たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2006年6月9日執筆  2006年6月13日掲載

裁判員制度は無理である

秋田県藤里町で起きた小学校一年男児・米山豪憲君(7)が殺害された事件は、遺体が発見される前から警察が容疑者を絞り、ぴったり張り付いていたという。
被害者男児が行方不明になった夜、畠山鈴香容疑者は近所の人たちと一緒に捜索に参加していたが、その後、夜9時頃から5時間に渡り警察で事情聴取されていて、家に帰されたのは午前2時という異常さだった。

この事態を見ていた報道陣が、警察が畠山容疑者の家に張り付いているのにならって、遺体発見後は常時50人を超す報道陣が畠山宅を包囲。畠山容疑者が報道陣に毒づくシーンなどを執拗に撮影し続けた。住民たちから苦情も出て、一時は取材自粛の申し合わせをするほどの異常事態だったという。

これは逮捕される前の話であり、まだ彼女は畠山「容疑者」ではなかった。
メディアは、警察が彼女に張り付いていることを知り、彼女が逮捕されるまでにセンセーショナルな映像や生の声をたくさん撮りためておきたかったのだろう。
今に始まったことではないが、今回ほど「逮捕される前に映像を撮れ」「使える素材を集めろ」という姿勢が露骨だったことはないのではないか。

同容疑者は6月9日現在、豪憲君殺害と死体遺棄について、全面自供を始めているという。
テレビでは連日「悲劇の母親が一転して殺人鬼になった」この事件を相当な時間を割いて報道しているが、彼女が報道陣に食ってかかるシーンを何度も繰り返し流したり、彼女が「子供の世話も見られない失格母親」で「子供のときから暗く」「ちょっとしたことですぐ切れる」性格であったという周囲の証言を並べたりといった内容で、これでは報道の形を借りた精神的リンチなのではないか、とさえ感じる。

報道側(特にテレビ)の問題を整理すると、

1)逮捕時、彼女は死体遺棄は認めたものの、殺害は否認していたが、報道は彼女が殺したとしか考えられないという論調で統一されていたこと
2)具体的な証拠を並べるのではなく、彼女の私生活や性格など、視聴者や読者の情緒に訴える情報ばかり流したこと
3)男児殺害を認める供述を始めたとされた後は、それが衝動的なものではなく、計画的犯行であったのではないかと思わせるような報道の仕方に転じたこと。

である。

そもそも、彼女が当初、4月に水死した娘のことで、警察が事故死として処理しようとしたことに疑問を投げつけたとき、それに同調したのも同じメディアだった。
「川を相当距離流れたはずなのに遺体の損傷がほとんどない」
「靴も脱げていないのはおかしい」
といった疑問を投げかけたのは、メディア側が用意した元検事やら元検死官だった。
その見方が間違っていたのかどうか、振り返ってみる姿勢はまったくない。

殺人事件の犯人を推理するとき、絶対にやってはいけないのは「あいつならやりかねない」とか「昔から嫌なやつだった」「日頃から怪しげな行動を取っていた」といった情緒的な思い込みによるものの見方である。あくまでも、分かっている具体的な証拠なり事実の積み重ね、可能性の組み合わせから、シロかクロか灰色かを見極めていかなければならない。

今回の例でいえば、考えられる可能性を具体的に並べるといったことさえ、どのメディアもしていなかった。

●豪憲君が殺害され、遺体で発見された時点

1)畠山容疑者(当時はまだ容疑者ではないが)の単独犯行
2)畠山容疑者を含む複数の共同犯行
3)畠山容疑者以外の顔見知りの犯行
4)団地に住む人間以外の犯行

の可能性があったはずだが、警察は遺体が発見される前から畠山容疑者が関与していると見て、異例の深夜5時間事情聴取を行ったのだろう。

●畠山容疑者が死体遺棄のみ認めた時点

1)殺害も畠山容疑者で単独犯
2)殺害は別の人間が行い、死体遺棄のみ共犯
3)殺害から死体遺棄まで共犯者がいた
4)(彼女が一時述べていたように)遺体が家にあったのを発見し、動転して遺体を捨てにいった

限りなくゼロに近いとはいえ、4)の可能性も(論理的には)残っていたはずである。
そうであれば、警察がすることは4)の可能性をつぶすことであり、メディアの報道もそれに沿ったものにならなければおかしい。
ところが、報じられるのは、「よく行くラーメン屋では親子の会話もなく、待っている間畠山容疑者は文庫本を読んでいた」とか「卒業文集に自分でニックネームは『しんれいしゃしん』と書いていた」とか、事件とは何の関係もない情報ばかりだった。

こういうことを書くと、必ず「あんな非道な人間を擁護するのか」といったお門違いの投書が届いたりするのだが、そういうことではない。
メディアが扇情的な報道に走るのは、視聴者や読者がそれを望んでいることをよく知っているからである。視聴率や売り上げ部数を伸ばすために、下世話な好奇心や、自分が絶対安全地帯に立って他人を評価する優越感に訴える。

ちなみに、6月9日現在、畠山容疑者と、娘の彩香さんの水死の関係は分かっていない。彼女の娘は事故死だったのか、それとも殺人だったのか。
これについてもいくつかの可能性がある。

