実に難産!!
出産予定日を1年も過ぎているのに、まだ陣痛が続いている。
いや、このコラムでも何度か書いてきた
『狛犬かがみ』(バナナブックス刊)のことである。
狛犬の本を出したいので協力してほしいというメッセージが
「狛犬ネット」の掲示板に書き込まれたのが2005年1月のこと。最初は自費制作本会社の売り込みかと思った。
メールでやりとりするうち、そうではないらしいとようやく分かり、書き込んだ本人に会いに行ったのが2月。そのときのことは
「本の文化を担うもの」というタイトルでAICにも書いた。
話はまとまり、すぐに作業に取りかかった。春には内容も固まり、執筆を開始。原稿を全部渡した時点で、「秋には出しましょう」と言われていた。
それがまるまる1年遅れたわけだ。
理由はいくつもあるが、当初のDTPオペレーターが作業を放りだしてしまったことがいちばん大きい。
400点を超える写真が収録される本だけに、作業が途中で止まって時間が経ってしまうと、何をどこまでどうやったのか忘れてしまい、簡単には作業再開できない。
去年の夏には印刷用の高解像度画像も全部入れ終わっていたのだが、秋になってゲラらしきものが出てきたときには、最初に提示したWEB用のJPEG画像がダミーのまま貼り込まれていたりして、一体どこまで作業した結果なのか分からなかった。
来年は戌年だから、年末年始には各メディアが無理矢理「いぬ」の話題を持ち出す。それに合わせて、どんなに遅くても年末には出しましょう、と言っていたのだが、簡単に流れてしまった。
ストレス最高潮のまま年を越す。
その後音沙汰がなくなり、今年春には僕のほうから「もう引き上げます!」と宣言した。
実際、そのときにはもう諦めていて、DTPはゼロから自分でやり直し、印刷代も自分持ちでいいからという条件で、よその版元に持ち込むつもりでいた。印刷所に見積もりも取ってもらっていた。
それを慰留されて、じゃあ、と元に戻ったのが今年の春のこと。
しかし、それからも簡単には作業が再開されず、一旦決まっていたレイアウトが全部最初から変更になったり、写真画像がちゃんと貼り込まれていないことが分かって、1枚1枚チェックしたり、今まで経験のないトラブルの連続だった。
それからもいっぱいいろんなことがあって、ようやく印刷所に入ったという知らせがあり、安心していたら……。
なんとオフ校(実際に印刷機用に面つけ製版した版を使って印刷した校正刷り)が出てきたら、色がおかしいというのである。
その前に、印刷所が出してきたインクジェットプリンターによるカラー校正のときは問題がなかった。それでもう大丈夫と思っていたのだが、製版してから色がおかしいというのではたまらない。何もなければそのまま印刷所に戻して、後は刷り上がりを待つだけだったのだが、ここでストップがかかってしまった。
見ると、すべての色が鮮やかに出すぎている。木々の緑や狛犬の身体についた苔の緑が、ビニールのバランみたいにペラペラの緑色になっている。青空はペンキをぶちまけたようなコバルトブルー。神社の社殿の朱色はコカコーラの缶みたいに真っ赤っか。
業界ではこういうのを「色転び」という。意図していた色とは違う色で印刷されてしまうトラブル。
どうやら、原因はひとつではなさそうだ。
まず、テカテカにコーティングされた紙に印刷したため、本来よりもインクの染み込みが少なく、鮮やかになってしまったようだ。
インクの「のり具合」のことをドットゲインという。それが狂っていることはほぼ間違いない。
50%のハーフトーンのはずが、実際には紙にインクが染みこまずはじかれて10%プラスされると60%の濃度になる……というような現象だ。
もうひとつは「色空間(カラープロファイル)」の不一致。
DTPはディスプレイ上で作業し、色はRGB(光の3原色)で表される加算混合の世界。一方、印刷物はCMYK(シアン、マゼンダ、イエロー、ブラック)の4色のインクを掛け合わせて色を作る減算混合の世界。
もともと違う方法で色を作っているので、ディスプレイ上で見ていた色とまったく同じ色で印刷することは無理なのだ。
しかも、RGBの中でも、いくつもの「色の作り方」の方法があって、カラープロファイルという決まりに従って色を合わせている。デジカメやコンピュータのディスプレイでは普通「sRGB」(頭のsはstandardのs)というカラープロファイルを採用しているが、商用印刷の世界では、それよりも色空間を広く扱えるカラープロファイル(代表的なものはAdobeRGBと呼ばれるAdobe社が提唱するもの)に準拠することも多い。
文字コードが違うと文字化けするのと同じで、カラープロファイルが一致していないと色転びが起きる。
RGBの色空間の違いということで思い出すのは、十数年前、初めてWEBサイト
「タヌパックスタジオ」を作ったとき、一部の人たちから「背景が黒くつぶれて見苦しい」と指摘されたことだ。
これはWindowsとMacの色空間の違いによるものだった。
