たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2003年8月29日執筆  2003年9月2日掲載

ドラモンド事件の教訓

パリで行われていた世界陸上。前半最大のドラマは、皮肉なことに好記録や好勝負ではなく、フライングによる失格というネガティブなものだった。
8月24日に行われた男子100m2次予選で、アメリカのジョン・ドラモンド選手とジャマイカのアサファ・パウエル選手が、「ピストルが鳴ってから0.1秒以内に反応した」ということでフライングと判定され、失格になった。
すでにジャマイカのトーマス選手がフライングを犯しており、新ルール「2度目のフライングは誰が犯しても即失格」となったものだが、ドラモンド選手が猛烈に抗議したため、このレースは最終組の後に回されるなど、大混乱になった。
ドラモンド選手はレース後、残りのレース(リレーなど)を辞退する意向を示していたが、国際陸連は翌々日の26日、ドラモンド選手を失格処分にしたため、同選手は正式に残りの競技に出場する権利を失った。

メディアや専門家の論調は、ドラモンド選手の態度や大会運営のまずさを非難するものが多い。「新ルールにも問題がある」という指摘もあちこちでされているが、「問題がある」止まりで、具体的に何がどう問題なのか、どう改善すればいいのかという意見があまり見あたらない。
「これからは、2度とこのようなことがないように運営サイド、選手、そしてコーチ陣がしっかりとルールを把握し、それを遵守することです」(苅部俊二・元陸上400m選手で今大会TBSのコメンテイター)なんていう優等生的なコメントばかりでは、ドラモンド選手があまりにも可哀想だ。

最初に、問題を2つに分けておこう。
1回目のフライングは免責で、2回目は誰であろうが即失格という新ルールの弊害と、スターティングブロックの圧力センサーが、ピストルが鳴って0.1秒以内に反応した選手を機械的に判定するシステムが正しいのかどうかという問題は別のことだ。

まず、「2回目のフライングは即失格」という新ルールには大きな問題がある。正々堂々と勝負する自信がない選手や、スタートが不得意な選手は、フライングなしの状態より、フライングありの状態でスタートしたほうが有利になるからだ。そのため、今大会では故意のフライングが非常に増えた。たいていは記録の悪い選手が、それこそ「機械的に」フライングをしている。
2回目のフライングは即失格だから、誰もがスタートに慎重になる。もともとスタートが弱い選手は、強い選手が好スタートをきれなくなることによって有利になるのだ。
競技運営をスピードアップさせる目的で採用されたこのルールだが、結果的にはかえってフライングを増やしている。また、こうした「駆け引きフライング」のせいで、競技自体が白けてしまう。

次に、ドラモンド選手は本当にフライングを犯したのかどうか、あるいは現在のフライング判定ルールは、正しく「フライング」を判定しているのかどうかという問題を考えてみたい。

スタートのシーンを何度見ても、ドラモンド選手やパウエル選手が他の選手より先に動いたとは見えない。身体が動いていない以上、彼のフライングは「機械が0.1秒以下で反応したと感知したから」成立したものである。
このシステムは「不正スタート発見装置付スターティングブロックシステム」という。
機械は壊れていなかったということなので、もし、ドラモンド選手が本当に「フライング」を犯していなかったのなら、次のような可能性が考えられる。

1)圧力センサーのセッティングが不適(過敏すぎる)
2)圧力センサーは正しく反応したが、それを記録するコンピュータソフト側にバグがあった
3)そもそも人間はピストルの音を聞いて0.1秒以内に筋肉を反応させられないという前提が間違っていて、超一流選手は0.1秒以下でも反応できる

1)についてはいちばん可能性が強いだろう。実際、ドラモンド選手は「足がぐらついた」と言っている。しかし、スタートシーンを見る限り、その「足のぐらつき」は目では判定できないほどのものだ。
スターティングブロックの圧力センサーは、選手が足を置いたときからずっと圧力を計測し続けている。コンピュータが出すグラフを見ても、連続した曲線グラフになっている。
身体が動かなくても、ブロックにじわっとかける圧力が一定値を超えればフライングと判定されるとしたら、その「フライングの定義」は正しいだろうか?
身体が動かないのに機械が反応すれば「フライング」であるなら、そもそも短距離走のスタートとはどう定義されるのだろうか。
古来からかけっこでは、「身体が動いたときがスタート」「スタートラインを超えたときがスタート」とされてきたはずだ。その瞬間を測定するために考えられたのが「不正スタート発見装置付スターティングブロックシステム」であるはずで、「不正スタート発見装置付スターティングブロックシステム」がスタートの定義そのものになっていることはおかしい。

