たくき よしみつ デジタルストレス王(キング) 鐸木能光

2009年6月19日執筆

『大人のための新オーディオ鑑賞術』削った部分

たまには風車以外のことを……。

『大人のための新オーディオ鑑賞術』 今日発売される『大人のための新オーディオ鑑賞術』(講談社ブルーバックス)は、価格を抑えるため、書き上げた原稿から数十ページを削った。
普通に本としてのまとまりを考えれば、削ったほうがすっきりと読める本になっている。
でも、削った部分には個人的な思い入れや、切ない人生の記録みたいなものがいくつも入っていたので、ここに一部を公開して、未練がましく残しておこうかと思う。


DATとタヌパックスタジオ

 DATは日本で最初に発売されましたが、その1号機(AIWA、ソニー、シャープ、松下、ビクター、ケンウッドなどからほぼ一斉に発売)が出たとき、私はすかさず購入しました。これらDAT初代機の定価は約20万円で、値引きはほとんどありませんでした。
 貧乏人の私が即座にDATを買ったのは、別に「いい音」を楽しむためではありません。自宅録音でプロレベルの高音質が実現できると踏んだからです。
アンサーのデビューシングル  当時の私は、ビクターから1枚のシングル(それも企画ものに近い不本意な形のもの)を出した直後、デュオの相方と決裂し、デビューアルバムを録音中に解散するという、人生最悪の経験の後、長く暗いトンネルの旅をつづけているところでした。最初のデビューチャンスを棒に振った後も、何度かソロでレコードデビューの話が持ち上がりましたが、ディレクターが社内で問題を起こしたりといった、自分とは関係ないところでことごとく話がつぶれていきました。
 その間、CM音楽を書いたり、あるいはスタジオで歌手として歌入れをするだけの仕事をしたり、失意のまま、いろいろやっていましたが、気がつくと、音楽業界そのものがすっかり様変わりしていました。レコード会社のディレクターの権限が薄れ、芸能事務所主導型になっていったのです。
 大きなチャンスは一度逃すと二度と取り戻せないと言いますが、私の人生がまさにその通りでした。思うような音楽の仕事ができず、教材のBGMやら「著作権フリー音源」やら、どんどん仕事の内容がひどくなっていくうちに、いっそ、自分のやりたい音楽は自分で全部作り、自宅録音で商用に耐える音質のCD作品を作れないかと思い始めていました。
 DATとMIDIの登場が、それを可能にしてくれる予感がしていました。これらが出てくる前は、プロ用機材と民生機の差はあまりにも大きくて、自宅でプロの録音スタジオと同レベルの録音をすることなど、到底考えられないことでした。

DATとSCMS

 DATが出てきたとき、ソフトメーカーは、そのあまりの高音質に恐れをなし、デジタルコピーの世代制限(孫コピーが取れない)をするSCMS(スカムズ)というコピー制御規格を採用させました。私が最初に買ったシャープの1号機と2台目に買ったソニーにはSCMSはついていませんでしたが、ソニーが壊れて修理に出したところ、SCMS付きで戻ってきてショックを受けました。
 音楽制作の現場では、マスターテープがダメになったときのために、バックアップコピーは必ず作っておかなければなりません。しかし、SCMSがついてくると、いざマスターテープが壊れたとき、バックアップからさらにバックアップを作ることができなくなってしまいます。これは本当に困りました。
 ソフトメーカーはデジタルコピーを必要以上に恐れすぎています。海賊版や不法流出というものは、コピーガードをしようがしまいが、やり方はいくらでもあり、やる人はやるのです。
 その他大勢の、ほとんどのユーザーは個人的に楽しむためにデジタル録音機や録画機を使っています。コピーを恐れるあまりに録音機器の使い勝手を悪くさせることは、音楽や映像文化の萎縮につながるでしょう。そうなれば、最後はソフトメーカーも衰退していきます。
 このテーマは後に詳しく取り上げますが、とりあえず私がここで言いたいことは、「ほとんどの人は、CD以上の音質を必要としていないし、CDを超える音質を実感できる再生装置も持っていない」ということです。

