■はじめに
日本人は几帳面で、ルールをよく守る国民だと言われる。確かに、実に細かいことまで決まりを作り、一旦決めたことは律儀に守ろうとする。
しかし、「そもそもルールが間違っている」としたら?
我々が日頃、信頼しきっている規制や規格が、驚くほどいい加減だったり、当然のことと思っている常識に、なんの根拠もなかったりすることは少なくない。
例えば、信号機。青から黄、赤に変わるときのタイミングは交差点によって違う。これはドライバーなら経験的に知っているが、それだけでなく、地域によって変化の「法則」そのものが違う。右折可の青矢印から赤に変わる際、一旦黄色を出す信号と出さない信号があるのだ。私はこの「曖昧信号機」に殺されかけたことがある。
ワープロやコンピュータで日本語を扱う時代になり、1978年に最初のJIS漢字規格が制定されたが、収録された6355字の漢字のうち、実に1%にあたる60以上の漢字は、漢和辞典にも載っていない「嘘の字」である。
従来、出版物に陰毛の写った写真を掲載すると摘発されたが、1991年に、突然この規制が事実上消滅するという説明不能の事態が起きた。お上が「今日から陰毛の写ったヌード写真を解禁します」と決めたわけではない。なし崩し的に起きたこの珍事は、どう説明できるのだろうか。
律儀な国民性ゆえか、この国では、本来「手段」であるルールそのものが目的化してしまうことがよくある。
時代の流れや状況の変化によって目的を達成できなくなったルールは、その運用方法も含めて変えなければならない。しかし、ルールの制定や運用に携わっている責任者たちは、単に「これは規則だから」と繰り返すばかりで、それ以上のことをしようとしない。
また、政治家や官僚に代表される権力者たちは、自分たちの都合のいいようにルールを作り、あるいは変更する。それができない場合は、ルールの解釈を歪曲させたり、曖昧に適用したりする。
曖昧さがすべて悪いとは言わない。曖昧な世界ゆえの心地よさもあるだろう。
子供が生まれると神社にお参りに行き、結婚はキリスト教会で挙げ、死ぬと坊さんから戒名をもらう。こういう曖昧さ、いい加減さは、平和の極意かもしれない。宗教を巡って殺し合いをするよりはずっといい。
ただでさえ閉塞感が漂い、息苦しいこのご時世、キツキツの説教はごめん被りたい。
でも、曖昧精神でなんでも乗り切れると思うと大やけどをするだろう。そろそろ取り返しのつかない破綻が目前まで迫っているんじゃないだろうか。
5000万件の年金データが消えました。ごめんなさいね……で済んでいるのを見ても、これはもう、「曖昧な国民性」などと呑気なことを言っている場合じゃない。いくらなんでも限界を超えている。
というわけで、このへんで少し「我に返って」みてはどうだろうか。
我々を取り巻くものが、いかに欠陥だらけのルールで運用され、あるいは曖昧なままに放置されているのか、ごく日常的な問題から少しずつ確認してみよう……というのが本書の趣旨である。小さなほころびを起点にしていろいろ調べていくと、見落としていたこと、知らなかったことがたくさん出てくる。
また、ルールの欠陥にはいくつかのパターンがあることにも気づく。
- そもそもそんなルールは必要がない
- ルールに明らかな間違い(バグ)があり、使いものにならない
- ルール制定時に将来を見通せなかったために、現代では通用しなくなった
- ルールそのもの、あるいはルールの解釈が曖昧で、まともに運用できていない
- ルールの目的や成立過程に悪意や作為があり、公正・公平でない
欠陥ルールを検証していくと、大体この5つのパターンのどれかにあてはまる。「愚ルールの五法則」あるいは「ルール五悪の法則」とでもしておこうか。これを軽く念頭に置いて読んでいただくとよいかと思う。
本書では、我々が日常生活をする上で避けては通れない身近なルールを中心に論じている。日本語、交通、風俗、法律、選挙……。どれも普通に接しているものだが、身近すぎるために、その大きな欠陥に気づきにくい。
まさかこんなことになっていたとは……という発見がたくさん登場する。
「面白く」読んでいただけると確信しているが、読み終えたあなたが、楽しいと感じるか、怖ろしいと感じるか、怒り出すか……そこまでは分からないし、責任を持てない。
法律論や学術書ではないので、その程度の「曖昧さ」は、どうぞお許し願いたい。