2)に関しては検討の余地がある。センサーの精度が高くても、それを処理するコンピュータが狂っていたら間違った結果を生む。

3)については、もし人間の生理として0.1秒以下の反応ができないとしても、このように定義してしまうことが正しいのだろうかという疑問を感じる。ゴール地点での勝負は100分の1秒単位で測定されるのだ。100分の1秒まで同じタイムであっても、今度はスリットビデオなどの光学系装置を動員してきっちり順位を決める。
それなのに、スタート時点では「0.1秒以下なら失格」というのは、どうにも大雑把な気がしてしまうのだ。
人間は0.1秒以下で反応できるはずがない、と決めつけることが、そもそもスポーツ選手を侮辱していないだろうか。
今回、隣のレーンのパウエル選手は、ドラモンド選手に引きずられてフライングを犯した、と言われている。そうなのだろうか?
ピストル号砲からスタートを切るまでの反応時間は、ドラモンドが0.052秒、パウエルは0.086秒と計測されている。二人の差は0.034秒である。
もし、本当にパウエル選手がドラモンド選手につられて動いたなら、ドラモンド選手が動いてから0.034秒で反応したことになってしまう。人間は0.1秒以下では反応できないのだから、そんなことはありえないではないか。
ゴール時点で測定するスリットビデオ方式で、このときのスタートを詳細に分解写真表示してみてほしいものだ。フライングされたと判定された二人より早く頭を動かした選手がいるはずだ。
誰が見ても納得できない映像があり、それに相反する機械の判定結果がある。どちらを信じるか……これこそ究極のデジタルストレスだ。

そこで、最後に具体的な提案である。

1)不正スタート発見装置付スターティングブロックシステムを廃止する。

圧力センサーという発想がまず間違っていると思うのだ。
ゴールの判定は、ゴールラインを胴体の一部が通過した瞬間と定義されている。ONかOFFかという明確な判定ができる。
これに対して、圧力センサーというのは、どうも曖昧さが残る。棒高跳びの棒に身体が触れても、実際に棒が落ちなければセーフというのに通じる気がする。
ゴールと同じように、ONかOFFかの明瞭な判定方法はないものか。
例えば、足ではなく手に着目する。どちらか一方の手がスタートラインを離れた瞬間をスタートとする、と定義したらどうか。手が離れない限り、身体が多少動こうが、足がスターティングブロックを強く押していようが関係ない。手が離れる離れないを感知するセンサーは、圧力センサーよりずっと明解に作動・判定できるはずだ。

2)スタートを機械による秒読み式にする

スターターによって、「位置について」から「用意」までの間はまちまち。「用意」からピストルまでの間もまちまち。この曖昧さが、ときに名勝負になったかもしれないレースを台なしにする。今回の大会でも特に目立った。
人間の尊厳を守るべき部分と機械によって曖昧さをなくすべき部分を取り違えているような気がしてならない。
人間が目で見て、まったく動いていないと判定できるのに、機械がフライングをしたと判定するからフライングだ、というのが今回の事件を不愉快なものにしている。そんなに機械が信用できるなら、スタートに人間が介入できる要素を減らせばいい。

スターターは「位置について」の合図だけを行う。その合図と同時に、選手の後ろから10のカウントダウンが流れる。選手はこの10秒の間にスタートラインにつき、スタートする姿勢を取らなければならない。
1秒前になっても、両手をスタートラインに置き、スターティングブロックに足を置けなかった選手はその時点で失格となる。しかしレースは中断されない。
ゼロと同時にピストルが鳴り、選手はスタートできる。フライングかどうかの判定は、前述のように、どちらかの手がスタートラインから離れたかどうかで判定する。両手と両足が離れていない限りは、身体が動いてもフライングとはならない。
フライングと判定された選手(ピストルの音より早く手がスタートラインを離れた選手)は、その時点でスターティングブロック後方のランプが赤く点灯し、失格が表示される。しかし、レースは続行される。
会場が異常にざわついたとか、競技を行うのに危険な状況が起きたという場合は審判がレースの中断を判断できるが、それ以外は基本的に、何人のフライングがあろうが、選手はゴールまで走る。もちろん、フライングを犯した選手が何着でゴールしても無効となる。

恐らく、この方式にすると、記録は今より若干伸びるだろう。ピストルから0.1秒以下で手が離れてもフライングとはされないのだから当然だ。
もし、今までの記録との整合性を重視するなら、スターティングブロックに圧力がかかる瞬間と手がスタートラインから離れる瞬間でどれだけ差があるのかを測定して平均値を出し、計測偏差値を出して補正するということも考えられる。

とにかく、今のルールのままではまともに陸上短距離競技を楽しめない。見ている人間が楽しめない以上に、選手がいちばんの被害者だ。
早急にルールの大幅改正が求められる。


岩木山神社の玉垣しがみつき狛犬
●玉垣にしがみつく狛犬
岩木山神社(青森県) 江戸時代の作

(c) Takuki Y. http://komainu.net


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