たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2006年5月12執筆  2006年5月19日掲載

田舎のアシ

AICがゴールデンウィーク休みを取っている間に、久々のKAMUNAライブが無事終了した。
総戸数が1000戸ちょっとしかない広い村(何度もいうけど、人口100万人以上の川崎市よりはるかに広い)で、ギターデュオなどというマニアックなコンサートに一体何人集まるのだろうと心配だったが、蓋を開けてみれば(古いなぁ、この表現)60人近く入り、赤字にもならなかった。まあ、演奏には失敗はいくつかあったものの、全体としては成功だったと思う。集まってくださったかたがたも満足だったようで、「これで1200円は安い!」「来年もやって」などという声もあったとか。

いつものことで、ぱっと見渡す限り、観客の平均年齢は軽く40を超えていたと思うが、その平均年齢をひとりで下げていた十代の青年などは「最初から最後まで感動で震えが止まらなかった」と興奮気味にバイト先のオーナーに報告していたとか。

……という話を、ガソリンスタンドで給油した際に聞いたスタッフからメールで教えられたが、今日、同じガソリンスタンドで給油して、僕も直接聞いた。
「コンサートよかったんですって? うちでバイトしている男の子が……」と、オーナー夫人がニコニコと話していた。
1000戸ちょっとしかない村のことだから、こういう情報はたちまち広まるのだろう。
それをうっとうしいと感じるか、楽しいと感じるかは微妙なところ。
顔見知りばかりだと、コンビニ(広い村に2軒あるが、夜は閉まっている)でエロ本も買えないだろうなあ。男の子たちはどうしているのだろうか。地元では買えず、町に出たとき買うのかしら(余計なお世話か)。

都会暮らしが長い人たちは、過疎地での暮らしは不便だろうと思いがちだが、実際には不便なことはあまりない。都会で暮らすこととの便利さと不便さを比べたら、むしろ「便利」なことのほうが多いかもしれない。便利という言い方がおかしければ、「快適」と言い換えてもいいのだが。

バスや電車などの交通網がない代わり、満員電車やバスで苦しむこともなければ、道が渋滞することもない。
店はないけれど、いざとなれば目の前の野原や道端から晩ご飯の食材を調達してくることもできる。
それに、店がないから、余計な買い物をしなくて済む。本当に必要なものが出てきたら、ネットで探して注文すれば、翌日には宅配便屋さんが届けてくれる。

最近、いちばん近い(といってもクルマで5分かかる)郵便ポストが撤去された。そのポストのそばにあった商店が店を閉めたかららしい。
郵便配達の人数も減ったそうで、今まで7人で配達していたのが5人に減るため、配達時間が遅れる地区が出てくるといったお知らせが郵便物と一緒に入っていた(5人が3人だったかもしれない。とにかく、この広い村をそんな人数で? と驚いた)。
郵便局まではここから10kmほどだろうか。一番近いポストまで5km以上離れているので、クルマで出しに行くなら郵便局にまで行ったほうが安心なのだが(局以外のポストの郵便物回収は1日1回だし)、面倒なときは配達に来た局員に渡せばいい。
最近では、郵便受けに「差し出し郵便物あります」という掲示を出しておくことにした。
切手がないときでも、配達の局員がいつも切手シートを携帯しているので、その場で買える。
これは配達員と集配員が完全に分かれている都会では無理なことで、むしろ田舎のほうが便利かもしれない。

しかし、「田舎暮らしになんの不自由もない」と言えるのは、クルマがあるからだ。クルマがなければ事情は一変する。
村の中では、歩いている人を見かけることがあまりない。
人口密度が極端に低いこともあるが、要するに「歩いて移動する人が少ない」のである。
隣の家に回覧板を回すのでさえバイクで行くくらいで、同じ集落の隣人を訪ねるのもクルマを使う。家の周囲以外、ほとんどの移動はクルマだから、歩くということがなくなる。
電車通勤をしている都会人のほうが、一日に歩く距離は長いかもしれない。

田舎では、クルマは一家に1台ではなく、一人1台である。
家族全員が乗れるワゴン車みたいなのが1台、農作業や荷物運搬用に軽トラックが1台、子供や奥さんの通勤、買い物用に軽自動車が1台か2台。これが平均的な構成。
兼業農家が多いので、軽トラが通勤用に使われることも多い。

