たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年9月2日執筆  2005年9月6日掲載

「あるある探検隊」と放哉

8月が終わると、なんだか寂しい。今夜(9月2日)は月も出ていないし(月齢: 28.36、 輝面比: 1.52%)、あんまり重い話を書く元気がないので、先週に引き続き夏休みの宿題の話から始めてみる。

ご近所(といっても6.5km離れている)の同世代夫婦には男の子が二人いるのだが、次男(小学生)が二学期が始まる早々ショックを受けているという。
夏休みの宿題として書いた詩を、先生が手直しして村の文学賞に応募するらしいというのだ。
彼は昨年も同じことで傷ついている。提出した作文を先生が直して、原文とは似ても似つかないものになったものを、自分の作品として応募されてしまったらしい。

彼は普段は「ですます調」で文章を書くが、先生はその文体をことごとく「……だったんだよ」「……したよ」という話し言葉に直してしまう。
それだけではなく、内容にまで踏み込んでくるそうだ。

例えば、親とどこかに行ったときのことを書いたとする。面白くなかったので、「だから、ぼくが言うように○○に行けばよかったんだ」などと書こうものなら、先生からたちまち削除要求が来る。「楽しかった、と書きなさい」
楽しくなかったことを楽しいと書けるはずがないのに。
教師が想定する「子供らしさ」から外れた内容も受け入れられない。小学生が「村の環境問題について」なんて作文を書いてはいけないらしい。

そうして改竄された文章が、その子の「作品」として表に出されてしまう。子供は当然怒り、傷つく。
「ぼくはこんな言葉遣いしない!」
「子供っぽくて気持ちが悪い!」

去年のその経験がトラウマになったらしくて、今年も宿題の「詩」を提出する前から、嫌な予感がしていたらしい。

その話を聞いてびっくりした。今どきそんなアホなことをしている教師が本当にいるんだろうか、と。
僕自身の小学生時代を振り返ってみると、いくつも傷つくことは経験したが、作品を教師に改竄されたという経験はない。逆に、小学生のときは、大人びたことを言うと(自分ではまったくそういうつもりはないのだが)、教師が面白がってくれた。それでなんとなく得意になっていたような記憶がある。
他人とは違うことを考える。自分にしか作れないものを作る。
子供のときから、そうした意識は人一倍強かったから、薄気味悪い「子供らしさ」を強要されたりしたら、絶対に忘れるはずがない。

この小学生の母親が、実にいいことを言っている。
子供たちが夏休みの宿題をやるのを見ていて、「書く楽しみ」「言葉の楽しさ」を知らないことにびっくりしてしまい、言葉遊び、詩遊びをやってみた。
例えば、家族旅行の途中、見たものを「言葉でスケッチ」させる。例えば、雲の形を言葉で表現するとどうなるか……。

なーるほど、これはまさに詩の基本。「きれいな雲」「面白い形の雲」では描写になっていない。詩とは、感動や情景を他の言葉で「言い換える」ことだから、「言葉でスケッチする」訓練はまさに基本中の基本だ。
子供たちは、
「こんなに楽しく詩を書いたのは初めて」
「自分の思っていたとおりに表現できた」
「ぴったりくる言葉で書けた」
などと楽しんでいたという。(素直な子たちやなあ)

さらには、あるテーマを決めて、連想する名詞、形容詞、動詞をたくさん書き出し、出てきた単語を自由に組み換えて、ポスターのキャッチコピーを書いてみる、などという遊びもさせたそうだ。
これは「コピーライター講座」ですね。すばらしい。

そうして充実した夏休みを過ごし、言葉を使うことの楽しさを発見した末に書き上げた詩を、先生の手で改竄されるとなれば、ショックも、より大きなものになる。
それって、単純な暴力よりタチが悪い暴力だなあ。

どうしたら「大人」に気に入られるのかを小ずるく学習した子供は、社会に出てからどう生きていくだろうか。自分で考え、自分の責任で実行することをせず、まず上司や権力者の意向を読み取る。それに合わせた行動しかしない。
あるいは「こういうことになっていますから」と繰り返すだけ、マニュアル主義、前例主義の大人になるかもしれない。

おそらく教育現場の質は、急には改善されないだろう。頑張っている教師はたくさんいるが、どうしようもない教師のほうが多い。
となれば、あとは親や社会がしっかり子供たちを教育するしかない。
別に大袈裟に考えることはなく、ちょっとしたきっかけを利用して、子供たちを文化の深みに案内してあげることができればいい。例えば……

最近、レギュラーというお笑いコンビの「あるある探検隊」というギャグが小学生たちの間で大人気になっているという。


「早起きしたのに遅刻する」
「奇跡のチャンスを無駄にする」
「頂上着いてもすぐ降りる」
「昔の傷跡自慢する」
「最後の最後で不利になる」


……こんな8・5調のフレーズを連発するだけの単純な芸なのだが、シンプルさが子供たちには心地よいのだろう。

この「8・5調」フレーズ、なかなか侮れない。世の中の真理や感動を短いフレーズの中に読み込む文芸の代表といえば短歌や俳句だが、8・5調は合計13文字で、短歌の31文字、俳句の17文字よりさらに短い。「名作」を作るのはかなり難しい。

「あるある探検隊」を見ていると、自由律俳句を思い出してしまう。
僕は尾崎放哉が好きで、自分のサイトに、放哉の句をランダムに表示させるJava Scriptを組み込んでいるくらいなのだが、「あるある探検隊」は放哉の句に通じるところがある。
放哉の代表的な句を、「あるある探検隊」風に改作してみるとこうなる。


足の裏洗へば白くなる
→垢すりやりすぎ背が痛い

墓の裏に回る
→重ねた値札の下を見る

ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる
→ケータイメールを覗かれる

すばらしい乳房だ蚊が居る
→巨乳の谷間に蚊がとまる

かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
→返した傘をまた借りる

何かしら児等は山から木の実見つけてくる
→ガキが何かを拾(ひろ)てくる



放哉の句が8・5調の「あるある探検隊」にアレンジできるということは、その逆に、「あるある探検隊」フレーズを元に、自由律俳句の名作も作れるということだ。
お笑いなんて、と馬鹿にしてはいけない。お笑いも文学も、根は同じなのである。

……というようなことを、新刊『パソコンで文章がうまくなる!』(青春新書インテリジェンス)にも書いた(おいおい、結局は自著の宣伝かぁ?)。

どんな材料からでも、文化の醍醐味に近づくことはできる。「あるある探検隊」で遊んでいる子供たちの中から、現代詩の巨星や芭蕉以来の天才俳人が誕生するかもしれない。その可能性を少しでも高めていけるような、ゆとりと遊び心のある社会でありたい。
子供の相対的な数はどんどん減っていくのだから、大切に育てたいものだ。

そうそう、ご近所の次男坊、今年は結局「きみの詩は直さなくていいよ」と言われたとか。力作を前に、教師も「諦めた」のかもしれない。


●ねぼけまなこのムササビ
(別のご近所さんの庭に棲み着いている。いいなあ)


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