たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年7月15日執筆  2005年7月19日掲載

一本の電話が変える人生

今年も無事「上智ライブ」が終わった。
上智ライブというのは、毎年、上智での最後の授業をまるまる90分つぶして行う、ギターデュオKAMUNAの教室ライブのことだ。
母校上智大学の非常勤講師を引き受けて5年。年に数回だけの講師だが、ちゃんと学長から辞令が出て、教員証も持たされる。
「英語と社会」という輪講なのだが、コーディネーターのK教授からは「社会を知らない今の大学生に、生の声で、人生を、社会の現実を教えてやってほしい」とだけ言われている。
僕にとっての「人生最大の目標」は音楽、もっと厳密に言えば「メロディを作る」ことなので、最後は言葉だけではなく、実際に自分が求めてきた音楽を生で聴かせる。(かなりこじつけ)

この教室ライブの前に、自分がいかに人生において失敗したかを赤裸々に語るのも毎年の行事になってしまった。これが辛い。
今年はそういう後ろ向きな内容はやめようと思い、1時間目は「福知山線事故は明治政府の責任?」「妛(やまいちおんな)の孤独」「ブランドって何?」「温暖化が先か二酸化炭素が先か?」といったAICネタをやったところ、K教授からすかさず「昔の失敗談も入れてね」と釘を差されてしまった。
「あれでみんな頭から冷や水を浴びせられたようにショックを受けるんですよ。あれはぜひお願いします」
しかし、自分がいかに失敗したかを語るのは本当に辛いことだ。

僕は中学2年のときに音楽で身を立てる決心をして、その後、オーディションやデモテープ作りに明け暮れた。中学生のときにはすでに学校の帰りにこっそり都内のラジオ局までギターを担いで出かけ、オーディション番組に出たりしていた。
24歳のとき、ようやく大きなチャンスが巡ってきた。
CBSソニーの敏腕ディレクターT氏にデモテープが認められ、デビューさせると約束されたのだ。T氏は、矢沢永吉などの担当ディレクター。これ以上のチャンスはなかった。

ところが、ソニーでのデビューが内定した直後、ビクターからも「うちでやらないか」と強力に誘われた。それまでは、ラジオのコンテスト番組や小さなレコード会社のオーディション、遊園地の余興のようなオーディションまで、ことごとく失敗続きだったのに、一転して二大メジャーからの強力なオファー。どちらかは断らなければならない。
ビクターからの誘いをもちろん断ったが、その後、何度も電話がかかってきて「とにかく会うだけ会ってもらえないか」とまで言われた。
このとき、ソニーのT氏は別のアーティストのレコーディングに入っていて、ずっと連絡が途絶えていた。「しばらくスタジオに缶詰になるから」と言われていたので、こちらから電話するのも気が引けた。あそこで電話1本しておけば、僕の人生はまったく違ったものになっていたことだろう。

結局、僕はビクターのディレクター・M氏の押しの強さに負け、会うだけ会うことにした。それがすべての間違いのもとだった。
ビクターのディレクター・M氏はK氏のライバルで、その前にも某ロックバンドをK氏と取り合って勝っている。僕らのために、すでにCMやテレビ番組の工作までしてある、事務所も決めてある、などなど、具体的な話をずらっと並べられた。
気がついたら、ビクターと仮契約を交わしていた。人生最大の失敗だった。

後から分かったことだが、M氏はむしろ僕と組んでいた相方のほうに興味があったようだ。一方、T氏は僕の作曲能力を高く評価していて、フジパシフィック音楽出版の社長・A氏と直接組んで、僕を単なるミュージシャンではなく作家(ソングライター)として育てようとしていたようだ。
僕が選ぶべき道はどっちか、悩むまでもなかったということは後になってから分かったことだった。

人生最大の失敗は、すぐにまた最悪の連鎖を起こす。ビクターでアルバムデビューをするべくレコーディングをしている最中に、相方が「ソロでやりたい」と言い出した。事務所で僕らに付いた若い女のマネジャーが、相方と結託し、「デビュー前のソロ独立宣言」をそそのかしたらしい。
僕の曲はレコーディングされたままお蔵入りになり、相方だけがソロでアルバムデビューを果たした。

