たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2006年3月10日執筆  2006年3月14日掲載

生き残った「こども」たち、殺される「こども」たち

五木寛之さんは常々、「私には子供はいないが、自分が書いた本が息子・娘だと思っている」とおっしゃっている。だから本の装幀などにもうるさいらしい。
かつて、僕がタヌパックレーベル最初のCD『狸と五線譜』を作ったとき、五木さんはご自分のラジオ番組「五木寛之の夜」(TBS)で、3週連続でこのCDを紹介してくださった。3週目には僕もゲストとしてスタジオに呼んでいただいたのだが、番組収録後、赤坂のステーキ店(高そうな店だった)でステーキをごちそうになったおりにも、その言葉を聞いた。「本はぼくにとっては子供と同じ」と。
と同時に、「たくきくんは新人賞受賞後、さぼって全然作品を書いていないじゃないか。もっと子作りに励め」とお叱りを受けた。
いや、書いていないのではなく、書いても出版社が出してくれないのですよ、と言い訳したら、「一生かかっても1冊の本を出せずに死んでいく作家志望の人間がたくさんいる。それに比べたら、今の君の境遇は恵まれている。文句を言えるような筋合いか。愚痴らないで頑張りたまえ」と、またたしなめられた。
その言葉を大切に、以後、諦めず、努力してきたつもりである。

僕の小説デビュー作は『プラネタリウムの空』という作品で、マガジンハウスから1990年の1月に出ている。
きっかけは、その1年半ほど前だったか、朝日新聞で「素人が小説家デビューする時代」というような記事を読んだことだった。88年に椎名桜子が『家族輪舞曲』で、いわゆる「文壇」とは無縁と思われていたマガジンハウスから小説家デビューを果たしており、それに関連するインタビュー記事だったと思う。インタビューの相手は、当時のマガジンハウス文芸部編集長の石関善次郎氏。
この記事を見て、石関さんに原稿とカセットテープと企画書をいきなり送りつけた。
日本初の「CDノベルズ」を出しませんか? 私は本業は作曲ですが、小説も書きます。というような売り込み方だった。
まもなく石関編集長から電話をいただいた。
「私は音楽はよく分からないが、この小説は面白い。会いましょう」
それが88年暮れくらいのことだっただろうか。
すぐに担当者がついて、準備が始まった。僕は本音を言えば、小説が本になることよりも、自分の音楽をCDにできることのほうが嬉しかった。

「日本初の音楽CD付き小説」は出版前から業界内では話題になったようで、担当者の話では「20社くらいから取材申し込みがあった」という(本当かどうか分からないが)。
ところが、出版予定の9月に本は出なかった。原稿は校了していて印刷するだけだったのだが、付属のCD(自作の音楽6曲入りの8cm CD)をプレスできなかったのだ。原盤はできあがっていたが、プレスする工場がなかったのである。
世の中、アナログレコードからCDへと急速に切り替わっていた最中で、国内にはCD工場が不足していた。美空ひばりさんが急逝して全集ものCDなども急遽企画された影響もあり、どのCD工場も「お得意さんであるレコード会社以外からのシングルサイズCDなんて後回し」という状況だったのだ。

ようやくCDのプレスができて本が出たのは年明けだった。そのときにはすっかり「CDブック」という話題も消えていて、デビュー作『プラネタリウムの空』(ちなみに僕が持ち込んだときの題名は『幸福の構造』という地味なもので、『プラネタリウムの空』というタイトルには僕は関与していない)は惨憺たる失敗に終わった。
初版1万5000部(これは僕が今まで上梓した本の最高初版部数)。ハードカバーの単行本だが、CDをつけるために表紙には半透明のビニールがかぶせられた。そのため、装幀は地味な印象になった。
価格を下げる(1800円)ため、裏表紙にはニッカシードルという飲料のボトルが2本、なんのコメントもなく印刷されている。編集部が広告代理店経由で取ってきた広告だが、本の装幀イメージを崩さないため、広告文は一切入れないというもの。今見ても、実に不思議な「出版物」だった。
これはその後、在庫が裁断処分となり、僕の手元にも2冊しか残っていない。
五木さん流に言えば、「夭逝した長男」というところか。

次に出たのが第四回小説すばる新人賞をいただいた『マリアの父親』で、集英社から出た小説単行本は今のところこれだけである。
この作品は、昨年癌で急逝された片柳治さん(元「すばる」編集長)に預けた原稿が、いろいろあって「小説すばる新人賞」応募作になった。
候補作の駒不足から、最後に当て馬的に滑り込ませてもらった形だったが、選考委員のひとり、田辺聖子さんの強力な推薦で、選考会議では5分で受賞が決まったと、後から聞かされた。(本来オフレコの話だろうが、15年も昔のことだから、もう書いてもいいだろう)

