のいいように「太陽エネルギー礼賛」を展開したり、ちょっと考えれば到底無理だと分かるようなバイオマスや太陽電池、水素利用計画を「エネルギー収支がプラス」と言い張っている書籍や論文が多すぎる。そうではない論文を見つけるほうが難しいかもしれない。
炎天下、世界経済や資源物理学の論争をする気には到底なれなかったので、早々に立ち去ったが、気になる「アートコーナー」ではあった。

自治体が全面協力、あるいは主催していることだから、公共施設の入り口では、芸術祭のパンフレットやPRチラシと一緒に、「明るい原子力エネルギー」というようなパンフレットも並んでいたりする。
「エコロジカルな素材」というふれこみで、再生紙や木の素材をアピールするものもある。
骨太な美術作品や、洒脱なアイデアを楽しむ中で、ふっと白けてしまう瞬間。
21世紀の文化が成熟していくためには、やはり基本をしっかり見据えていないと方向を誤ってしまう。

例えば、牛乳パックを原料にした再生紙を使って「地球に優しい」とPRするようなことは、いい加減に卒業してほしい。
紙パックのいちばんの問題点は、ラミネート加工が施されているため、再生紙原料としては不向きだという点だ。内側のポリフィルムを剥がさないと再生紙原料として使えないが、この作業にかなりのエネルギーを使うし、フィルムを剥がすために投入する薬品で水質汚染も引き起こす。
しかも、それだけ苦労して再生された紙パルプは、せいぜいトイレットペーパーにしかならない。紙パック再生に対応している製紙工場の多くが、トイレットペーパーの製造工場だからだ。
紙パックには最高級のバージンパルプが使われている。ちゃんと再生すれば3、4回は再生できるはずの高級パルプが、二度と再生できないトイレットペーパーになってしまうのだ。この無駄を直視せずに、「牛乳パックの再生」に熱心になるのは欺瞞としか言いようがない。

牛乳パックは再生することを考える前に、まず作らないことがエコロジカルなはずである。再生できるという幻想、あるいは言い訳が、ますます牛乳パックという環境破壊製品を増やしている。
本気でエコロジーを唱えるなら、牛乳パックを回収するのではなく、牛乳瓶復活運動をすべきだし、牛乳に限らず、酒や醤油などのリユース瓶の回収システムの再確立を真剣に考えなければならない。

今さら重い瓶には戻れないというなら、ペットボトルで代替するなど、他の方法も提案し、試してみる気運を作っていきたい。(ついでに言えば、ペットボトルもリサイクルできると考えるのは幻想に近いだろう。エネルギー収支をきちんと出してみれば、リサイクルすればするほど環境負荷は高くなっているのではないか)

日本人は結構まめで律儀なのだから、きちんとした教育、情報提供をすれば、現在の間違ったエネルギー政策、ゴミ政策も、正しい方向に少しずつ軌道修正できるはずだ。
ヒステリックに何項目にもゴミ分別をした挙げ句、焼却場では「生ゴミだけでは燃えないからプラスチックゴミを混ぜて燃やす」とか「プラスチックゴミが多いと高熱になりすぎて炉が傷むから、一部は埋めてしまう」とか、理不尽なことが多々行われている。
現実を直視しない「環境保護運動」は、金で動いているだけの環境破壊行動よりやっかいな障害になる可能性もある。

まずやらなければならないのは、高性能焼却炉(高温で消却し、ダイオキシン発生が少ない炉)の増設と、あらゆる製品にダイオキシン発生の有無を表示させる法律を作ることだ。
今のままでは、燃やしていいのか悪いのかも分からない。燃やせば有害物質を発生する塩素系化合物は、製造段階で「毒物発生税」「ゴミ処理困難物税」などの税金をかける。塩化ビニル系のラップとポリエチレンラップが同じ値段で売られていることは間違っている。
その上で、燃やすものは燃やして、その熱で発電するなりお湯を沸かすなり、コジェネレーションシステムの普及を図ったほうがいい。今のように、元(製造段階での規制)と末端(ゴミ処理最終施設の性能と運営法)がいい加減なままでは、いくらゴミの分別だのリサイクルだのと声高に叫んだところで、効果が上がらないばかりか、ますます問題の根本が見えにくくなってしまう。


「アメリカ米を使ってバイオマス燃料を」……と熱弁する学生の真剣なまなざしを見ながら、こうしたとてつもなく複雑で困難な問題が一瞬にして脳裏を駆けめぐった。
のんびりとしたアート鑑賞気分が一瞬曇ってしまったのは事実だが、まあ、この「アートコーナー」は、人間の業というものを再確認させるという意味合いを持っていたのだと思うことにしよう。

大地の芸術祭は面白い。まだ見ていない出品作品がたくさん残っているので、この夏の間、もう何回か訪ね回ってみるつもりだ。


謎のドーム
●「アート作品」のすぐ隣にあった謎のドーム
(この「作品」のほうが人間的パワーがあったりして……。十日町駅前にて)

(c) Takuki Y. http://takuki.com



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