『デジカメ写真は撮ったまま使うな! ガバッと撮ってサクッと直す』(岩波アクティブ新書)に続く2冊目のデジカメ本
『裏技デジカメ術』(青春新書インテリジェンス)が刊行された。
今年は9月に
『狛犬かがみ』(バナナブックス)も出て、カラー写真が数百点詰め込まれた本が2冊出たことになる。
Komainic September に続き、今月は「ガバサク!強化月間」とさせていただくことにした。
ガバサクは、僕がデジカメ写真において提唱している「ガバッと撮ってサクッと直す」という「ガバサク理論」のことなのだが、
ドメイン廃人ゆえに、「あ、ガバサクはまだ取っていなかったっけ」と思いつき、サクッと、
gabasaku.com と
gabasaku.net を取ってしまった。
どういうわけか、Mac OS XのSafariでは、gabasaku.com は見られるが、gabasaku.netは見られないことがあるという報告があり、ミステリーなまま。
『狛犬かがみ』のときは、DTP段階ではきれいに出ていた写真の色が、印刷したらひどかったという
「色転び」に泣かされた。そのために写真を何点か作成し直して版を作り直したら、ますますひどくなり、こんなことなら直さなければよかった……という結果になったりして。いやはや、あれはストレスだった。
今度の『裏技デジカメ術』にも300点以上のカラー写真が収録されている。『狛犬かがみ』で苦労させられただけに、また色転びがあったら嫌だなあと思っていたのだが、まあまあきれいに出てくれた。
この新書シリーズでこれだけのカラー写真を入れるのは初めてとのことで、編集者もかなり緊張し、オフ校(実際に製版してオフセット印刷をした校正)を2回出すという異例のスケジュールを組んでいたそうだが、実際には最初のオフ校でOKにしてしまった。
敢えて細かいことを言えば、写真の色は、全体に、予想していたよりも明るく、赤味がやや強かった。でも、その逆に、暗めで青みがかるよりはよほどいい。
写真によっては予想よりきれいになったものもあった。失敗写真のサンプルが結構きれいに印刷されると、複雑な気持ちになる。
印刷というのはデリケートなもので、その日の天候や温度、輪転機の回り始めと終わりの頃によっても色が変わるという。
要するに、細かいことを言ってもしょうがないのだ。数千円の大判カラー写真集ならまだしも、1000円でお釣りがくる新書サイズの本だし。パッとみてきれいならヨシ! 最初からそう思っていたので、オフ校で「なんかビミョーに明るくて赤いなあ」と思ったけれど、OKにした。下手にいじってひどくなることが怖かったからだ。
印刷はすんなりいったが、それまでの作業は、1冊目の『撮ったまま使うな』に比べて何倍も苦労した。
最後まで、扉の写真をどれにするかとか、章や見出しのことで編集者ともめにもめた。
ちなみに、
「扉候補だったけれど落選した写真」がブログに載せてあるので、見てくださいな。(7番は、この後、校了間際に扉以外のところで復活)
写真のよしあしというのは、今もよく分からない。音楽のようには自信がない。
自分ではいい写真だと思っても、もしかしたらへたくそ写真の典型なのかもしれない、という不安がいつもつきまとっている。
扉の写真選びで編集者と意見を戦わせたときも、今さらながら、人によって「いい写真」に対する感覚は違うのだなあと痛感させられた。
「え~? この写真のよさ、分からないかなあ」
「ん? それ使うの? ただのトンボじゃん。まあ、いいけど」
とか、いっぱいやり合った。
(ちなみに1章の扉は僕が強行に押しきり、2章、6章は逆に編集者の意見をのんだ。4章の花火は、双方の一推しが食い違ったので、二人が「まあ、これなら」というところで歩み寄り……。)
人間の感覚は言葉では説明できない。
もしかするととても虚しいことをやっているのでは? と思うことがある。
例えば、二人で同じ絵や写真を見て、赤が強いとか青が派手すぎるとか意見を戦わせているとする。このとき、二人が見ているものは同じだが、見えている色は同じなのだろうか?
色弱、色盲(この言葉は今は言い換えるのかしらと思って調べたが、分からなかった。「色覚異常」では両方含まれるし……)というのは、色の区別が難しいということだが(青と赤が同じに見えるとか)、そうではなく、ある人に見えている「赤」が、実は他の人が見ている「青」だった、なんてことがあっても、それは永遠に分からないのではないか。
フランスの国旗は左から青、白、赤の3色縦縞だが、Aという人が見ている「青」の感覚と同じ色を「赤」として認識している人Bがいるかもしれない。とすると、Aにとっての「青」は、Bにとっての「赤」なので、二人が見ているフランス国旗の色は左右が逆になっている。
だが、Bは生まれたときから、Aが青と感じている色のことを「赤」という名称で認識しているわけで、会話などで矛盾が生じることはない。永遠に二人は別の色覚を持っているとは気づかないわけだ。
AとBが色の感覚を記憶したまま、視力の部分だけが入れ替わったとしたら、そのとき初めて、
「おまえ、それは赤じゃなくて青じゃん」
「なに言ってるの? 赤ってポストの色のことだよ。どうしちゃったの?」
なんていうことになるのだろうか。
で、二人が改めて周囲を見てみると、ポストは青くて、サッカー日本チームのチームカラーは赤になっていて、二人とも驚く。
で、AとBは、Cにそのことを訊くと、Cは「きみたち二人とも色覚異常になっちゃったようだね」と気の毒そうに答える。
しかし、そのCが見ている「青」はAとBが見ている緑色かもしれない……。
そういうことって、ありそうだけれど、証明することはできない。なにせ、「感覚的」なことだから。
うちのお袋は、イモムシを見ると卒倒するが、寿司屋に行くと蝦蛄ばかり注文している。
その逆に、蝦蛄を見るとひきつけを起こすが、イモムシを見ると唾液が出てくる人もいるかもしれない(ん? 話がなんか違ってきたか?)。
ま、感覚を定義するのは難しい、ということですね。
難しく考えず、写真は楽しければいい。これもガバサク理論の柱です。はい。