たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年2月4日執筆  2005年2月8日掲載

本物の「お金」って何?

先日、「お金の値段」というタイトルで500円玉偽造の話を書いたばかりだが、またまた大がかりな500円玉偽装事件が明るみに出た。
「お金の値段」の中で紹介した未発表長編小説『呪禁(じゅごん)』では、精巧な偽500円玉をせっせと1万円札に「逆両替」する「小作(こさく)」と呼ばれる集団が登場する。
重複になるが、その一節を再掲する。



 偽札と比べて、硬貨の偽造ははるかに易しい。問題は一つあたりの価値が低いから、偽造してもうまみがないということだ。一円玉に至っては、造幣局で大量生産してさえ原価のほうが高くつく。
 一万円札なら、百万円がほんの一センチほどの札束にすぎないが、五百円玉で百万円といえば二千枚も必要になる。五百円玉二千枚は、十四・四キロある。これでは運ぶのも目立つし、大きな取引はまったくできない。
 そこで、偽造した五百円玉は極力紙幣に換えていかなければならないが、一度に大量の換金作業をすれば目立ち、すぐに足がつく。継続的に五百円玉を偽造するためには、なるべく小規模に、目立たず、広範囲で換金していくことが必要になる。その作業をするのが「小作(こさく)」と呼ばれる、アウトローたちだ。玄治もそのひとりである。
「小作」は庄屋から支給された五百円玉を元手にして、庄屋に支給額の半額にあたる一万円札を戻す。
 二百枚入りのパッケージ一つは十万円だから、パッケージ一つにつき、一万円札五枚を戻す。残り五万円が小作の稼ぎとなる。
 無論、郵便局や銀行で両替するなどという安直な方法は厳禁だ。五百円玉だけの大量換金が何度も重なれば、当然怪しまれる。また、自動販売機を使って釣り銭をせしめるのも禁じられている。




今回は郵便局などで大量の偽500円玉がまとまって発見されたため騒ぎになったわけだが、どうやら「小作」たちは、

 無論、郵便局や銀行で両替するなどという安直な方法は厳禁だ。五百円玉だけの大量換金が何度も重なれば、当然怪しまれる。また、自動販売機を使って釣り銭をせしめるのも禁じられている。

……という掟を守らなかったらしい。

ところで、偽貨幣とは「造幣局以外の場所で作られた貨幣」という定義になるだろうが、造幣局以外で、本物と寸分違わぬコインを作ることは十分に可能だろう。今回の偽500円玉は、見破られるだけ出来が悪かったというだけのことで、世の中には「絶対に見破られない偽500円玉」がすでにたくさん出回っていると、僕は睨んでいる。

本物の貨幣にも、微妙な「差異」がある。それをコインのコレクターたちは、「手変わり」と呼んで楽しんでいる。
同じ製造年の同じデザインの硬貨でありながら、違いがあるという現象のことだが、虫眼鏡で拡大して見なければ分からないような微細な違いであり、一般には気づく人はいない。
しかし、「違う」ことには間違いない。
なぜ本物の硬貨でありながら違いが出るのか?

貨幣は鋳造ではなく、プレス製造されているが、表面の模様をプレスする際に「極印」という「型(ハンコのようなもの)」が使われる。当然、この「型」は硬い金属でできているが、プレスし続ければ摩耗する。1個の極印でプレスできる硬貨は一般に5~10万枚程度らしい。となれば、枚数の多い10円銅貨などは、1年で数千個の極印が消費されているはずだ。
この極印が違えば、刻まれる模様も微妙に違ってくる。また、極印の摩耗度や、プレスしたときの機械の微妙な狂い(角度の狂いやガタなど)でも模様には微妙な違いが生まれるだろう。
しかし、違いがあっても、これらはすべて「本物の硬貨」なのだ。ほんのちょっとの違いは問題にされないし、どれがオリジナルでどれがエラーということでもない。

500円玉程度のものは、現代の最先端プレス加工機や職人の腕をもってすれば、いくらでも作れるだろう。あとはやるかやらないか。やるとして、どの程度の規模でやるか、ということが問題になる。初期投資も結構かかりそうだから、世間から完全に隠れて、高性能なプレス加工機を稼働させ、ばれないように少しずつ流通させていく……初期投資と労働力が報われる転換点は、製造何枚目から、使用し始めて何年後からなのか。
いろいろな条件を考えると、日本国内でやるよりは、中国あたりでやったほうが、やりやすそうではある。

目の前にまったく見分けのつかない500円玉が2枚あるが、1枚が本物、1枚は偽物だとする。偽物だと見分けがつかないのなら、それは「本物」なのではないか? 造幣局で作られていないから「偽物」である、という「定義」は分かる。しかし、誰にもその区別ができなかったら、やっぱり「本物」とされてしまうのではないか。もはや、その2枚の500円玉を区別することは、概念の上でしかできないわけだから。

巨大数のお金についても、似たようなことをよく考える。
国民の総預金高とかGDPとかって、実際にはその金額分の紙幣と貨幣が世の中に「もの」として存在しているとは思えない。お金の取引の大半が現金ではなくオンラインで行われている現代では、お金はもはや「もの」ではなくなりつつある。誰かが、ここに1億円入れましたよ、という信号をコンピュータに送れば、そこに1億円が出現してしまう、そんなバーチャルな世界になっている。
その一方で、所持金が8円しかない状態で、母子が部屋の中で餓死していた、なんていうニュースも飛び込んでくる。その母子は、本物と見分けがつかない偽500円玉1個持っていれば、あと何日か死なずにすんだかもしれない。
何がリアルで何がバーチャルなのか、分からなくなる。

500円玉というのは、現代の鬼っ子なのだろう。
100円玉以下の硬貨は、「お金」ではあっても、一種の「印」、引換券みたいなものに近い。麻雀の点棒や遊技場のコインのようなもの。それだけで暮らしていくには無理がある。
しかし、500円となると、ちょっと違う。もしかすると500円玉だけで生活していくことは可能かもしれない。大きな欲をかかなければ、偽造すれば「少しは儲かる」し、捕まる危険も少ない。

では、500円玉に未来はあるのか?
本物と見分けがつかない偽500円玉は十分製造可能である、ということを造幣局や金属加工業の専門家が認めてしまったら、500円玉の存続は危ういだろう。じゃあ、シカトしてしまうか? 今から500円札に戻るのも面倒くさいし……。
これから先も500円玉という存在を認めるには、お上も一般庶民も、ものすごく大雑把な気持ちになることが求められているのかもしれない。
「偽500円玉? ああ、あるんじゃないの。これもそうなのかな」
という程度の……。
世の中の「信頼性」なんて、所詮その程度のものなのだろうなあ。


●似たもの同士
(東京 神楽坂にて)

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