8ビットの色数は256色だが、この256色のうち40色がWindowsとMacとで違っている。Windowsではクリーム色に見えている色がMacではダークグレーに見える、といったことが起きる。
機種依存文字というものがある。Windowsで「まる1」「まる2」……(○付き数字)と書いた文書が、Macでは(日)(月)(火)……と、曜日の記号になってしまう。この「文字化け」と同じ理屈で、色も化けることがある。
それを避けるために、WEBデザインでは、あらかじめその40色を除いた残り216色(WEBカラーという)だけを使うのが原則なのだが、タヌパックのトップページには、WEBカラー以外の色が使われていたのだ。
実は、ページの背景(壁紙)に、一太郎(バージョン5)についていた壁紙ファイルを使ったのだが、この壁紙にWEBカラー以外の色が使われていた。ジャストシステムの技術担当者でさえ、WindowsとMacの色空間の違いを意識していなかったわけだ。
以上はRGBの色空間の話だが、CMYKのほうもいくつものカラープロファイルがあって、日本では「Japan Color 2001」と呼ばれているものがよく使われている。
このJapan ColorのCとY(シアンとイエロー)は、デジカメなどで普通に使われているsRGBよりかなり色空間が広いとか、AdobeRGBの色空間いっぱいに再現した緑色はかなり彩度が高く、sRGBやJapanColorでは再現できない……などなど、
一般人にはなんのことだかさっぱり分からん話が、
印刷業界では日常的に交わされているのである。
今回も、特に緑色の不自然さが目立っていたので、多分、このへんの問題も関係しているのだろうと思う。
しかし、すでに製版してしまった以上、コスト的にも時間的にも、今から原因を究明して……なんてことは現実的ではない。最後は印刷所に「とにかくなんとかして」と頼むしかないだろう。
日本では特に印刷所の技術者が器用で、どんな印刷データが持ち込まれ、どんな色転びが起きても、最後はなんとか依頼者の希望に近い色味に調整してくることが多い。
多分それは、インクを変えたり、印刷機のどこかのネジをちょっと閉めたり開けたりといった、アナログの世界の調整だろう。
入ってくるデータはデジタルで、フォーマットもどんどん変わっている。本当なら、そのデータを標準化された約束事に従って、きちんと調整された印刷機にかけて印刷すればバッチリのはずだが、そうはいかない。
理由や原因は後回し。最後は印刷所の職人さんが、自分の経験と勘を頼りに「緑がギンギンに出ちゃったなあ。もうちょっと落とさないとなあ」なんていいながら、我々には分かりえないような方法で、裏技的に調整しているに違いない。
本来なら、本番の印刷機と校正刷りの印刷機はピッタリ同じに調整されているはずだが、校正刷りを見た依頼者が「この緑はないでしょ! これじゃあビニールのバランみたいじゃないの」などと文句を言ってくれば、本番の印刷機のほうを調整して色を直すしかない。
たとえ印刷所には非がなく、持ち込まれたデータの作り方に問題があったとしてもだ。
そう考えると、印刷所が抱えているデジタルストレス(正確には「デジタルにアナログで対応しなければいけないストレス」)って、相当なものだと想像できる。
今回、あまりに色転びが激しい写真何点かは、印刷所で全体を調整したとしてもまだ怪しいと判断して、写真画像そのものを地味目に作り直した。
その多くは、20年以上前に、8800円で買ったコンパクトカメラで撮影し、街のDPE店のサービス判プリントで焼いた写真をスキャンしたものだった。元の写真が相当ひどいわけで、今さら色味がどうのこうのというのも無理がある代物。Photoshopでまったく別物に近い仕上がりに作り直している。もともとの色情報が乏しいので、印刷による色転びが起きたときの影響も極端に出たのだろう。
そうした写真をもう一度ディスプレイで見ながら、「印刷するとこれだけ派手な緑に出るのだから、今ディスプレイで見ている画像では相当彩度を落とした緑にしておかないとまずいかな」なんて思いながら作業したわけである。花火師の火薬の調整みたいだ。
ちなみに、こうした作業では、ディスプレイの性能も大きく関係する。最新の液晶ディスプレイは見違えるように発色がよくなったが、少し前の液晶ディスプレイは色再現が弱く、彩度や明度を上げすぎてしまうのだ。
昔作ったWEBページの写真を、今のディスプレイで見ると、どれも白っぽく飛んでいる。暗くて色再現の悪いディスプレイを見ながら写真画像をいじっていたので、どれも明るく補整しすぎているようだ。
今日、ようやく「なんとかなりそう」という連絡があった。見本の刷り上がりは遅れるが、15日発売には間に合うだろう
後はもう、細かいことは悩まずに出来上がりを待っていよう。
狛犬の身体についた苔が妙に鮮やかでも、背景の空が異様に青くても、その狛犬の造形が持っている魅力は十分に分かるはずだから。