たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2005年10月28日執筆  2005年11月1日掲載

続・靖国神社の狛犬


首相の靖国参拝は毎年恒例のニュースになるが、そもそも靖国神社とは何か? という話をわかりやすくしてくれるテレビ番組や新聞記事にはほとんどお目にかからない。
しかしまあ、それは他の誰かに任せて、狛犬研究家・たくきとしては、首相の靖国参拝を受けて、「続・靖国神社の狛犬」なる話をしてみたい。
(「続」というからには、前編がある。お時間が許せば、まずは初回「靖国神社の狛犬」から読んでいただけると嬉しい。)


靖国神社には、2005年現在4対の狛犬がいる。制作年を古いほうから並べると、
1)大清光緒2(明治9=1876)年
2)昭和8(1933)年
3)昭和38(1963)年
4)昭和41(1966)年
となる。
このうち、1)は「狛犬」ではなく中国獅子であり、日清戦争の直後、日本軍が中国のお寺から持ってきてしまったものである、という話を前回書いた。
首相が靖国参拝でアジアの隣国を不必要に刺激している今、この中国獅子を元の寺に返還する……というのも、ひとつの「外交政策」としてアリだと思うのだが、誰も言わないなあ。

それはさておき、今回は残り3対の狛犬(これらは正真正銘の「狛犬」)について書く。

2)の昭和8年建立の狛犬は巨大なもので、駐車場入り口にそびえ立っている。
片倉財閥(長野県を拠点にして製糸業で成功)が奉納したもので、製作を指揮したのは建築家の伊東忠太である。
靖国神社は大正13(1924)年に大改修しているが、そのとき指揮をとったひとりがやはり伊東忠太だった。狛犬建立は9年後だが、伊東はこの狛犬建立の監督者にもなっている。
伊東は30代のとき、中国、インド、トルコなどを3年間(1902~1905年)に渡って旅した。同時に欧米も回ってから帰国している。ガンダーラ美術やヨーロッパのガーゴイル像などに深く影響を受けたのか、自分が手がける建造物に化け物の木彫やレリーフなどを施し、、「化け物好き建築家」として有名になった。
そんな伊東が、狛犬のデザインを他人任せにするはずもないだろうから、この狛犬のデザインには、伊東の意向が全面的に取り入れられたと思われる。そこで、他の靖国神社の狛犬と区別するため「忠太狛犬」と呼ぶことにする。

実は、伊東は靖国神社大改修より前に、明治45(1912)年に焼失した弥彦神社(新潟県西蒲原郡)の再建にも関わっている。
弥彦神社には、大正5(1916)年建立の大型狛犬があるが、台座にはこう刻まれている。
「匠案 伊東忠太、原型 新海竹太郎、石工 酒井八右衛門」

伊東がデザインし、彫刻家・新海竹太郎が原形を作り、石工・酒井八右衛門が彫ったという作品。
新海竹太郎は幼い頃から軍人を志し、騎馬軍人像などを得意としていた。明治32(1899)年には、政府の発注により、北白川宮能久親王の騎馬銅像を作っている。
酒井八右衛門は「井亀泉(せいきせん)」という石屋ブランドで知られる東京を代表する名門石工。つまり、この弥彦神社の狛犬は、政府御用達ともいえる建築家、彫刻家、石屋の組み合わせで建立された「超ブランドもの狛犬」といえる。

靖国神社の忠太狛犬は弥彦神社の狛犬に非常によく似ているが、出来としては弥彦神社のほうが上だ。靖国神社の忠太狛犬は、大きさにこだわりすぎたのだろうか、細部が大味になっている。また、高い台座の上に載っているため見上げるしかなく、顔の表情がほとんど見えないのも残念だ。

しかし、この忠太狛犬は、靖国神社の中では唯一戦前からある「国産品狛犬」である。1933年から70年以上に渡って参拝者たちに睨みをきかせてきた。それゆえ、「うちの神社にもあんな立派な狛犬がほしい」と思った人はたくさんいるだろう。実際、全国にコピーが存在する。