 私が今まで音楽を聴くことに費やした時間の半分以上は、自分が作った音楽に対してのものです。一つの曲を書き、それを演奏し、録音し、ミックスダウンして、最後はCDのマスタリングをしますが、この過程で、1つの曲を根を詰めた状態で何百回と連続して聴くことになります。
 また、録音した後も、他人の曲を聴く以上に自分の曲を聴くことのほうが多かったと思います(ただし、CDマスタリング作業の後しばらくは、あまりにも繰り返し聴いて疲れ果てているため、聴きません。その曲を「1リスナー」として自然な状態で聴けるようになるには数か月はかかります)。
 他の人の曲を聴く時間は、おそらく、音楽好きの人の平均よりはるかに短いでしょう。
 今まで書いてきた音楽ファイルをコピーするやっかいさ、例えばケータイで聴くためにファイルを転送する話なども、多くは自分の音楽です。しかし、LISMOなどのソフトを使ってケータイに自分で作った音楽ファイル(当然、コピーガードなどかかっていない生データです)を転送した途端、そのファイルは簡単には孫コピーできない「鍵のかかった状態」になってしまいます。
 DATもそうです。高い金を出して買っても、SCMSのおかげで、自分の作った音楽ファイルの孫コピーが取れないという噴飯ものの事態になります。
 これは特殊なケースかもしれません。しかし、企業によってCDのように商品化された音楽についても、「個人的利用においてはコピーできる」という権利は侵されてはならないと、私は考えます。
 コピーして海賊版を作って販売して儲けるとか、誰もがダウンロードできるWEB上にファイルを置くといったことは明らかに違法行為ですが、最近では「私的利用内のコピー」も、次々に圧迫されています。
 これに関しては、「こうあるべきだ」という議論よりも先に、現行法に抵触するのかどうかという問題があります。しかし、その法解釈がかなり曖昧で、明快な説明ができないというのが現実でしょう。


ひがみっぽいかな……と

 ヒットチャートを株価の動きのように見ている人ばかりになってしまったら、音楽の魅力は消えてしまうでしょう。

誰かから押しつけられた商品を単に消費するだけの「ユーザー」で止まっているのは情けないことではないでしょうか。

 私は30年以上前から、音楽はやがて「もの」を介してではなく、ファイルの配信という形で売られるようになるだろうと思っていました。今、ようやくそうなったわけですが、予想外だったのは、音楽配信ビジネスが音楽の自由度をむしろ狭めてしまったことです。
 みなさんは、現在の音楽配信ビジネスを手放しで喜び、享受していらっしゃるでしょうか。私は自由どころか、閉塞感を感じます。

現代の音楽ビジネスに愛想が尽きて、歳を取るとともに、新しい音楽を探す気力も情熱も持てなくなっていく……。私もそんなひとりです。

富田勲氏のアナログシンセサイザー

 録音方法だけでなく、楽器もすべてアナログでした。
 シンセサイザーはまだ出始めで、使われたとしてもアナログ音源のものでした。富田勲氏が自宅マンションに数千万円の機材を揃えて多重録音のアルバムを制作し、話題になったのもこの頃です。
 Rhodes社が電気ピアノを出して一大ブームを起こしたり、エレキギターのエフェクターが多様になったりして、いろいろな「新しい音」「かっこいい音」は出てきても、それらはまだすべてアナログの音でしたし、ちゃんとミュージシャンが演奏していました。

うざいかな……と

 携帯電話端末で「着うた」を聴くといった、今までなかった音楽鑑賞環境も登場してきましたが、これも私は好きになれません。誰かにコントロールされているような息苦しさを感じるのです。
 今はこれが流行っているからこれを聴け、と押しつけられ、音楽という商品をひたすら消費するように促されている気がしませんか?
 私たちが音楽に目覚めていった時代は違っていました。自分で好きな音楽を探し出し、その音楽を、自分がいいと思う音で、気持ちよく鑑賞するために工夫をしました。
 そうした根源的な自由や楽しみ方が、デジタル時代になって、むしろ奪われてしまった気がするのです。

