たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年8月26日執筆  2005年8月31日掲載

デジタル昆虫採集、植物採集のススメ

僕には子供がいないので、今の学校教育については臨場感のある問題意識がなかなか持てない。
野球部の部長が生徒に手を出したことで国中大騒ぎになっているかと思えば、田舎の駐在所に「夏休みの自由研究で警察の仕事について調べたい」と言って笑顔で訪ねてきた中学生が、定年間近の警部補が後ろを向いた隙にいきなり背中などをめった刺しするなどというニュースが流れる昨今。一体、今、学校では何が起きているんでしょうね。

ところで、僕らが小学生の頃、つまり昭和30年代後半、夏休みの宿題といえば、絵日記と自由工作と読書感想文と昆虫採集が定番だった。
絵日記や読書感想文は今でもあるのだろうが、昆虫採集はどうなんだろう。自然消滅したのだろうか。
あの頃は、夏にデパートに行くと、必ず昆虫採集コーナーがあって、捕虫網、三角紙、展翅板、虫ピン、注射器などの昆虫採集セットが売られていた。
僕は養父が元理科の教諭だったこともあって、こうした道具を揃えてかなり昆虫採集をやった。

しかし、小学校を卒業する頃には、すっかり嫌になってやめた。たかだか夏休みの宿題のために虫を殺すという行為に、まったく意味を見いだせなかったからだ。虫を殺すときの嫌な気持ちは今も忘れられない。今まで自由に飛び回っていたものが、目の前で動かなくなる。なんでこんなことをしているのか? という自己嫌悪がどんどん溜まっていき、最後はどうにも耐えられなくなった。

僕が作った昆虫標本は夏休みの宿題としては優秀賞をもらったりした。
しかし、美しい蝶の羽からは鱗粉がどんどん落ちてきたならしくなり、つやつやしていたカブトムシは色褪せて嫌なにおいを放つようになる。
そして最後はゴミになる。生き物の死骸を「ゴミ」として捨てるときの虚しさ……。

生き物の命の大切さを直に知るためにも、子供が昆虫採集をすることは大切だと主張する人たちがいる。しかし、現代では、昆虫がそこに存在するというだけで貴重なわけで、自然を破壊しつくした人間が、その程度の理由でこれ以上昆虫を殺していいはずがない。

また、小さな生き物を自分の手で殺して何を学ぶかは、子供の資質によるのではないだろうか。人間の都合だけで簡単に殺してはいけないと学ぶ子供は少ない気がする。
殺生に鈍感になる子供もいるかもしれない。映画『コレクター』のように、蝶を採集する感覚で女性を監禁する大人に育つ子供もいるかもしれない。
クワガタのハサミで指を挟まれるとどれくらい痛いかとか、アブやブヨに刺されてどの程度の痛みや痒みを被るかなんてことは、実際に経験してみる必要があるかもしれない。でも、昆虫を殺さなければ命の尊さが分からないなどというのは詭弁だろう。
さっきまで鳴いていたセミが目の前で息絶えるのを見るだけでも、あるいは、オニヤンマが一瞬のうちに身体の小さなトンボを捕まえて食べてしまうのを見るだけでも、命のはかなさは十分に体感できる。

生命の神秘やすばらしさを体感するのに殺生は必要ない。
現代には便利な道具がある。デジタルカメラだ。
中級クラス以上のデジカメにはマクロ機能が搭載されているものも多い。価格だって、昆虫採集セットを一揃えするのとかわらない程度ではなかろうか。デジカメを使って昆虫や植物を撮りまくる。撮った写真を図鑑やWEBで調べて、名前や生態を学ぶ。
こうしたデジタル昆虫採集、デジタル植物採集こそ、現代の子供たちに課すべき夏休みの宿題ではなかろうか。
野生の命にむやみに干渉してはいけない。鑑賞だけする。
デジカメやコンピュータを使うことで、デジタル道具の正しい使い方も身につく。美しい写真を撮ろうという探求心も刺激され、美的センスも養える。
貴重な自然をこれ以上奪取する昆虫採集より、はるかにいい。

僕は今、40年の時間を経て、再び昆虫採集、植物採集をしている。デジタルカメラでだ。
子供がいたら、きっと一緒に虫の名前を調べ、どっちが虫博士に近づいたか競争しているだろう。
魂はアナログ。手段はデジタル。
このスローガンは、教育現場にも重要なんじゃないかな。


●リスアカネの♀……だと思う
(赤トンボなんて一言で片づけていてはダメなのね)

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