忘れてはいけない

女子長距離選手名鑑

田村有紀

 男子ばかりの日産陸上部とは別に、たった一人、女子選手として女子長距離界黎明期を駆け抜けた美人選手。松野明美がソウル五輪の1万メートル代表に選ばれたとき、1万メートルA標準記録(33分0秒)に惜しくも数秒届かず、夢を果たせなかった。今なら誰もが軽々と突破する平凡なハードルだが、当時はこれを突破できる選手は松野明美ただ一人だった。
 その後は拒食症になって文字通り骨と皮だけのような身体になってしまった時期があるが、それを乗り越え、2年後の国体の5000mで「奇跡の復活優勝」を遂げた。娘の出水田眞紀(白鴎高校~立教大学)も「母を超える選手になりたい」と、長距離ランナーとして活躍中。


田村有紀がモデルになった小説『天狗の棲む地』(1995、マガジンハウス)。現在は『狗族』と改題してKindleブックに(↑画像をClick!)

麓みどり

 知的な喋り方と、いかにも性格のよさそうな笑顔が印象的だった名選手。多くのレースで健闘したが、五輪や世界陸上などの華々しい舞台とは無縁だった。第一線を退いてからも、デオデオの陸上チームで現役選手を続けながら後輩たちの指導に当たった。


吉田直美

 アトランタオリンピック代表をかけた1995年の東京国際女子マラソン。残り5キロという地点でトップ集団を走っていた3人がもつれて転倒した。転倒したのは浅利純子(ダイハツ)、後藤郁代(旭化成)、そして吉田直美(リクルート)。1人、転倒を免れた原万里子がここぞとばかりに独走態勢に。
 転倒した3人の中で、いちばん痛手を受けたのは吉田直美だった。靴が脱げ、履き直さなければならなかったからだ。
 そもそも、この転倒の原因は、浅利純子が前を走る吉田に接近しすぎて彼女の靴のかかとを踏んだためだった。直後に何度か映し出されたスロービデオを見れば、それは明らかだった。
 転倒しただけの浅利は選考する原を追いかけ、ゴール寸前に逆転優勝した。マスコミはこれを「転倒しても夢を諦めずに大逆転」と華々しく報道した。転倒時のスロービデオは、その後、流されることはなかった。なぜなら、浅利が吉田のかかとを踏んで転倒させ、自分も倒れたという「証拠映像」を出したくなかったからだ。
 このときのことは、テレビライフのコラム「ちゃんと見てるよ」にも書いた。以下はそのときの原稿だ。
 
 これを書いている今は、1995年11月19日夕方。さっき、東京国際女子マラソンの中継(テレビ朝日)を見終わったところだ。
 で、僕は今、とても気分が悪い。今回は一視聴者モードになって、中継の憤慨観戦記を書いてしまう。
 レースは稀に見る白熱したものだった。最後の5キロほどのところで、優勝候補のエゴロワの他、吉田直美、浅利純子、原万里子、後藤郁代の4人が集団で競っていた。そのとき、突然浅利が転倒し、巻き添えを食う形で吉田と後藤も転んだ。吉田は靴が脱げて履き直したため、あっと言う間に先頭から100メートル近く遅れてしまった。
 レースはその後、転倒に巻き込まれなかった原とエゴロワの二人が抜け出したが、ゴール直前で追走してきた浅利が逆転して優勝した。中継は「転んだのに勝利への執念で逆転した浅利」への賛辞一色になった。バルセロナオリンピックの代表選考に漏れ、2年近くレースから遠ざかり、一時は故郷の秋田に帰って競技生活を辞めてしまいそうになっていた浅利の「復活」というドラマが、願ってもない形で実現した瞬間だった。
 しかし、ちょっと待ったァ!コールである。あの転倒がどうにも腑に落ちなかった僕は、転倒シーンをすぐにビデオに録画して何度もスロー再生して見た。すると、とんでもないことが分かった。
 浅利は前を行く吉田のかかとを踏んづけて靴を脱がせた挙げ句、一人で勝手に転んでいるのだ。靴を脱がされた吉田は弾みで転倒し、後ろにいた後藤も巻き添えを食って転んだ。
 吉田は遠くへ飛んでいった自分の靴を拾い、履き直して追走。最終的には浅利に十秒差まで迫った。つまり、転倒後からゴールまでの距離をいちばん速く駆け抜けたのは、間違いなく吉田なのだ。単純に考えれば、浅利に靴を脱がされなければ吉田が優勝していた可能性が非常に高い。しかも、後ろからかかとを踏まれた吉田にはまったく非がない。
 それなのに、ゴール後、吉田に同情する声はほとんど聞かれなかった。まるで、あらかじめ用意されていた「浅利復活ドラマ」の完成にケチがついてはいけないので、吉田のことには極力触れまいとしているかのようだった。
 吉田はリクルートの所属だが、同じリクルートの有森は先の北海道マラソンで優勝して「オリンピック当確」のニュアンスがある。「メダリスト有森の復活」ドラマにケチをつけられる雰囲気はみじんもない。同じ会社の吉田はますます「暗黙の邪魔者」にされる可能性が強い。「ドラマ」を望むテレビが世論をリードし、その陰でまた一人の若者が涙を呑む……という図が見えた気がした。
 吉田直美よ、負けるな。名古屋で優勝し、代表になれ!   

