たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年2月23日執筆  2002年2月27日掲載

スポーツの「勝負」とは何なのか?

前回の「人が人を採点することの難しさ」には、かなりの反響をいただいた。
あの原稿を書いている先から、フィギュアスケート ペアでは、カナダペアにも金メダルを授与するという前代未聞の大事件に発展。男子ショートトラックは、1000メートル準決勝での寺尾悟選手失格事件や1500メートル決勝でのキム・ドンソン(金東聖)選手(韓国)失格事件などで、もう滅茶苦茶。距離スキー女子20キロリレーのレース直前での主力選手ドーピング疑惑失格事件や、アイスホッケーでの「偏向審判」批判などなど、審判にまつわるトラブルが出ない日はない。
このソルトレークオリンピックは、「審判疑惑五輪」として、長く人々の記憶に残ることになるのだろう。

さて、今回は、審判疑惑以前に、そもそも競技のルールがおかしくないか、という論点で書いてみたい。

まずはスケート ショートトラック。
寺尾選手失格やキム選手失格をテレビで見ていた人たちからは、「そもそもこの競技の成熟度が疑われる」という意見が結構出た。審判の胸先三寸で、ゴール後にどうにでも順位を操作できてしまうような競技を、なぜオリンピック種目に加えたのか。あんなことが、金のからんだ競輪場やオートレース場で行われたら、観客がどっとなだれ込んで死傷者が出る事件になりかねない、と指摘する人もいた。
もっともな意見だと思う。

昔、ローラーゲームというプロスポーツが大人気を博していたことがある(東京ボンバーズなんて、覚えている人は結構な年輩だろうと思ったら、実は現在でも存続していた)。あれは「ローラースケートをはいたプロレス」と呼ばれる。
ローラーゲームを知っている人には、ショートトラック競技は一種の格闘技に見えるかもしれない。あの狭いトラックを周回するのだから、身体が接触するのは当たり前だ。
実際、1500メートルで優勝したアポロ・アントン・オーノ選手は、予選から決勝までの間、何度もいろんな選手と接触したが、いずれも反則とはみなされなかった。

ところが、寺尾選手が失格した1000メートル準決勝でも、キム選手が失格した1500メートル決勝でも、問題となったシーンで選手の接触はなかった。
1000メートル準決勝で、前を行く選手が転倒したとき、寺尾選手は離れて後方から追っていた。身体に触れもせず、後ろにいた選手が前の選手の転倒の「原因を作った」と言うなら、寺尾選手は超能力者で、後ろから「転べ!」と念力を送ったとしか考えられない。

キム選手が失格となった1500メートル決勝でも、「走路妨害」「走路変更」などという理由がつけられているが、あれを反則とするなら、そもそもショートトラックという競技は成り立たないのではなかろうか。オーノ選手が転倒し、2位となった1000メートル決勝などは、いちばん後ろから蚊帳の外状態で滑ってきて優勝した選手以外は全員失格になってもおかしくない。

ある競技を成立させるためには、まずは誰もが納得できるしっかりとしたルールを確立しなければならない。ショートトラックなら、例えば、故意ではない接触は原則的に無視する。追い抜くときは外側からが基本で、内側から抜く場合、前を行く選手と接触しても、先行している選手にはペナルティは課さないなど、理にかなったルールがあって、初めて競技として成立するはずだ。今回のオリンピックで、多くの人はこの競技に対し、基本的な部分で疑問を抱いてしまったのではないだろうか。

そうしたルールを整備しても、実際のレースでは、接触による明暗のドラマが必ず出てくる。1992年バルセロナ五輪男子マラソンで「こけちゃいました」の谷口浩美選手や、1984年ロサンゼルス五輪女子3000メートルのメアリー・デッカー・スレイニー選手(アメリカ)とゾーラ・バッド選手(南アフリカ)の接触事件。いくらでもある。
最も記憶に焼き付いているのは、1995年の第17回東京国際女子マラソン。レースは稀に見る接戦となり、38キロ地点でもまだ先頭集団は5人が固まっていた。そのとき、浅利純子選手が前を走っていた吉田直美選手の踵を踏み、吉田選手は靴が脱げて転倒。踏んだ浅利選手と、併走していた後藤郁代選手も転倒した。転倒しなかった原万里子選手とワレンティナ・エゴロワ選手(ロシア)は、これを機にスパートをかけ、逃げ切りをはかった。