『マリアの父親』には、「小説すばる新人賞」選考委員のひとりだった五木さんが、帯の推薦文を書いてくださった。


「作者の志というか、つよい情熱が伝わってくる
フレッシュな新人の作品に、ひさしぶりで出会ったような気がする」


僕自身、今でも、小説書きとしての自分が汚れてしまったと感じたときは、池澤夏樹氏の『スティルライフ』冒頭か、自分の『マリアの父親』の最後の部分を読むことにしている。「志」を忘れないように、と。

亡くなった片柳さんは、「集英社は文芸の出版社として在庫を抱える覚悟がある。他の出版社には在庫を抱える覚悟がない」とおっしゃっていた。その言葉通り、『マリアの父親』はなかなか絶版にはならず、数年前まで、書店から注文すれば購入できた。
しかし、その後の作品はみんな短命だった。
『マリアの父親』の後、初めての作品となった『グレイの鍵盤』(翔泳社)は、出版された翌年に絶版になった。あまりに早く、しかもそのことを知らされなかったため、僕の手元にも1冊しか残らなかった。
絶版を知ってから、編集担当者に連絡し、残っているものを買い取りたいと申し出たところ「私も絶版のことは知りませんでした。会社中探してみましたが、入手できたのは1冊だけでした。その1冊をお送りします。代金は結構です」と言われた。これが僕の小説出版の最短命記録。
その後、ようやく版元を見つけて出した『G線上の悪魔』(廣済堂出版)、『カムナの調合』、『アンガジェ』(読売新聞社)は、本を出した編集部そのものが消えてしまった。

読売新聞社は、絶版にする前に知らせてくれた。「倉庫に現在○○冊残っておりますが、ご希望なら定価の▽%でご購入いただけます」というので、残っている分はすべて買い取った。
『アンガジェ』のときは、知らせてきた若い女性社員が「○○冊とご報告しましたが、よく調べたところ、そのうち◎冊はカバーにかすれや焼けが目立つため廃棄します。残り○○冊をお送りします」と言ってきたので、「かすれや焼けはどうでもいい。本として読めれば十分。そこにあるのを全部買う」と念を押した。
その後、送られてきた本の山には、「出版業界就職をめざした学生の頃は、本作りの理想に燃えていたはずなのに、毎日のルーティーンワークに明け暮れるうち、いつしか本をただのモノとしか見なくなっていたようです。作家にとって作品はこどもと同じ、ということを忘れていました。猛省しております」と書いた手紙が添えられていた。

『マリアの父親』と『狸と五線譜』(三交社)は、普通に書店で買えるうちにと思い、数年前、数十冊まとめて取り寄せた。
しかし、『G線上の悪魔』(廣済堂出版)は入手できなかった。数十冊買い取れるだけのお金がなかったからだ。ようやく経済的に一息ついたときにはすでに絶版になっていた。

「日本の古本屋」というサイトでは、全国の古書店が提供している在庫データベースから本の検索ができる。ときどきこのサイトで絶版になった自分の小説本を検索して、たまに見つかると、せっせと買っていた。おかげで『G線上の悪魔』と『グレイの鍵盤』(皮肉なことにこの2冊は僕の小説本の中で、装幀の美しさは1、2番のでき)は、今では手元に3冊ずつある。

絶版前に買い取った本は、自分のサイトで定価+送料で細々と売っていたが、最近、嬉しいことに、アマゾン・コムで簡単に入手できるようになった。
アマゾン・コムが中古品の売買仲介をするようになってからかなり経つが、今までは、アマゾンのデータベースにない本(例えばアマゾン・コムが日本に進出する前に絶版になっているような古い本)は、ページがなかった。ところが、最近、絶版本にも単独のページを立ててくれるようになったため、古書しか入手方法がない僕の小説本が安価で、しかもすぐに入手可能になったのだ。
今まで何年もかかって「日本の古本屋」で1冊しか見つからなかった幻のデビュー作『プラネタリウムの空』が、アマゾンでは数冊売られていた。価格は230円前後。一般の古書店では絶対に買い取らない文庫本『雨の降る星』でさえ、アマゾンなら入手できる。価格はなんと1円である。