それからはもう、音楽業界ではあらゆることがうまくいかなかった。ソロとして別のレコード会社を回り、何度かチャンスを掴みかけたが、ディレクターが僕のデビュー直前に社内で問題を起こして干されたりもした。
最初に犯した大きな失敗は自分の責任だったが、その後のトラブルは全部、自分ではどうにもならないことが原因だった。作曲者兼ディレクターとしてチームを組む約束で1年半かけてデモテープを作り、持ち込んだ末にようやくレコードデビューが決まった外国人タレントには、デビューが決まった途端に裏切られた。ディレクターも認めていた僕の曲を蹴って、僕に内緒で有名作詞・作曲家に発注してほしいと言ったのだ。ひどい曲ができてきて、デビューはさんざんなものになった。
大物女性歌手の芸能生活30周年記念曲を作曲したときは、レコーディングが済んであとは最終ミックスダウンだけという段階になって、事務所と音楽出版社の関係がもつれたのだか、事務所が倒産しかけたのだか、真相はよく分からないが、とにかく「金の問題」でお蔵入りした。作詞は湯川れい子さん、編曲は当時松田聖子のヒット曲などを手がけていた信田かずお氏という豪華布陣で作った曲だった。僕は作曲料をもらっていない。

そうしたトラブルが20回くらいは続いただろうか。いつしか僕は30代も後半になり、日本の音楽業界もすっかり様変わりしていた。

30代後半で、今度は「小説すばる新人賞」という文芸の賞を受賞するというチャンスを掴んだ。このときのきっかけは、友人のカメラマンから紹介された小さな編集プロダクションの女性社長から紹介された編集者に原稿を持ち込んだことだった。
集英社の文芸誌「すばる」の編集者だった片柳治さんに、僕のデビュー作『プラネタリウムの空』を渡してもらい、批評を乞うた。
このとき、片柳さんからは連絡がなかったのだが、音楽デビューのときの失敗を思い出し、今度は勇気を持って電話をかけた。
今でもそうだが、僕は電話が大の苦手だ。受けるのも嫌いだが、かけるのは特に嫌で、どんなに親しい人にでも、電話をするときは緊張する。
このときも、まだ会ったことのない文芸誌の編集者に初めて電話をするということで、喉がからからに渇いたことを思い出す。

電話に出た片柳さんはしかし、とても優しい口調で応対してくださった。
「まあ、とにかく一度会いましょうか」
そう言ってくださった。
最初に会ったときはニコニコしながら「まだまだレベルに達していません」などときついことを言われてしまったが、そのときにあたためていた新作のプロットを話すと「それは面白い! ぜひ読ませてください」と言ってくださった。

こうして『マリアの父親』という小説が書き上がった。
あのとき、片柳さんに電話をしていなければ、この小説は生まれていなかったかもしれないし、ましてや「小説すばる新人賞」をいただくこともなかった。
(片柳さんは、先日、癌で亡くなった。昨年の永井明さん、松下竜一さんにつづいて、物書き業における恩人が次々に50代で亡くなっていく。そして僕もその50代入り……)

電話一本で人生が変わってしまうという経験を、僕は何度かしている。
そんなことも、正直に生徒たちの前で話す。
幻のデビュー曲となった昔の曲も、教室で聴かせる。
生徒たちは相当なショックを受けているようだ。

授業の後、感想をリポートにして提出するのがこの輪講の最低ノルマなのだが、毎年必ずこんなことを書いてくる生徒がひとりはいる。
「先生はあのときの失敗で人生が大きく変わったとおっしゃいますが、もしソニーからデビューしていて、成功を収めていたら、今頃、この教室でこの授業もしていないでしょうから、わたしが先生のお話に感銘を受けることもなかったはずです。こんなことを書くのは大変不謹慎かもしれませんが、わたしには、それが先生の運命だったのでは、と思えるのです。先生は、音楽で大成功する人生ではなく、別の使命を持って生まれてきたのではないでしょうか」

今年もやっぱりいた。こういうリポートを読むたびに、しかし、僕はやはり考え込む。
ああ、あのときTさんに電話一本していれば……。
何をどう言われても、人生最大の失敗には間違いないのだ。どんなに後悔してもしきれない。
きっと、来年もまた同じ気持ちで7月を過ごしていることだろう。

ところで、まったく関係ないが、毎年ひとりどころか、必ず複数いる──僕が黒板に大きく名前を書いて説明しているにもかかわらず、僕の名前を間違える生徒が。

「澤木先生のお話はとても感動的でした……」
………………残念!!

(そんなに覚えられませんかね、たくきという名前は)



●アヒル船長


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