NHKのラジオ第一で、先日から
「わたしの戦後60年/だからこそあなたに伝えたい言葉」というシリーズを放送している。
第6回の中村方子(まさこ)さん(生物学者)のときは、妻が聴いていて「感動した」と教えてくれたが、残念ながら僕は聴けなかった。代わりに著書『ミミズに魅せられて半世紀』(新日本出版社)をすぐに購入した。
第8回の中村文子(ふみこ)さん(「子どもたちにフィルムを通じて沖縄戦を伝える会」事務局長)のときは、妻と一緒にトランジスタラジオの前に座って聴いた。92歳とは思えない迫力のある言葉と、内容の深さに圧倒された。
番組制作者の人選の確かさに感嘆すると同時に、こうしたすばらしい語り部からのメッセージを、ラジオではなく、テレビのゴールデンタイムに流せないのが今のNHKの限界という気もする。悲しいかな、現代の若者はラジオを聴いていない。
中村方子さんはミミズの研究で有名なかた。著書『ミミズに魅せられて半世紀』の中には、「人間として許せない出来事」という見出しで衝撃的なことが書いてある。
ラジオ番組でもそのことは語っていたそうだが、以下、著書の中の記述をもとに要約してみる。
彼女は1953年、当時の指導教官だったK氏の誘いで、都立大学理学部に助手補として入り、1年後に助手に昇格、その後25年間同大学で助手として勤務した。その間、専門研究よりも単なる雑用係としての労働のほうが多い過酷な勤務環境に耐えたり、K氏に自分の研究成果を盗まれたりといった辛酸をなめた。
アメリカ軍がベトナム戦争において、大量の枯れ葉剤をジャングルに撒き、ベトコン殲滅をはかっていたとき、日本にも森林の下草管理を目的として枯れ葉剤の導入が進められた。
アメリカは「枯れ葉剤は人畜無害」とさかんにPRしていた。枯れ葉剤導入を進めたい林野庁は、「枯れ葉剤散布は環境に悪影響を及ぼさない」というデータを出すよう、K氏に求めてきた。つまり、最初から結論が決められている「研究」の依頼である。得られた研究データは学会誌などに発表しないという条件付きでもあった。
K氏はこれを受け入れたが、その下で働いていた中村さんは断固協力を拒否した。
その結果、その後15年間、彼女は職場で助手から昇格することなく「干され」続けた。
政府や官僚の望む形での研究結果を出す、いわゆる「御用学者」たちが、どれだけの罪を重ねてきたかは、今さら言うまでもない。水俣病の原因物質が有機水銀であるという結論が出るまであれほどの時間がかかったのは、御用学者たちが出したインチキ研究データによって原因究明が遅れたためである。
薬害エイズも薬害C型肝炎もそうだ。御用学者たちの嘘の「研究報告」がなければ、あれほどの被害になる前に食い止められたはずである。
日本での枯れ葉剤(除草剤)散布は、国(林野庁)が導入することで始まった。しかし、枯れ葉剤の害については世界中の学者が警鐘を鳴らし、アメリカもついに、ベトナム戦争終結3年前の1972年にベトナムにおける枯れ葉剤散布作戦を中止した。
アメリカのPRにのせられ、除草剤として導入していた日本も、1971年に、枯れ葉剤(ダイオキシンを含む2.4.5-T系と呼ばれる除草剤)を使用禁止とした。ところが、
なんと、除草剤をドラム缶に詰めて土中に埋めるという、とんでもない処理をしたのだ。
当然、ドラム缶は腐食し、中身は土中に流れ出す。日本全国で、埋めた除草剤や他の禁止農薬のドラム缶から原液が流れ出す被害は相次いでいる。しかも、一体、埋めた総量はどれくらいだったのか、
どこに埋めたのかという正確なデータすら今ではあやふやで、追跡調査も困難になっている。
さて、中村さんの半生記を知って、僕は前から気になっていたことを、遅ればせながら確かめる時が来たことを知った。
実は、僕の実父は東北の某県の職員で、林業担当だった。僕が4歳のとき、両親は離婚しており、それからは実父に一度も会うことがなかった。(実は、30代後半まで、僕は自分の実父の顔も知らなければ、自分に異母妹弟がいることも知らなかった。)
Googleで実父の名前を検索すると、ひとつだけヒットするページがある。県の林業研究センターのサイトにある研究データベースである。