 結局、吉田はそのまま陸上界から消えてしまった。あのとき浅利が吉田のかかとを踏まなければ、吉田はオリンピックに出場できていただろう。まったく違う人生が待っていたはずである。
 今、吉田直美を覚えている人がどれだけいるだろう。吉田は地味だった。だが、地味な選手にはマスメディアは味方しないのか? 地味な選手はオリンピックを目指してはいけないのか? 松野や有森のように、ドラマ性のある選手だけが人々の記憶に残っていく。「存在感」も陸上選手にとって不可欠な要素なのだろうか?
   

小鴨由水

 バルセロナオリンピックの代表選考を兼ねた1992年1月の大阪女子マラソン。松野明美は陸連から「日本記録を出せば何位であってもオリンピック代表に選ぶ」という密約を得ていたという。それと引き替えに、前年の世界陸上東京大会では、マラソンではなく、1万メートルに出場させられたともいう。陸連としては、ゴールと同時に倒れ込む「1万メートルの松野」がどうしても欲しかったのだろう。
 松野は満を持して大阪国際女子マラソンに挑み、当時の日本最高記録を出すが、計算違いが起きた。なんと、無名に近かった小鴨由水が、松野をはるかに上回るタイムで優勝してしまったのだ。小鴨由水の快走で、松野の日本記録は幻のものとなる。
 小鴨の優勝は、所属チーム・ダイハツにとっても計算外だった。ダイハツのエースは浅利純子であり、小鴨は浅利のペースメーカーとしての役割を担わされていた。しかし、浅利はこのレースでは惨敗した。
 日本最高でレースをぶっちぎった小鴨由水を代表から外すわけにはいかず、また、人気のある有森裕子も欲しい陸連は、松野との密約を反古にして、結局有森を代表に選んだ。
 結果として、有森は「本番」のバルセロナで銀メダル。小鴨由水は途中棄権。陸連は、有森を選んだ自分たちの判断は正しかったと胸を張ったが、それはおかしい。
 メダルが取れればいいという考え方が間違っている。オリンピックには、「出場する正当な権利を得た選手」が出るべきであり、その選手がどういう成績を取るかもまた、選手個人の問題なのだ。僕たちはそれを観戦して、感動を分けてもらうにすぎない。選挙で政治家を選ぶのとは意味が違うはずだ。
 小鴨由水は、その後陸上界を引退し、結婚。自分のペースで走り続けた。2000年1月の大阪国際女子マラソンにも一般参加し、シドニー五輪代表をめざして熾烈な争いをする弘山晴美や千葉真子らのはるか後ろで、黙々と走っている姿が映し出された。
 その後、ママさんランナーとなり、2003年の東京国際女子マラソンにも出場。市民ランナーとして走り続け、福岡市社会福祉事業団の職員として指導員もつとめていた。
彼女の潜在能力の高さを思うと、代表選考騒動に巻き込まれたままつぶれてしまったのは惜しいが、その後の人生が本当の彼女らしい人生だったのかもしれない。

弘山晴美

 松野明美・真木和・鈴木博美らと同じ1968年生まれの長距離選手。資生堂所属で非常に長い期間、第一線で活躍した。
 オリンピックにも1996年アトランタ(5000m)、2000年シドニー(10000m)、2004年アテネ(10000m)と3回連続で出場しているが、成績は予選落ち、最下位、18位だった。
 シドニー五輪ではマラソンの代表をめざしていて、選考レースの1つである大阪国際女子マラソンでは、当時世界歴代9位、日本歴代3位の2時間22分56秒で日本人選手1位、優勝(リディア・シモン選手)に2秒差の2位だったが、代表から漏れてしまった。夫の弘山勉コーチの「晴美がかわいそうで……」と涙ぐむシーンに日本中の陸上ファンが一緒にもらい泣きした。
 35歳となった2004年アテネ五輪でもマラソン代表をめざしたが、選考レースの大阪国際女子マラソンで5位になり、またもや選ばれなかった。
 しかし、その後も腐らずに第一線で現役を続け、37歳となった2006年3月の名古屋国際女子マラソンではマラソン初優勝(2時間23分26秒は2000年に高橋尚子が出した大会記録2時間22分19秒に次ぐ記録)。38歳となった2006年12月の全日本実業団対抗女子駅伝では、資生堂の6区アンカーをつとめ、襷リレー時の10秒差を逆転して資生堂を初優勝に導いた。翌2007年3月の名古屋国際女子マラソンでは優勝に3秒差の2位(2時間28分52秒)。40歳となった2009年3月の東京マラソン(10位)まで第一線のレースで活躍し続けた。
 諦めない美学、続けていく美学を静かに教えてくれたランナーとして、多くの人たちの記憶に残っていくだろう。 (以上、2000年頃に書いたものに一部補足)

「選考疑惑」の日記に戻る