■たくき よしみつ プロフィール(裏版)

日常


普段の住まい:日光市の隅のほうにある、開発に失敗した住宅分譲地の一角

家族:妻がひとり。2011年、原発警戒区域の境界に捨てられていたのを拾ったネコ2匹。

趣味:写真(全国の狛犬の写真を撮っている)、沢いじり、カエルのための池造り、カエルの観察

嗜好:食べ物は和食党。酒は何でもOKだが、最近弱くなった。煙草はそばで吸われるのも苦手。

スポーツ:自分でやるのはテニス、人がやるのを見るのは陸上競技。特にマラソンはフリーク。好きな選手:中山竹通、田村有紀

ギター:37歳からジャズギターを習い始める。ギターデュオKAMUNAの相棒・吉原寛治氏はそのときの師匠。

パソコン:1994年にIBM PS-V Vision(HDD170MB、486もどきのCPU、メモリ8MB)を購入したのが最初。PC-98の全盛期だったが、Visionのほうが安かったのと、一体型で小さいということが決め手だった。
各種原稿やHTMLはWindowsのソフト QXエディタで書いている。でも、基本的にWindowsもマイクロソフトも嫌い。ときどき勢い余ってMicrosoftを非難する文章を書き、舌禍を招く。デジタルは嫌いだが、スポンサーがいなくても創作活動を続けるには必須の道具。「魂はアナログ、手段はデジタル」(現在では「デジタル・ワビサビ」)をスローガンにしている。

天狗と狛犬:かつて、天狗の研究を名目にして酒を飲んだり山に登ったりする「狗道研究会」に出入りしていた。そこでの体験を元に、『天狗の棲む地』を書き、その続編としての『カムナの調合』も発表。
また、三遊亭円丈師匠がやっている「日本参道狛犬研究会」に出没していた時期もある。自らは、「世界最大の狛犬サイト」を標榜する「狛犬ネット」を開設。日英両国語で解説した『狛犬かがみ』(バナナブックス)は、ひとつの成果。
南福島エリアの狛犬芸術がなぜ高度に発展したのかを解き明かす、小松利平~小松寅吉布孝~小林和平の石工三代記を全国に紹介した。

生い立ち

ご幼少のみぎり 赤ん坊の頃

幼年時代:福島市の日赤病院で生まれ、福島市内の貧しい長屋で育つ。トイレが外にあって、雨や雪が降る夜などは辛かった。市営競馬場に忍び込み、監視塔の中でよく悪戯をしていた。バイオリンを習っていることや、キリスト教系の幼稚園に通っていることが恥ずかしくて、親に反抗した。「クマ」という名の紀州犬を飼っていて一緒に遊んでいたが、両親の離婚のとき、犬と泣き別れになった。

小学生時代:6歳のとき、母親が再婚。東京・大田区の長屋式アパートを経て、川崎市へ転居。福島以上の田舎なので驚いた。学校の先生とはよくトラブルを起こした。6年生のときマーチ音楽にかぶれて、給食の時間に『軍艦マーチ』を校内中に流して怒られた
小学校5年生の最後に、出たばかりの『ブルーシャトー』が本格ヒットする前に、替え歌『森トンカツ』を作って学校中に流行らせた。数か月後、日本国中で『森トンカツ』が流行っていることを、父親が買ってきた週刊朝日の記事で知った。

中学3年生。フォークグループ「巨蕭(きょしょう)」。左から2番目。中学・高校時代:カトリック系の私立男子校 聖光学院に入学し、ストイックな6年間を過ごした。オフコースが同校の8年先輩で、中学2年の学園祭のときにアマチュア時代のオフコース(当時大学を卒業する寸前)のステージを見て感動。翌日、すぐにフォークバンド「巨蕭(きょしょう)」を結成。以後、学校の名物バンドとして活動。