浅利選手はすぐに起きあがって追走し、ゴール直前で先行していた2選手を抜いて優勝。「転倒にめげず優勝」と賛美されたが、吉田選手の踵を踏んで靴を脱がせた第一原因者であることは、まったく報道されなかった(僕はあのシーンをすぐにビデオに録り、何度もスロー再生して確認した)。
吉田選手は靴を拾ってはき直したために大きくタイムをロス。最終的には優勝の浅利選手に10秒差の4位だったが、転倒地点からゴールまでのタイムは、すぐに起きあがって走り続けられた浅利選手より速かった。
このレースのことは当時もあるコラムで書いたし、そのときの文章もWEB上に残してあるが、浅利選手に靴を脱がされなければ優勝していたかもしれない吉田選手は、これ以降ぱっとせず、第一線から消えていってしまった。
吉田選手や後藤選手には、一生を左右する不幸な接触事故だったが、浅利選手の優勝に異議を唱えた人は誰もいなかったし、そういうドラマも含めてレースは成り立つものなのだと、みんなが納得していたと思う。接触を避けるために集団から離れて走るのも、ひとつの技術であり、戦略なのだという解釈だ。

ショートトラック関係者には大変失礼な言い方になってしまうが、今回の判定のようなことがまかり通るなら、この競技は、審判員の資質も含めて、まだスポーツとして成熟していないのだ。とても不幸なことだが、今後、ショートトラック競技のニュースが入ってきても、多くの人たちは「ああ、審判の気分で結果がどうにでもなる、あのいい加減なスポーツか」と思い返すような気がする。このスポーツに情熱をかけている人たちのためにも、今からでもいい、競技団体の体質やルール作りの見直しを含めた根本的な「構造改革」に取り組むべきだ。

次に、今回のオリンピックで、最も派手な審判疑惑事件を起こしたフィギュアスケートについて。
ロシアペアを優勝させるようにと圧力があったと告白したフランスのルグーニュ審判員が、その後再び「不正はなかった」と告白を覆したとか、カナダペアが「繰り上げ金メダル」なら、女子シングル2位のスルツカヤ選手にも救済金メダルを与えろとロシアが主張しているとか、もう、うぐちゃぐちゃの様相を呈しているようだ。審判疑惑は当然まずいが、追加金メダル措置はもっとまずいだろう。

前回このコーナーで僕は、「ロシアペアは、誰の目にも分かるジャンプの着地ミスを含め、いくつかの減点要素があったのに対して、カナダペアはほぼ完璧な演技。普通に考えればカナダペアの優勝は明らかだった」と書いたが、フィギュアスケートが「芸術点」などという主観の入り込む採点競技である以上、「ミスがなければよい」というわけではない。
実際、「多少のミスはあっても、ロシアペアの演技に感動した」「カナダペアはミスをするまいとして演技がのびのびしていなかった気がする」といった感想を持つ人も多い。
(実は僕もそう感じたひとりだ)

審判疑惑は明らかだが、結果としてロシアペアが優勝し、カナダペアが2位になったことが不当すぎるとは思わない。採点競技なのだから、ケチをつけ始めたらきりがないし、ますます収拾がつかなくなる。ケチをつければ銀メダルが金メダルに変わるという前例を作ってしまったことは、オリンピックにとっては審判疑惑以上の汚点だし、オリンピックの尊厳や威厳に対する危機も招く結果になってしまった。

人間の判断なんて、所詮いい加減なものだ。いろいろな意味で、間違いはある。おかしな結果が出たことは素直に反省し、では、次からどうしたら少しでも公正な勝負ができるようになるだろうと考え、工夫し、変えるべきものは変えていくという努力と柔軟性こそ望まれるはずだ。

例えば、フィギュアスケートの「順位点」という採点方法。
この方式は、ひとりの審判が自分の持ち分の中で完全に選手の順位をコントロールできてしまうということは前回書いた。しかし、疑問はそれだけではない。たとえ審判員たちが公正な採点をしたとしても、理不尽な結果を招く矛盾だらけの採点方法なのだ。
今回の女子シングルの結果を例に説明しよう。

