16冊目、17冊目の本は、自費で極少部数(100部)出版とあいなりました。
まず、文藝ネットで全編公開している
『黒い林檎』を制作。今まで、CDは作ったことがあるんですが、本を自分で作るという経験は初めてでした。お金がかかるし、本は絶対に自費制作はしないつもりだったんですが、そうも言っていられなくなってきたんですね。
作家がここまでやるべきじゃない、とは思います。でも、いい経験でした。今まで出版社が作ってくれていた「本」というパッケージが、どのようにして作られるのか分かりましたから。
僕は合理主義者なのか、普段、パッケージングというものにあまりこだわりません。よく、「表紙(ジャケット)が美しかったのでついつい買ってしまった」という人がいますが、僕はおよそそういう衝動買いはしないですね。
若い頃、ジャケットを見ただけでレコード(あの頃はCDはまだ存在しなかった)を買ったという経験は何度かありますが、それも、ジャケットがかっこいいからではなく、ジャケットの文字情報から、もしかしたらかっこいい音楽が入っているのではないか……と期待して買ったわけで、パッケージはどうでもよかったですね。
本に関しても、もちろん、装幀は美しく、かっこいいほうがいいけれど、結局は中身でしょ……というタイプ。
タイトルは見ますが、デザインは本を買う基準にはなりません。
自分の本でも、装幀が気に入った例は少なく、今までの中ではいちばん気に入っているのが『グレイの鍵盤』、次が『G線上の悪魔』でしょうか。しかし、どういうわけか、装幀のかっこよさと売れ方は反比例しているような気がします。『グレイの鍵盤』は、1年ちょっとで、知らないうちに絶版になっていました。
立派な装幀のハードカバーが断裁処分にされるのは、本当に忍びないものです。
商業出版の前段階として、極少部数の本を制作するというアイデアを練っている中で、悩んだのは判型や紙の質、レイアウトなどです。
以前から、本の大きさがまちまちなのはなんとかならないんだろうかとずっと感じていました。書棚に並べたときも、揃わないんですよね。
また、世の中には「ハードカバーは買わない。文庫になってから買う」という人も結構います。小説を何度も何度も読み返すということは、普通はしないので、小説のようなものはハードカバーじゃなくていいじゃないかという気もしていました。
本作りを楽しんでいるわけでは決してないので、どこまでエネルギーを注ぎ込むかも問題でした。作家はあくまでも本の中身を作る人で、本の体裁を作るのは、その道のプロに任せたいです。でも、プレリリース版では、それも無理ですから、何から何まで自分でやらなければいけません。
2冊作ってみて、まだ反省点はいろいろあるし、不満な部分も多いのですが、とにかく、作ろうと思えば作れるんだということが実証できたことは大きかったと思っています。
近いうちに、文藝ネットで「本の作り方」というコーナーを設けてみようかと思っています。
その気になれば作家が自分の手で本を作れるとなれば、作家としての生き方、戦い方も変わってくるでしょう。
『黒い林檎』も
『鬼族』も、大量に売れる本を目指して書いた娯楽作品なので、この限定本はあくまでも「プレリリース」のつもりです。『黒い林檎』は、何人もの編集者が「出したい」と意思表明してくれた作品ですが、未だに出版されていません。今も、某文芸出版社の編集者が惚れ込んでくれて、出版に向けて動いてくれています。『鬼族』もそれに続き、なんとか商業出版にこぎ着けたいものです。
さて、この次は、短編集を予定しています。
これは娯楽作品というよりは文芸色が濃い、どちらかと言えば地味なものなので、商業出版しても大量に売れることはあまり考えられません。こういうものこそ少部数出版に向いているのでしょう。だからこそ、次の短編集は、最初から「少部数商業出版」という形を取れないものだろうかと画策しています。
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