●畠山彩香さん水死の真相

1)事故である
 →A. 遺体発見場所の上流で川に落ち、その後流された
 →B. 遺体発見現場近くで別の原因で亡くなり、その後落ちた
 →C. 単独の事故死ではなく、誰かが関与した「事故死」である

2)殺人である
 →A. 親(畠山容疑者)の犯行
 →B. 親以外の顔見知りの犯行
 →C. 行きずりの第三者の犯行

ざっとこれだけの可能性があり、それぞれについて、これはこれこれの証拠から判断して違う、これはまだ可能性としてはありえる……といった検証や論考が必要なはずである。警察が2)の可能性を否定して事故死と断定するのであれば、2)の可能性を否定する材料、あるいは1)を裏付ける証拠がなければならない。

警察にとっていちばん都合がいいのは、あれは事故であり、畠山容疑者が事故死として処理しようとした警察を逆恨みして、再捜査させるために豪憲君っを自分の手で殺して同じ川辺に捨てた、というような筋書きだろうか。これに、娘を失って、もともと虚言癖など問題があった性格や精神資質がますますおかしくなり、隣家にも同じ不幸を味合わせたいという衝動から殺した、という方向に進むような気がする。
万が一、彩香さんの死の裏に、畠山容疑者自身も知らないような真相(上記の2-B や 2-C)が隠されているとしても、それは永遠に封印されてしまうかもしれない。


さて、以上は実は「前置き」である。
いつものことだが、このコラムは前置きが長すぎる(自省)。

平成16年5月に、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立・公布された
平成21年5月までの間に「裁判員制度」がスタートするそうである。
この法律の問題点については、そのうち改めて論考したいが、とりあえず、これだけは知っておきたい。
裁判員制度は、国民から無作為に選ばれた「裁判員」が、殺人、傷害致死などの重大事件の刑事裁判で裁判官と一緒に裁判をするという制度だ。
ここでいう「重大事件」の内容をより具体的に書けば、

1. 人を殺した場合(殺人)
2. 強盗が,人にけがをさせ,あるいは,死亡させてしまった場合(強盗致死傷)
3. 人にけがをさせ,死亡させてしまった場合(傷害致死)
4. 泥酔した状態で,自動車を運転して人をひき,死亡させてしまった場合(危険運転致死)
5. 人の住む家に放火した場合(現住建造物等放火)
6. 身の代金を取る目的で,人を誘拐した場合(身の代金目的誘拐)
7. 子供に食事を与えず,放置したため死亡してしまった場合(保護責任者遺棄致死)

 などだという
その結果、「国民の感覚が裁判の内容に反映されることになり、国民の司法への参加が大きく進む」ことになるそうである。

反映されるのは「感覚」なのである。
上記のような「重大事件」に対する、国民の一般的な「感覚」とはなんだろうか。
簡単に言えば、「こいつ、とんでもねえやつだ」という「感覚」ではないのか。
その「感覚」が裁判の内容に反映されるというのが、裁判員制度ということである。

僕は裁判員制度そのものに反対だが、どうしても採用するというのであれば、対象事件は上記のような犯罪ではなく、社会性、公共性の高いものに限定すべきだろう。
政治家や公務員の汚職事件、法律の違憲性を問う裁判、公害裁判、公共事業の中止撤回を求める裁判などだ。
そうした事例こそ、一般国民の「感覚」を問うべき「重大事件」のはずである。

殺人や強盗致死は、犯罪の内容に関する善悪、正邪を問うようなものではない。誰が見ても悪いに決まっているわけで、それについて国民の「感覚」を問う必要などない。
ましてや、容疑者が犯行を否認している場合は、無作為に抽出された国民、つまり、犯罪捜査の素人に容疑者の有罪無罪を決めることなどできるはずがない。

「感覚」を問う余地があるとすれば、量刑が妥当かどうかくらいだろう。特に極刑をめぐる議論。もっとはっきり言えば、容疑者を国という権力が殺していいかどうかの判断に、国民の「感覚」を反映させるということだ。
それを求めるということは、犯罪捜査や司法のプロが、後々「あの結審には国民から選ばれた裁判官も加わっているのだから、国民の常識的『感覚』も反映された妥当なものだった」と言えるようにしたいからではないか。つまり、裁判員制度とは、司法にとっての職務放棄のシステムであり、誤謬を言い逃れる安全装置であろう。

「とんでもねえやつだ」という「感覚」に訴える手法を、メディアは熟知している。
そのメディアが、なぜもっとこの法律の問題点を問い質さないのか。
うがった見方をすれば、自分たちも「国民の感覚」がどの程度のもので、どう訴えればどう反応するかを知った上で、それを利用しているという負い目があるからではないのか。

松本サリン事件で、当初、容疑者扱いされた河野さんのことを、決して忘れてはいけない。あれがオウムによる犯行ではなく、誰か別の単独犯のものだとしたら、今、河野さんは獄中にいたかもしれない。

映画『12 ANGRY MEN』のヘンリー・フォンダのような人物が裁判員に選ばれる確率は、限りなく低いのである。

●放置された車
2005年8月 富岡町にて


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