たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2004年6月4日執筆  2004年6月8日掲載

子供のデジタルストレス?

6月1日に、長崎県佐世保市の小学校で起きた女子児童死亡事件については、日を追うごとにいろいろな報道が飛び交っている。
インターネット上での文字のやりとりが原因で精神を病むというのは典型的なデジタルストレスで、僕も毎日経験していることだが、事件から日が経ち、その手の報道が繰り返されるにつれ、僕自身は逆に、「これは違うのでは?」と感じ始めている。

もちろん、文字だけによるコミュニケーションが事件の引き金になったのかもしれないということは想像できる。しかし、被害者と加害者の女の子は、ネット上で言葉のやりとりをするだけでなく、1学年1クラスしかない学校で、毎日顔を合わせ、実際に会話も交わしていたのだ。デジタルストレスだけを強調するのは無理があるように思う。
正直な話、この事件では、なによりも先に、筆箱に入る普通のカッターで、11歳の子供(しかも加害者の児童は平均より小柄だったという)が、生身の人間の頸動脈を確実に切断できたということに、まず驚かされた。
合わせて、4日前から殺そうと計画を練っていたとか、後ろから押さえ込んで何度も斬りつけているという情報が正しいとすれば、やはり相当「特殊な事件」ではないのか。

これは特殊な事件であり、この事件に合わせてデジタルストレス論を強調するのは無理があると思う、ということをまず断った上で、あえて、この機会に「子供のデジタルストレス」について考えてみた。

手段はデジタル、目的はアナログ。そのバランスが大切だということは、僕自身のテーマなのだが、これは実際にはとても難しい。
よほど注意しないと、どうしてもデジタルの利便性や中毒性に引っ張られてしまう。
ましてや、子供は加減を知らないから、とことんデジタルストレスをため込んでしまうのではないか。
いや、子供はそれを「ストレス」だとは感じておらず、ごくあたりまえのことだと思っている。それが怖い。

大人は、パソコンも携帯電話もない時代を長く生きてきた。文章はキーボードから入力するものではなく、筆記具で紙に書くものだったし、絵はマウスを動かしてではなく、絵筆と絵の具で描くものだった。音楽はサンプリング音源で自動演奏させるものではなく、生の楽器を人間の手で演奏するものだったし、手紙の返事は最低でも数日は待たなければならなかった。
アナログな作業を身体に染みこませ、その体験の上に人生を築いてきたからこそ、我々はすべてがデジタルで置き換え可能になった現代にストレスを感じる。

しかし、今の子供は生まれたときからデジタル技術の中にいる。携帯端末の小さなボタンでメールをチャット状態でやりとりし、音楽とはイアフォンで聴く圧縮音声ファイルのことだと思っている。それが普通であり、別にストレスだとは感じない。
デジタル情報処理とは、細部や曖昧さを切り捨て、○か×かだけを選ぶ技術だ。しかも答えが瞬時に返ってくる。
○でも×でもない微妙な中間値の存在(例えば計算外のノイズや表現不能な質感)や、答えが出るまでに時間がかかるプロセスを味わうことに、今の子供は慣れていない。これはとても危険なことだ。

教育現場では、子供たちにIT時代を生き抜くための基本知識や技術を習得させることが重要課題になっているが、それとは別に、今まで以上にアナログでスローなものを生で体験させることが重要だ。
例えば、現代ではキーボードから文字を入力できない人間は、社会生活をしていく上でどんどんハンディを負うことになる。デジタルな手段を正しく使うための知識をきちんと身につけさせることは大切だが、同時に、墨と毛筆で文字を書くようなアナログな行為を、今までよりもっと体験させてやりたい。
墨と筆を使うことで、文字がただの符号を超えて、アートになりえることを学ぶことが大切なのだ。
生の楽器演奏、木、石、土などを使った工芸世界の体験、裁縫、料理……。今までは「頭でっかちにならないように」などと、言い訳のように実施されていた実技系科目だが、これらを「教科」として教師が教えるのではなく、現場のプロや元プロが、もっと職業や趣味に直結するような形で教えるようなプログラムが必要だ。
もちろん、イントロダクションから先は、子供が自主的に、自分がやりたいテーマを選び、それだけをとことん時間をかけて学べるようにする。広く浅く、決められた知識だけを与え、それをまた広く浅く点数化していこうという現代の教育は完全に間違っている。
そのために「ゆとり」教育が生まれたと言うが、今の「ゆとり」教育は、その名称からして魂がこもっていないインチキプログラムだ。
例えば、家ではコンビニの惣菜を食べている独身教師が、生徒に料理を教えられるはずがない。料理というものに命がけで取り組んできた人間に接してこそ、子供は何かを学び取るチャンスが得られる。
人間、本当に好きなことには寝食忘れてでものめり込める。それが人間に生まれた喜びでもある。喜びを「ゆとり」で教えようというのは失礼である。

何かショッキングな事件が起きるたびに「今、教育に問われているものは」的な論議が起きるが、それが実際の教育現場に反映されたことがあるだろうか。
子供のデジタルストレスを軽減する方法は、抽象的な教育論ではない。具体的なシステム改正だ。
社会生活に必要な基本技術(現代なら英語とかコンピュータの知識)は、効率・効果を第一に教える。そのためには意味のない教科教育の時間をばっさり切り捨てる。
もう一方の軸は、個人の能力・個性に合ったテーマを見つけ出し、専門家として腕を磨ける環境を作ることだ。

佐世保の事件は「特殊な」事件だと思う。本当なら「特殊な事件に対して社会はどう対応すべきか」というテーマとして扱うべきものだろう。
しかし、大人たちは「分からない」「なぜ?」と、慌てふためいている。それは多分、自分たちが子供たちに行っている教育に自信が持てないからだ。
なぜ自信が持てないか。自分が受けたい教育ではないからだ。自分が信じていない教育システムを我が子に強要する──こんな馬鹿げたことはない。
きれいごとを並べるのではなく、もっと単純に考え、行動していくだけでいい。要するに「自分が受けたい教育」に、システムを近づける努力を大人たちがする、ということだ。

佐世保の事件とは別にして、今の子供たちは確かにデジタルストレスを抱え、心の中に蓄積させている。それは間違いないし、決して甘く見てはいけない。

Farewell Mr.Fish
●イラスト Farewell, Mr. Fish
(c)tanuki

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