「私的利用範囲のコピー」と「フェアユース」

 欧米では日本以上に著作権侵害訴訟が起きますが、その際によく出てくる概念に「フェアユース」というものがあります。
 これは簡単に言えば「正当な理由があれば、著作権者の許可がなくても著作物を利用できる」という考え方です。
 アメリカの著作権法では、このフェアユースに該当するか否かを判断する要素として、以下のような項目をあげています。

(1)使用の目的および性質
(2)著作権のある著作物の性質
(3)著作権のある著作物全体との関連における使用された部分の量および実質性
(4)著作権のある著作物の潜在的市場または価値に対する使用の影響

(1)は、使用に商業性があるかどうかがいちばんの問題となります。他人の著作物のコピーを使って勝手に儲けてはいけないのは当然のことです。また、個人使用ではなく、企業や団体内での使用であっても、ニュース報道や教育目的などであれば、フェアユースとして認めてもよいという考え方があります。
(3)は日本でも認められている「批評」行為での「引用」の範囲内かどうか、といったことが判断基準になります。
(2)と(4)にはかなり曖昧なところがあり、常に議論の的になります。例えばディスニーのキャラクターのように商品価値が高いものは、自然と著作権侵害の判断が厳しくなる傾向があるというようなことはあるでしょう。
 フェアユースか否かの判断は一律に決められるものではなく、個々の事例によってかなり流動的なものです。
 日本では個々の事例を精査するのは大変だということで、総括的に判断したがる傾向があるように思います。
 日本の著作権法における「複製の可否」は、すでに紹介したように(◎ページ参照)日本語とは呼べないほどの悪文で、それだけでも問題なのですが、個々の審議を避けて包括的な判断をしたいのであれば、もっと簡潔明瞭に制定すべきでしょう。
 例えば、

(1)個人が私的に利用する範囲内での複製行為は認める
(2)著作物を無断で複製して商行為を行ってはならない
(3)複製権所有者が存在する場合、その著作物を無断で公共通信媒体、通信手段を用いて露出させてはならない
(4)複製権を持つ者が商品としての著作物(録音・録画ソフトなど)にコピー防止措置を施す自由は認めるが、その結果、購入者の正当なる再生装置や再生ソフトなどの財産に損害を与えた場合は処罰・賠償の対象となる

 ……基本的にはこれだけでいいと思うのです。
 その上で、ネット上での公開についても縛りをかける一方ではなく、、「ネット上で楽曲を推薦、紹介、引用したい場合は、原曲が3分以上であれば30秒まで、3分以下の場合は1/8までの、ビットレート64kbps以下の劣化圧縮ファイル形式であれば認める」というように、むしろ、きちんとしたルールを定めた上で情報が広まっていくようにしたほうが、ソフト会社にとっても顧客増につながるでしょう。
 この曲が聴きたい、この曲をいつでも自由に聴ける状態にしておきたいという欲求は、まずその曲に出会うことから始まります。知らなければ一生知らないままですし、聴きたいと思うこともありません。今のようにコピーガードにばかり力を入れている状況は、音楽文化全体をどんどん衰退させることになるでしょう。
 しかし、音楽産業は思考硬直したままで、今以上のコピーガード社会に向けて突き進もうとしてきました。
 文科省のもとに置かれている文化審議会著作権分科会司法救済制度小委員会で、高杉健二委員(社団法人日本レコード協会事務局長)は、「技術的保護手段の回避等に係る違法対象行為の見直しについて」と題する資料を提出し、コピーガードに関する情報流通そのものを取り締まるべきだと主張しました。(2002年9月の第4回小委員会。2009年3月現在、文科省のサイトで閲覧可能。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/012/020902e.htm)
 これによれば、
「著作権者等が著作権等を侵害する行為の防止又は抑止を目的として著作物等に施す技術的保護手段について、これを回避する方法が書籍、雑誌及びインターネット等により多数公表されており、著作権等の保護の実効性が著しく損なわれている」ので、改正著作権法をさらに強化し、「技術的保護手段の回避を助長することを専らの目的とする情報を公衆に提供する行為も処罰の対象とする」ことを求める、としています。
 ネット上で、このソフトを使うとコピーができますよという情報を発信する者も処罰せよ、と言っているわけです。
 これは2002年のことですので、全世界的にDRMなしでの音楽配信に向かっている現在では、さすがにここまで硬直した姿勢が続いているとは考えたくないのですが、ある日突然とんでもない法律が成立している日本のことですから、油断はできません。