そんなわけで、クルマなしの田舎暮らしとなれば、行動は極端に制限される。
今回、コンサート会場(元保育所で、今は別荘代わりに所有されている)を提供してくださった出版社社長ご夫妻は車を運転しない。この建物と土地を手に入れ、もう何年も経つが、村と東京の行き来はもっぱら電車か高速バス。
といっても、最も近い駅でもクルマで30分以上。新幹線が停まる郡山まではクルマで1時間以上かかる。村内の友人にクルマで迎えに来てもらうことも多いそうだ。
実際には免許もクルマも持っていらっしゃるそうで、ただ都会では運転の必要がないからしなくなってしまった、ということらしい。
これから村での時間が増えていくなら、やはり運転を再開しなければいけないかなあ、と悩んでいらっしゃった。

お二人は別荘代わりだからまだいいが、去年、運転免許を持っていないという別の熟年夫婦がこの村に家を建てて暮らし始めた。こちらは住民票も移しての永住である。
クルマがないので、移動はもっぱら自転車らしい。
家を建てた場所は村の中心部に近いため、役場やコンビニまでは自転車で行ける。
大型スーパーやDIY店のある隣町までバス便もあるが、1日数便。午前9時から午後5時までの間では、1本しかない(僕はいまだにこの村の中をバスが走っているのを見たことがないのだが、あることは間違いない)。
それで、「自然農法」による農業に挑戦中だというのだが、どうなることか。
都会からこの村にやってきた人たち(村では公式?には「Iターン者」、一般には「よそ者」と呼ばれる)の間でも「大丈夫なのかしら」と心配する声しきりであるが、今のところ楽しそうに暮らしていらっしゃるようだ。
自転車に積めないもの、村で買えないものはすべて、ネットで注文して取り寄せているとか。電化製品はもちろん、お米もネットで購入。
それでなんとかなってしまうのだから、すごいことだ。

何度か、バスで町へ出たものの、ついつい大きな買い物をしてしまい、帰れなくなったことがあるそうだ。そんなときは、携帯電話で村の知り合いに電話すると、誰かがクルマで助けに来てくれる。(実際にはかなりの距離なのだが)
最近、村役場が、緊急時に情報を携帯メールで同報送信するサービスを始めたが、いっそのこと、車を運転できない人たちのために、携帯メールを使って、そのとき時間のある村民が自家用車で送り迎えしてあげるサービスを実現できないものか。
まず不規則ながらも比較的時間に余裕のある人たちが「送迎お助け隊」として村に登録する。奥さんたちや失業中の若者、退職して時間のある人たちなど、候補者はたくさんいそうだ。
村のセンターでは、クルマのない人たちから受け付けたお助け依頼を、そのまま送迎お助け隊登録者に携帯メールで同報送信する。そのとき時間が空いている人が名乗り出て、クルマを出してあげる。
料金を取るとなるといろいろ法的な問題もあるだろうが、それこそ「特区」か何かで過疎地ゆえの特例措置をもらえるのではないか。できそうだけれどなあ。

そもそも、宅配業者にしても、この村のような過疎地では大赤字なはず。ほとんどボランティアみたいなものだと思うが、嫌な顔ひとつせず、せっせと荷物を運んできてくれる。我々、過疎地で暮らす人間にとって、宅配業者は神様のような存在だ。
これって、都会の利用者たちに支えられているのだわね。都会のみなさんが払う利用料金で、田舎の宅配運営における大赤字が埋まっている。感謝しなくては。

あとはブロードバンドが来さえすれば、なんの問題もない。
ちなみに、うちには来ていないのでISDN。とっても不自由、このAICを読むのも、ページが開くまでに3分くらいかかる。

小さな不便はあるものの、田舎の人たちは今、歴史的に見ても稀に見る贅沢な生活を享受している。人類史上、現代の田舎生活ほど恵まれた環境はないのではないか。
それに気づき始めた都会人たちが、これからは定年退職を機に、どっと田舎に押し寄せるかもしれない。
田舎暮らしの贅沢を知っている者としては、あまり気づいてほしくないとも思うが、適度に人が流入しないと村の存続も危ういだろうし、難しいところだなあ。



●こんな掲示を出しておく


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