正面を向き、前脚を突っ張り、胸を張って、蹲踞したスタイル。これは三遊亭円丈さんが「招魂社系」と呼んだ狛犬の特徴だが、忠太狛犬はまさにそのスタイルである。
しかし、このスタイルにはモデルがある。木造の神殿狛犬の傑作とされる大宝神社の木造狛犬(鎌倉時代)である。
この木造狛犬は大変人気があり、神殿狛犬(露天ではなく、宮中や社殿など、建物の中に置かれる狛犬)のカリスマ的存在なのだが、忠太狛犬はこの大宝神社狛犬を、より現代的にデザインし直したものといえる。
また、この大宝神社狛犬の改良タイプは石工の町岡崎でも大量に生産され、全国に数多く建立された。これは「岡崎古代型」と呼ばれている。
最近では新規建立狛犬のほとんどが中国への発注だが、中国でも「岡崎古代型」狛犬は、今なおせっせと造られている。
靖国神社の3番目の狛犬(昭和38年建立)も大別すればこのタイプ。ただし、石ではなくブロンズ製である。奉納者はトラクターで有名な井関農機。

靖国神社、4番目の狛犬は昭和45(1970)年建立だから相当新しい。
台座には「石工 小澤映二」とあり、さらに足台(本体と一体)には「八柳恭次作」と刻まれている。八柳恭次は、二紀会という美術家グループの彫刻部会初代審査員などつとめた彫刻家。
では、この狛犬は八柳恭次氏の作品かというと、そうではない。狛犬ファンなら誰もが知っている超有名狛犬、籠神社の狛犬の完全コピーである。

籠神社の狛犬は、鎌倉時代の作とも言われていて、国の重要文化財になっている。極めてオリジナリティに富んでいて、それまでの神殿狛犬とは似ても似つかない。後の石造り狛犬に大きな影響を与えた傑作だ。
最近では「鎌倉時代というのは古すぎるのではないか」という疑問も呈せられている。安土桃山時代あたりではないかという説が有力になってきているようだが、そうだとしても、この狛犬が傑作であり、「オリジナル」なものであることは疑いようがない。

実際、籠神社の狛犬は大変な人気があり、日本全国にコピーが存在する。
福岡県などは、筥崎宮、大宰府天満宮、香椎宮、護国神社……と、名だたる神社すべてに籠神社の狛犬のコピーが建立されているほどだ。他にも、箱根神社、目黒不動尊、各地の護国神社などにある。

籠神社は遠い(京都観光でもあそこまでは滅多に足を伸ばさないだろう)。首都圏近郊の人が、「有名な籠神社の狛犬」を見たいと思ったら、箱根神社か靖国神社に行けばよい。
(目黒不動尊のものは石膏の原形をそのまま飾ってあるので、ちょっと風合いがない。しかし、目黒不動は都内最古の石造り狛犬や江戸期の和犬像など、見るべきものがたくさんあるので、お勧めのスポットだ。そうそう、目黒不動に行ったら、すぐそばの安養院裏門にある巨大な中国獅子像もぜひ見ておこう。)

……というわけで、靖国神社の狛犬4対(しつこいようだが、うち1対は「狛犬」ではなく、中国獅子)の芸術性およびオリジナリティ度を評価すると、年代の古い順になる。ダントツでよいのは中国の山学寺から持ってきてしまった中国獅子像である。
駐車場入り口にある巨大な忠太狛犬は、伊東忠太のことを知って見上げれば、それなりに感じるものはあるかもしれないが、僕にはただでかいだけの狛犬に見える。

戦後、日本の狛犬文化は急速に質が落ちていく。その流れが、靖国神社の狛犬群によく見て取れるような気がする。
「護国神社に大作あっても名品なし」
これは場数を踏んだ狛犬ファンに共通した認識だろう。なぜそうなのか、靖国神社の狛犬を見て回ればよく分かる。

日本の狛犬という文化は、庶民の素朴な信仰と、無名石工たちの情熱によって花開いた。狛犬ってなんだろう、獅子ってどんな生き物なんだろうと想像をたくましくしながら石を彫っていた昔の石工たち。その中から、実に豊かで楽しい文化が生まれた。これは世界に誇れる文化だ。
しかし、靖国神社の狛犬のように、コピーでもなんでも関係なく、やたらと大きければいい、威圧感があって立派に見えればいい、有名作家や建築家のセンセイに任せれば安心だ、という精神で作られるものからは、本当の感動は生まれない。

日本の神社仏閣には、世界に誇れる豊かな精神性と、とても恥ずかしい成金趣味が同居している。その区別がつかないようでは情けない。
その両方に、我々は学ぶべきだ。もちろん、後者は反面教師として学ぶのであるが。




伊東忠太狛犬
●靖国神社の「忠太狛犬」(昭和8年建立)

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