1円というのは、発送の手間を考えれば、出品者にとってはまったく利益などない。ひたすら「本をゴミとして捨てる(殺す)よりは次の読者に渡したい」というボランティア精神によって成り立っている行為である。古書店でさえ流通しなかった本が、心ある有志の手によって、次の読者に渡るようになった。これこそネットのすばらしさだろう。(ホリエモンに欠けていたのは、こうした「文化を創る、守る」という気概、志である)

おかげで、僕のサイトの著作リストも、「絶版」と虚しく並んでいた文字の次に「アマゾンで古書を購入」というリンクボタンをつけることができるようになった。本当にありがたいことだ。

さて、しつこいようだが、これとまったく反対の、国の悪事「PSE法(電気用品安全法)という名の大量破壊兵器」のことをまた書く。
国会の予算委員会第八分科会(経済産業委員会)での質疑応答の様子が→ここにまとめられている。
3月1日の委員会の記録映像は→ここで見られる
迎陽一 流通審議官は、「旧法(電気用品取締法)のときから、中古品も対象に含まれている」と開き直ったが、塩川鉄也議員(日本共産党)から「電気用品安全法、電気用品取締法の中に中古品ということは書いてあるのか?」と問われると、「書かれているのかどうか、私は今日は確認をしてきていない」と答えた。
塩川議員は、
「そもそも電気用品取締法(旧法)で取り上げられているのは在庫についてであって、中古品についてはどこにも出ていない。法改正にあたっても、国会の議事録の中で一言も中古については触れられてない。電気用品安全法の概要では、販売の制限は流通前措置に入っている。これはメーカーが市場に出す前の段階で製品の安全性を確保するという趣旨であり、それを無理矢理後から中古品も含めるというようなことをあてはめたから今日の混乱がある。中古品に関してはもともとこの法の精神の外であり、対象から外すべきだ」と指摘した。
国会議員の口から、ようやくまともな意見が聞けたが、そこで時間ぎれ。トンチンカンな答弁に終始した経産省側をそれ以上追い込めなかった。

続いて2006年3月8日に行われた「経済産業委員会」の様子が、ここに収録されている
塩川鉄也議員の再度の質問に、迎陽一流通審議官、西野あきら経済産業副大臣、二階俊博経済産業大臣らが答えている。
西野副大臣は「人の安全にかかわる重大な問題だから、おろそかにできない」などと答弁しているが、電気用品安全法によって中古家電が売れなくなることは、何度も書いているように「安全性」とは無関係である。この期に及んで「安全性」云々といった子供じみた「嘘」をつくのは許されない職務姿勢だ。ただ、もしかするとこの人に限っては、いまだに問題の本質が全然分かっていないのかもしれない、とも思う。
迎陽一審議官は違う。問題の本質を分かっていて、しらを切り通している。
塩川議員が、リサイクル店などの財産権を脅かすとしたことに対して、
「財産権云々というのであれば、法施行前に在庫になっていたもの(新品)在庫猶予期間を考えたものであり、法施行後に買われたもの(中古品)に関する財産権の保護云々というものではない」と答弁した。中古品のことなど知ったことか、と明言したのと同じことである。
二階経産大臣に至っては、さらにとんでもない答弁だった。
「この法律がいかなる経緯で審議されたのか、一応調べてみた。衆議院では平成11年6月15日に、参議院は平成11年8月2日に採決されている。しかし、基準認証制度の改定という『一括法』の中に含まれているため、特別な審議は行っていない。当時の大臣や局長以下関係者も今はもういない。しかし、役所としての、行政の継続性から、十分責任を痛感し、最後の努力を傾けたい」
分かりやすく言い換えれば、「こんな法律ができたことは、あたしもあなたも知らなかったでしょ。今さらほじくりかえすのはやめましょうよ。当時の大臣や局長ももういないからさ。なんでこんな法律ができたのか知らないが、役所たるもの、一度決めたことはなにがなんでもやるのだ」と開き直っているのである。
しかも、最後には、
「河を渡っている最中ですから、ここで馬を乗り換えたりUターンするわけにはいかない。精一杯頑張るこの経産省の姿を看取っていただきたい」
などとお門違いの浪花節をぶちあげる始末。
この姿勢こそが問題なのである。
「私自身はおかしいと思う。しかし決まった以上、もう引き返せない」という台詞が、過去何度も、歴史の重大局面で繰り返されてきた。
「おかしいと分かった以上、やめましょう」「もう一度仕切り直ししましょう」と言える人間しか、政治家や役人をやってはいけない。その一言で殺される「こどもたち」のことを、思い及ばないほど心がおかしくなっている人たちには、政治をする資格はない。


SUZUKI X-90
●3年半前、34万円で購入した我が愛車
相当気に入っているので、多分もう手放さないだろう


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