「著作権保護」の原意を問う

 現在、「著作権が侵害されている」という話題のほとんどは、ソフトメーカーなどの企業が自社の商品をコピーされたり、ネット上に流出されたりして不利益を被っている、という内容です。端的に言えば、「この作品を複製する権利は我が社にだけあるはずなのに、他の者がコピーしているのはけしからん」という話ですね。
 しかし、著作権というのは「複製物で商売ができる」という狭い意味のものなのでしょうか。
 私は違うと思います。
 著作権の出発点は、著作者がその作品を生み出したことへの敬意を払うことにあるはずです。
 他者が勝手にその作品を使って商売をしてはいけない、その作品が生み出した利益の一部は著作者に渡るべきである、といったルールは、「著作者が作品を生み出した行為を尊ぶ」という思想から派生したものにすぎません。
 言い換えれば、著作権の思想は「著作者が創作活動によって生み出した作品によって幸福になれる権利」であるはずです。であれば、著作権を標榜するルールが著作者を不幸にすることがあってはなりません。
 しかし、現実には著作権の名のもとに、著作者の幸福が奪われているケースは少なくありません。
 最も端的な例は盗作行為におけるパワーゲームです。
 大企業と契約している人気アーティストが、まだ無名のアーティストの作品を巧妙に盗んで巨大な利益を上げるといったことはよくあります。企業にとっては、すでに儲かるシステムの中に組み込まれている有名アーティストの作品として売り続けたほうが都合がいいので、契約している有名アーティストを守るためにお金を使います。そうなると、無名のアーティストが人気アーティストの盗作行為を自力で証明し、本来の「著作権」を回復することは恐ろしく困難です。
 絶版作品や、最初から商品化されなかった作品を後世に残していくという面でも、著作権がマイナスに働くことがよくあります。
 私は25歳のとき、ビクターでデュオグループのリーダーとしてデビューのチャンスを得ましたが、デビューアルバムを録音中にデュオを解散するという人生最大の失敗をしました。
 このとき、私が20代のときに書いた曲の中でも最高傑作と自負している『Go Away』(なんと皮肉なタイトル!)という曲をスタジオでほぼ録音し終わり、後はミックスダウンだけになっていました。
 スクエア(当時)の安藤まさひろ(ギター)、ジェイク・コンセプション(サックス)といった、当代きってのミュージシャンが演奏し、本物のストリングスも入ったレコーディングは夢のようでしたが、この曲は今も世に出ることはありません。私は、カセットテープにコピーしてもらった仮ミックスダウンの録音を持っていますが、これをネットなどで公開することはできません。ビクターがお金を出した録音ですから、自分の曲とはいえ、勝手に公開できないのです。
 自分の曲でさえこうですから、他人の曲となればもっと無理です。
 実例を挙げましょう。
 私が時折車の中で聴いている「お気に入りヴォーカル作品集」の中には、オフコースの『水たまり』(初期のタイトルは『小さな水たまり』)という曲があります。
『水たまり』は、アマチュア時代のオフコース(鈴木康博、小田和正、地主道夫という横浜市の聖光学院で同期生だった3人が結成したフォークグループ)のオリジナル曲です。もしかするとオフコースが歌った初めてのオリジナル曲かもしれません。しかしこの曲はレコーディングされた記録がありません。
 当時(1970年代前半)のオフコースのライブでは必ずと言っていいほど演奏されていた曲ですし、TBSラジオの番組レギュラーをやっていたときにもよく歌っていましたから、当時のオフコースファンなら誰でも知っている曲です。私もアマチュアバンド時代には耳コピーして、学園祭などのステージで演奏していました。
 今回、本当に商品化されたことがないのかとネットで調べたところ「にこ★サウンド」という投稿サイトに生演奏の録音がありました。1974年にどこかで行われたライブを録音したもののようです。
 これをネット上に晒すことは、著作権法違反に問われる可能性があります。演奏者の許可を取っているとは思えませんし、作詞作曲者への著作権使用料を払っているとも思えません。しかし、このままでは『水たまり』という曲は、そのうち完全に消えてしまうでしょう。
 これなどは、著作権によって名曲が消されていく例だと思います。
 商品として残らなかったために消えてしまう運命にある楽曲は世の中に星の数ほど存在します。これらのコピーができなければ、単純に音源がなくなり、復活の手だてもありません。こうした事態はすべての「売れなかった曲」「商品化されなかった曲」にとって不幸ですし、それらの楽曲を作り出した「著作権者」にとっても不幸です。
 なんとか、かつての名曲、名演奏を、合法的に誰もが聴けるような環境は作れないものでしょうか。
 著作権のために作品が喪失し、文化が衰退するのでは、まったく本末転倒ではないですか。

