たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年3月18日執筆  2005年3月22日掲載

翻訳家の孤独

友人の翻訳家Cさん(上智大学英語学科の1年先輩)は、子供のときにアメリカで暮らしていて、ほとんどバイリンガル(日英)といっていいのだが、彼女は常々、「日本人で英訳ができる翻訳家はほとんど存在しない」と言っている。
なぜなら、
1)「英語ができる」ことと、「英語でまともな文章が書ける」ことはまったく別のことである。「英語ができる」とされている日本人のほとんどが、実はまともな英語を書けない。
2)では、英語ネイティブならまともな英語の文章が書けるかといえば、それも大間違いで、母国語が英語であることと英語の文章を書く能力は別問題である。
……からだという。

考えてみれば当然のことなのだが、多くの人は、このことを普段あまり認識していない。
過去、僕に英訳を頼んできた人が何人かいた。もちろんそんな能力はないので断るのだが、断られた相手は意外な顔をする。
「ご謙遜では?」
なんて言う人もいる。とんでもないことだ。
英語ネイティブではない日本人で、英訳の仕事を引き受ける人(プロ)はたくさんいるが、本当に「まともな英文」を書いているかどうかとなると、100人にひとりもいないのではないだろうか。
日常会話がペラペラで、英語ネイティブとなんの違和感もなく英語で談笑できる、あるいは英語の新聞や文芸書、評論文を辞書なしでスラスラと読めるレベルの人であっても、ネイティブではない以上、微妙なニュアンスや、文章のうまい、下手を確実に嗅ぎ分けることは難しい。

ビジネスの現場などでは、意味が通じればそんなに問題はない。たとえ失礼な表現などがあっても、相手は「英語ネイティブではないのだから」と善意に解釈してくれる。
僕自身、日常的に、ひどい英語のメールをやりとりして仕事をしている。(相手もまた、ひどい英語で返信してきたりするが……)
しかし、「翻訳」はそれでは困る。
文章として残る、ましてやそれが商品になる場合は、「意味が通じればよい」ではまずい。

日本語を英語に直さなければならない仕事(日英訳)は山のように存在するが、その仕事を適確にこなせる人は、日本人にはほとんどいない。
英語力10、日本語力6の英語ネイティブと、日本語力10、英語力6の日本人であれば、前者のほうが「まともな英文」を書ける確率ははるかに高い。もちろん、逆も真なりで、英和訳の仕事であれば、英語力10、日本語力6の英語ネイティブより、日本語力10、英語力6の日本語ネイティブのほうが、「まともな日本語文」を書けるだろう。

ただし、日常的な英語能力は10でも文章のセンスとなると5以下になってしまう英語ネイティブはたくさんいるので、日本人がよく言う「ネイティブにチェックしてもらったから大丈夫」はまったくあてにならない。
日本語について考えてみれば分かる。日本人の何割が、「お金を取れる文章」を書けるだろうか。仕事としてお金が取れる程度の読みやすい文章を書ける人となると、半分などとてもいない。
話をしている限りでは非常に分かりやすいのに、文章を書くと途端に意味不明瞭になる人がたくさんいる。
となると、珍しいケースではあろうが、「英語力6」であっても、「英語で文章を書くセンスは8」という日本人もいるかもしれない。そういう日本人翻訳者なら、「英語力10」「文章能力4」の英語ネイティブよりずっとまともな英訳をする可能性がある。

次に、英語力10、しかも文章センスも抜群で、日本語力6の翻訳者が日本語を英訳したとしよう。結果として出てきた英文は読みやすく、美しい英語になっているだろう。しかし、その人が日本語力6である限り、日本語の文章を読み違えている可能性は残っている。
すらすら読める名文であっても、元の文とは正反対の意味になっていたとしたら、下手な英訳よりずっと恐ろしい結果になってしまう。
これはもちろん英日訳でも同じことだ。

以上のことを考えていくと、世の中に溢れている「英訳文」「和訳文」というもののどのくらいが「まともな訳文」になっているのか、はなはだ疑わしい。
2か国語に同じように堪能で、どちらの文章能力もレベル以上という人は、極めて少ない。その極めて少ない人たちだけが、2か国語の文章を並べて、この訳文はいい、悪いという評価ができる。その他、大多数の人たちは、どちらか1か国語の文章のよしあししか評価できない。

普段あたりまえのように「日本語訳」「英語訳」に接しているが、実はものすごく大変なことだったのだと気づく。
なにしろ、正しく評価できる人がほとんどいないのだ。
正しく評価できる人がほとんどいないということは、正しく評価されることも難しいということを意味している。質の高い翻訳家は極めて少ないのだから、高いギャラをもらっていいはずだが、現実にはどうもそうでもないようだ。(数少ない)一流翻訳家の孤独は、かなりのものだろうなあ、と同情してしまう。

最後に誤解のないように断っておくと、これはよく言われている「外国語を使う際に、文法などの間違いを怖れすぎるな」という話とはまったく別の次元の話である。あれは母国語の異なる人同士がコミュニケーションをとるための話。今回の話は、商品としての翻訳文の質の話である。


●在りし日のタヌ



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