 中学3年頃から「髪が長い」という理由で学校側と対立。高校3年の学園祭のときは、演芸会オーディションで巨蕭が4年連続1位となるも、「髪の長いやつがひとりいる」という理由で出演を阻止される。卒業式のときも髪を切らなければ卒業させないと宣告され、卒業式には出てはいけないと宣告された。
 ちなみに、現在の聖光学院校長・理事長の工藤誠一氏は同級生・友人。

大学1年生。学科のマドンナ、みんなの憧れA子さんとのツーショット。後にも先にもこれっきり。淡い想い出やなあ。 大学時代:男ばかりの環境から一転し女子学生が多い上智へ入学。熱病にかかったように次々に目移りしながら恋をするが、ことごとくふられ、失恋の歌がたくさんできた。

 尊敬する作曲家・樋口康雄氏の事務所に押しかけ、最後は直接作曲の手ほどきを受けたり、一緒にデモテープを録音したりした。一方で、自分のバンド「アンガジェ」を率い、数々のコンテスト、オーディションを回るが、なかなかチャンスが掴めず。

二十代:卒業までにデビューは果たせなかったため、アルバイトをしながら音楽活動を続ける。ようやく掴んだCBSソニーでのレコードデビューの話(ディレクターは矢沢永吉の担当だった高久光雄氏)を、直後に執拗に口説かれたビクターを選ぶことで棒に振ったのが運の尽き。人生最大の失敗として、今でもこのときのことで悪夢にうなされる。その後、ビクターでのデビューも、デュオの相棒(高校時代の2年後輩)やマネジャーとの仲違いで潰してしまい、以後はまるで何かに取り憑かれたように、チャンスの度にことごとく話がつぶれる。その回数20回あまり。悪夢を見ているような20代だった。

 最初のデビュー(ビクター)の直後、25歳で結婚。実家を出てアパート暮らしを始める。

三十代:家庭教師からコピーライターまで、様々な仕事をしながら作曲活動・小説執筆を続ける。35歳で小説デビュー作『プラネタリウムの空』を発表。36歳で『マリアの父親』で「小説すばる新人賞」を受賞するが、「エントロピー小説宣言」などと先走ったことを言い出し、失敗。「空気が読めていなかった」と思う。

 37歳のとき、貴花田が宮沢りえと婚約発表した日に一念発起し、10年以上放り出していたギターの練習を再開。近所の音楽教室に入学し、ドレミファからジャズギターを学ぶ。
 そのときの師匠・吉原寛治氏とギターデュオ「KAMUNA」を結成。

 近所のペットショップで狭い檻に閉じこめられているタヌキと遭遇し、数日悩んだ末に、野に放そうと思い、買い取る。以後、タヌキはすっかり居着いてしまった。「タヌ」と命名。それにちなんで、屋号を「タヌパック」とした。
 新潟県北魚沼郡川口町に、昭和40年代に建てた中古住宅(土地約470坪)を280万円で購入。終の棲家と決めて、以後、夏を中心に、滞在しながら自分で少しずつ修繕・改築を進める。

四十代:小説家としての門戸が開けたかと思ったのもつかの間、売れぬまま、再びずるずるとどん底暮らしに。

 KAMUNAはさらに活動を続け、3枚のCDを制作。ライフワークとして認識し始める。

 バブルがはじけ、小説出版はさらに苦境へ。食いつなぐために再び様々な仕事をすることに。

 タヌは阪神大震災のちょうど1年後に天寿を全う。8年一緒に暮らしたことになる。最後は畳の上で看取られながら死んでいった。
 その後は生活破綻も進み、どん底に突入。収入がなくなり、家庭崩壊。鬱病になり、一時は通院。

 いよいよ食えなくなる。イーネットコーポレーションを立ち上げるが、100万円かけて送ったDMへの反応はゼロで、ますます苦境に。

 それでもなんとか生き延び、ペースは落ちるが、創作活動を続ける。
 2000年から、母校上智大学外国語学部英語学科の非常勤講師として、1年のうち2、3回だけ教壇に立つ(2011年まで務め、毎年授業の最終日に「KAMUNA 上智ライブ」を続けた)。