 著作権が作品の命を縮め、葬り去っている現状は、音楽だけではありません。
 文芸作品も、過去の名作が次々に絶版になり、本としては入手できなくなっていますが、著作権で「保護」されているため、青空文庫などの無料配信サイトにも登録できず、読めなくなっているケースがあります。
 日本では、著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則とする(著作権法51条2項)となっていますが、これを延長しようという動きがあります。
 私は、自分の著作物が、自分の死後50年も無料開放されないことのほうが問題だと思っています。文章作品の場合は、むしろせいぜい25年くらいに短縮してもいいのではないでしょうか。
 宮沢賢治は生きている間、自分の作品で得た収入は、雑誌に掲載された文章1つに対する原稿料5円のみで、印税は1円も手にできませんでした。自費出版で出した詩集はまったく売れず、なんとか出版してもらった童話集もほとんど売れず、印税の代わりに手にしたのは100冊の現物だったそうです。
 作品を作り出す者にとっての第一の幸福は、その作品や演奏が多くの人の耳に届き、長く愛されることです。
 コンテンツ産業に関わるかたがたにも、「著作権保護」の原意とはなんなのか、文化を築いていく仕事に携わる人間としての志を持って、ぜひ、考えていただきたいと思います。

思い入れ

 私が車の中で聴くライブラリの中には、高校生時代にNHKで放送された少年ドラマシリーズ『つぶやき岩の秘密』のBGMというのがあります。これはテレビのイアホン端子からオープンリールテープに録音したものなので、台詞やナレーションもそのまま入ってしまっています。それでも、石川セリが歌うテーマソング『遠い海の記憶』(井上真介:詞、樋口康雄:作編曲)は、後にレコードで出たのとは別テイクで、イントロの生ギターがカッティング奏法であったり、ベースのランニングが心地よく緩かったりしているので、音が悪くても、レコードのバージョンではなく、こっちを聴いてしまいます。
 最終回のエンディングなどは、主人公の少年が「つぶやき岩の秘密」を発見したシーンの効果音的BGMからそのままエンドテーマ音楽に流れ込んでいくところまで、切れ目なく録音したので10分近くなっていますが、40年近く経った今でも、ときどき聴いては、あのとき初めて樋口康雄という天才的な作曲家を知ったときの興奮と感動を思い出しています。
 
 
 ……こうして並べていくと、やはり「削ってよかった」のだと思う。
 ★というわけで、できあがった本は、余計な戯言が抜けて、すっきりと読みやすく、純粋にオーディオ趣味についての情報満載の本になっています。




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『大人のための新オーディオ鑑賞術』

大人のための新オーディオ鑑賞術(講談社ブルーバックス)

(2009.06)……  デジタル技術はオーディオ趣味の世界をむしろつまらないものにしてしまったのではないか? そんな疑問を抱く「大人」のリスナーに届ける、デジタルとアナログの融合発想による「新」オーディオ堪能術。

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