そこに、次のような研究資料の担当者・報告者として実父の名前が出てくる。
「林地除草剤導入による下刈省力試験」
「林地除草剤の薬害試験」
実父の死を知ったのは、亡くなって1年近く経ってからだった。奥様から手紙をいただき、一周忌に参列した。菩提寺の住職が、読経の後、実父のことを「山や林が好きで、よく犬と一緒に林を歩いていました」とおっしゃっていたのが印象的だった。
そのときは、そうか、実父は自然が好きだったのか、くらいに思っていたのだが、県の職員として、「林地除草剤の薬害試験」をしていたとは。
一体、父はどういう研究データを出して、どう結論づけたのだろうか。
研究データ・報告書は1965年に出されている。当時、除草剤導入は「国策」だったのだろうから、中村方子さんの上司であったK氏同様、「安全である」というデータを出すための仕事としてやらされたのかもしれない。
しかし、想像していても仕方がない。意を決して、林業研究センターにメールを出してみた。「林地除草剤の薬害試験」の報告者は私の実父です。どういう内容のことを書いていたのか知りたいのですが、閲覧は可能でしょうか、と。
親切にも、センターのかたが、当該資料すべて(数十ページ)をコピーし、郵送してくださった。昨日、手元に届いたばかりである。
少し緊張しながら中身を読んだ。薬剤名と数字が並んでいるページがほとんどだが、注意深く見ていくと、当時、いかに環境への配慮が軽視されていたかがよく分かる。
まず、報告書の表題は「林地除草剤の薬害試験」だが、この「薬害」とは、環境への薬害という意味ではなかった。
「粉剤はそのまま手まき、または散粉機を用いて散布する。植栽木をさけて、雑草木体には全面均一にかかるよう留意する」などという記述の後には、「植栽木への薬害度判定基準」「雑草木への枯殺効果判定基準」という表が出ている。
つまり、「薬害」はあくまでも植栽木(杉林なら収穫対象である杉)に対する薬害という意味で使われていて、その他の植物には「枯殺」という言葉を使っているのだ。
除草剤の目的は草を枯らすことなのだから、植栽木以外の植物が枯れるのは「効果」であり「害」ではない。……まあ、言われてみれば確かにそういうことになるのだろうが。
また、植栽木への薬害についてはある程度(外から見ただけではあるが)調べていても、環境汚染、特に土壌汚染についてはまったく何も書かれていない。当時は環境汚染という発想すらまだ一般化していなかったのかもしれない。
実父が実験に使用した薬剤リストの中には、ベトナムでアメリカ軍が散布した悪名高き枯れ葉剤(2.4.5-T系除草剤)も含まれていた。
2.4.5-T系除草剤を撒いた実験地での様子は、こんな風に記述されている。
「灌木ほとんど枯れ、笹のみ残った感じ。スズタケにも褐変萎凋認む。裸地化25%」
その薬剤を使った実験地は、僕が今、永住準備を進めている東北の小さな村である。人口3000人ほどのこの村のことはおいおい別の機会に書いていくことになるだろうが、ともかく、この村で40年前、実父は枯れ葉剤を撒き、その導入の是非をめぐる研究データを集めていたのである。
「林地除草剤導入による下刈省力試験」の「むすび」にはこうある。
「下刈省力のための林地除草剤導入については、まだ問題点が多く、なんといっても、より選択性の高い、それでいて殺草力強い薬剤の出現がのぞまれるが、導入技術の工夫において、現薬剤の活用により、十分省力林業の期待が果たされることと思われ、今後は地拵時点施用による植栽当年の下刈省力を兼ねた方法の開拓等もすすめ、林地除草剤導入を体系づけたいと思われる」
40年前、ミミズの研究を志す中村方子さんは、林野庁の除草剤導入をOKとする研究データ作成への協力を拒否して、その後、辛酸をなめることになった。
同じ頃、僕の実父は、県の林業担当職員として、除草剤導入についての「無難な」報告書をまとめていた。
二人は同世代である。
実父が枯れ葉剤を撒いた土地では、ミミズが大量死していただろう。
父にはミミズが見えなかったのだろうか。
ミミズが棲めない土地には、人間も生きられない。
今、まだ実父が生きていたら、一度ミミズ談義をとことんやってみたいものだが、それは叶わない。来年、13回忌である。