フィギュア女子シングルは、大穴のサラ・ヒューズ選手(アメリカ)が大逆転で優勝し、「テロの被災地ニューヨーク出身。16歳の少女が奇跡の逆転優勝」と沸いた。
「フリーでいちばんいい演技をした彼女が優勝という結果になってよかった」という声は多い。僕も別に彼女の優勝にはなんら文句はない。
ただ、彼女が優勝した「採点システム」には、どうしてもなじめない。

フリー演技最終組で、メダルに絡んでいたのは優勝候補のミシェル・クワン選手(アメリカ)、イリーナ・スルツカヤ選手(ロシア)。そして、大穴と言うべきサラ・ヒューズ選手の3人。滑走順は、ヒューズ、クワン、スルツカヤの順だった。
最後のスルツカヤ選手が滑る前に、ヒューズ選手とクワン選手の演技は終わっている。
普通の競技なら、この時点で、少なくともこの2選手の「相対順位」は決まってなければおかしい。残ったスルツカヤ選手がうまく滑ろうが失敗しようが、ヒューズ選手とクワン選手の出来が変わることはありえないからだ。

スルツカヤ選手が滑る前の3人の順位点は以下のようになっていた。
選手SP順位フリー順位総合順位点
ヒューズ4(1か2)
スルツカヤ2
クワン1(2か3)

ショートプログラムの順位点は半分にされるから、総合順位点は
(ショートプログラムの順位×0.5)+(フリーの順位点)
で計算される。総合順位点が同点なら、フリーの順位が高いほうが上になる。

もし、スルツカヤ選手がフリーで1位なら、
選手SP順位フリー順位総合順位点メダル
ヒューズ424
スルツカヤ212
クワン133.5

だった。
もし、スルツカヤ選手がフリーで2位なら、
選手SP順位フリー順位総合順位点メダル
ヒューズ413
スルツカヤ223
クワン133.5

となり、実際にそうなった。
もし、スルツカヤ選手がフリーで3位なら、
選手SP順位フリー順位総合順位点メダル
ヒューズ413
スルツカヤ234
クワン122.5

となった。
つまり、スルツカヤ選手がもう少し頑張ってフリーで1位になればヒューズ選手は銅メダルだったし、逆にもう少し失敗をして3位になっていたらクワン選手が金メダルだったのだ。
これを「フィギュア競技の醍醐味」と言う人もいる。そうなのだろうか?

スルツカヤはフリーの順位がそのまま総合順位になるが、ヒューズとクワンは入れ替わる可能性がある。ヒューズもクワンももう滑り終わっていて、普通に考えれば、スルツカヤがその後でこけようが見事に滑ろうが、ヒューズとクワンの相対順位は決まっていなければおかしい。だけど、スルツカヤが失敗すればクワンが金でヒューズが銀。スルツカヤが見事に滑れば、クワンが銀でヒューズが銅。つまり、どちらのケースでもクワン選手はヒューズ選手の上にくる。

もし体操競技でこんなことがあったら見ている人たちはどう思うだろうか。優勝を争っている2選手が、全種目を終了し、総合点も出ている。A選手はB選手より総合点でわずかに上回って、もうひとりの優勝候補・C選手の最終演技、鉄棒を見まもっている。
C選手が見事な大技を決めれば、あるいは落下して大失敗すれば、そのままA選手の優勝。だが、C選手がそこそこ頑張ってA選手の次にいい点を出した。それによって、A選手は優勝を逃し、A選手の下にいたB選手が「逆転優勝」を飾る……。

演技を終えている2選手の相対順位が、別の選手の出来いかんによって左右される。こうした採点方式を理不尽としないなら、フィギュアスケートは、スポーツ競技というよりは、運任せの要素を最初から認めたゲーム、あるいは純粋な娯楽ショーに近いと言えるだろう。それならそれで、順位などつけず、オリンピック付随のショーとして定着させればいい。

ただでさえ不正が蔓延している現代社会。スポーツくらいはすっきりと見ていたい。
こういうことが続くと、人々は、スポーツを、理不尽な運任せの要素が入っているゲームだと思って観戦するようになる。審判の不正や理不尽なルールも、すべて認めた上で、「まあ、しょうがないね。運がなかったね」「事前に審判工作をもっとうまくやっておかないとね」などと評しながらスポーツを見るようになる。
そのあきらめムード、厭世観が、何よりもいちばん怖い。

Do you remember me?

挿画 「A dog, a horse, a moon, and a sun.」 (c) tanuki
 






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