五十代:  2004年10月23日。10年以上かけて修繕・改築してきた越後の我が家が、中越地震で全壊。20数戸の集落(小高集落)は、震災後、まっ先に集団移転を表明。我が家はすっぽり危険地域に指定され、家の建て直しも不可となった。
 その後襲った40年ぶりの大雪で、翌年、完全につぶれる。
 当初は越後での再生を期して、地震後すぐに代替の古民家などを探したが、地震の傷跡は深く、まともな物件がなかったために断念。
 年末に阿武隈に急遽引っ越しをすることになり、雪が降り出す直前、荷物を運び出す。
 年明けから、阿武隈で再出発。

 阿武隈の豊かな自然に触れ、写真の趣味が高じる。デジカメを楽しむための「ガバサク理論」を提唱。『デジカメ写真は撮ったまま使うな! ガバッと撮ってサクッと直す』(岩波アクティブ新書)に続き、2006年年末には『裏技デジカメ術』(青春新書インテリジェンス)、2008年秋には『デジカメに1000万画素はいらない』(講談社現代新書)を刊行。「日常写真家」を名乗る。

 狛犬研究も、狛犬かがみ A Complete Guide to Komainu (バナナブックス) の刊行で、趣味の領域をはみだし、「プロ」として狛犬に関する講演会なども行っている。

 生まれて初めてモリアオガエルの卵を生で見て、感激。我が家の敷地内にもモリアオガエルを呼びたいと思い、村内のあちこちでそのまま落下しても水のないところに産み付けられた卵や風に飛ばされて地面に落ちた卵などを救出しては持ち帰り、孵化させて池で育てるという「モリアオガエル同棲計画」を始める。川内村の我が家の敷地内には、その他、ツチガエル、アズマヒキガエル、ヤマアカガエル、ニホンアカガエル、ニホンアマガエル、シュレーゲルアオガエル、タゴガエル、トウキョウダルマガエルが棲息していた。残るはカジカガエルだけだが、これは声を一度聴いただけで、未だに姿を見たことがない。

 2009年3月、ようやく安住の地と思って定住していた阿武隈の自宅そばに大型風力発電プラント計画があることを知る。大規模環境破壊と低周波による健康被害問題について調べざるをえなくなり、風車問題に巻き込まれる。同年5月、福島県自然保護協会とともに、福島県知事に風力発電所建設撤回の要望書をまとめ、住民有志との連名で提出。

 これだけ閉塞感の進んだ世の中で、残りの人生をいかに生きるかを考えたとき、やはりアートの原点に戻っていくしかないと感じ、「ニュートラルな仕事」としての音楽活動を本格再開させるべく奮闘していたが……。

 2011年3月 福島第一原発の爆発で避難。その後、4月末に村に戻ったが、村が変わっていくのを見ていられなくなり、移転先を探した末、日光市の空き家を見つけて移転。


KAMUNAと音楽活動について

 元々はシンガーソングライター志望だったが、一度デビューに失敗してからはなぜか次から次へと不運が襲い、気がついてみると日本語のラブソングを歌うのが照れ臭い年齢になっていた。音楽活動がもたつく間に小説家としてデビューしたことから、音楽については「言葉のない音楽」をより強く志向するようになる。

 それまでは「作曲家に楽器演奏技術は必ずしも必要ない」と理由を付けて楽器演奏技術の修得に不熱心だったが、四十代を前にして「今、始めなかったらもう一生できない」と自覚して、一念発起。ドレミファからジャズギターを学び始めた。

 その師匠が3歳年下の吉原寛治(ジャズギタリスト)。3年かけて師匠を引きずり込むことに成功。95年に『グレイの鍵盤』という音楽小説集を出版したのを機に、同名の音楽CDを二人で制作。

 2000年より、母校上智大学で非常勤講師を務めているが、毎年、前期の授業の最後(7月)には教室でKAMUNAのライブを行っている。
 KAMUNAの出前ライブなどを企画されたいかたは、お気軽にご相談ください。

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