池澤夏樹さんのメールマガジンコラム『新世紀へようこそ』を、毎回、深く頷きながら拝読している。
ナンバー085の「あまりに根源的な解決策について 1」で、池澤さんはこう書いている。
「万物は変わりゆくのだから、永遠や無限という言葉は現実の物質世界には適用できない。
そして、ぼくたちは現実の、物質からなる世界に生きている。まして、人類の経済活動は地球の上に限られている。
それならば、銀行が保証し、国と国際的な金融システムが保証しているところの利子というものの根拠である無限の成長はあり得ないのではないか。
何かものすごく間違った前提の上にすべてが組み立てられている。」
(『新世紀へようこそ』085 より抜粋)
この文章は、僕にとって、生き方を決める重要な考え方に出逢った十数年前のことを思い出させてくれた。
ある本を読み、まさに目から鱗が落ちるような衝撃を受け、それ以降、ものの考え方──正確に言えば、考える際の拠り所となる物差しが変わってしまった。その物差しは今もなお僕の考え方を支配している。
具体的には、『エネルギーとエントロピーの経済学』(
室田武、東洋経済新報社)と、
『資源物理学入門』(
槌田敦、NHKブックス)という2冊の本を立て続けに読んだという体験だ。
物質世界に生きていく上で、逃れられない根本的な物理法則がある。一つは「エネルギー保存の法則」、もう一つは「エントロピー増大の法則」で、この二つは、「熱力学第一法則」「熱力学第二法則」というものにも表されている。
地球上のあらゆる生命活動は、この二つの法則から逃れられない。人間の経済活動も同じことだ。
しかし、経済学では、熱力学第二法則を無視した前提の上で語られることが多い。物理の試験問題で、「次の○○を求めよ。ただし、
摩擦熱はないものとする」などというのと同じように。
物質やエネルギーは、形が変わっても総体としての量は不変である(エネルギー保存の法則)。
一方、物質が変化したり、エネルギーを消費したりすれば、廃熱や廃物などが生じ、ある物理的価値が減少する。これはエントロピーという物理量が増えるからだ。エントロピーという言葉は難解で、また、情報工学などでも別の意味で使われることから誤解も生じやすいが、簡単に言えば「汚れ」ということだ。
熱力学第一法則だけに従えば、ある条件下では振り子時計は永遠に動き続けることになる。しかし、実際には摩擦もあるし、物質の劣化もあるから、どんなに精巧に作られた振り子時計も、いつかは止まる。もっと大局的に言えば、熱力学第二法則がある限り、機械はいつかは壊れる。
汚れ・劣化(エントロピー)は、増えることはあっても、決して減ることはない(エントロピー増大の法則)。
生じてしまったエントロピーは減らせないが、「捨てる」ことはできる。
地球という星は、生態系と水・大気の循環システムによって、増大したエントロピーを地球外(宇宙空間)に向かって熱として捨て続けている。このエントロピーを捨てる仕組みによって、地球上のあらゆる活動は保証されている。
……ものすごく荒っぽくまとめてしまえば、そういう内容を述べた本だった。
物を生産したり消費したりすることを経済の指数と見据えたら、経済の無限成長などありえない。それなのに、メディアでは「経済成長率に陰りが見え始めた」というようなことを、危機的なことのように伝える。
質量が伴うことであれば、どんなことでも、「無限成長」などありえない。なぜなら、それは物理学を無視したことだからだ。
地球という星は成長しない。汚れ(エントロピー)を宇宙に捨てる能力も、生態系が処理できる限界によって当然決まっている。
池澤さんが言っている「何かものすごく間違った前提」というのは、熱力学第二法則を無視した経済神話ということなのだ。
人間はいい加減、数や量に支えられた幸福感から脱出し、別の幸福指数を見つけなければ、環境破壊と共に自滅してしまう。
大昔から、人間はそのことを本能的に知っていたのだろう。縄文人は狩猟採集生活をしていたが、生態系が循環し続けることを保証するため、「採りすぎ」を戒めていたことがうかがえる。
「知足」という言葉も、そのことを教えている。
現代人は「知足」などという教条的な言い方ではなかなか納得しないし、分かっていても行動には反映されないことが多いが、『資源物理学入門』によって、その理由を明解に提示されてからは、少なくとも、考え方においては、もはや逃げることができなくなった。
十数年前に、
『マリアの父親』という小説を書いたのは、この「改心」からだった。理論を理論として説くのは専門家に任せ、なんとか娯楽小説の中に、こうした考え方を織り込めないかという大それた願いを込めて書いた。
その作品は、いくつかの紆余曲折はあったが、新人賞をいただいた。
それまで、一攫千金的に「小説家」という肩書きを狙っていた姿勢を改め、本当に書きたいことを自分のスタイルで書く、という姿勢に切り替えたら、長い間閉ざされていた門が急に開いたのだ。本当に嬉しかった。
しかし、そこで僕は少し、勘違い、あるいは油断をしてしまったようだ。小説が賞をもらえたのは、そこに込めたメッセージが認められたからではなかったのだ。
以後、この考えを口にしたり、文章にしたりする度に、なぜか周囲からは不思議な距離を置かれるような体験をし続けた。「危険思想」の持ち主として、遠巻きに見られているような感じなのだ。
同世代で、同じ新人賞を受賞してデビューした作家が、いみじくも忠告してくれた。
「たくきは、一部の編集者からは、下手につき合うとまずい作家だと思われている。損だから、環境だの生態系だのエントロピーだのと、理屈を言うのはやめたほうがいい。作家に求められている資質は、理屈抜きで楽しめる娯楽作品を量産する能力なんだから」と。
僕は、自分がいかにいい加減で、環境破壊的な人間かを知っているから、これには相当驚いた。しかし、言われてみると、確かに一部の人たちからは、そんな感じで見られていたようなのだ。
以後、いろいろな経験を重ねていく中で、自然と、書く文章にも自主規制をするようになっていった気がする。
「ものすごく間違った前提の上にすべてが組み立てられている」ことを言おうとしても、言えない空気があるのだ。
日本には、二つの大きなタブーがあるように思う。一つは宗教、一つは経済だ。
天皇や皇室の話は宗教に分類されるタブーだし、原子力論争は経済のタブーに属する問題だろう。
宗教と経済……これは日本だけでなく、現代世界を支配している二大問題、二大タブーだ。下手に言及すると、とことんトラブルに巻き込まれるどころか、命まで危ない。
池澤さんは「ぼくたちには言葉がある」をスローガンにしていらっしゃるが、多分、ある人たちにとって、事実をついた言葉はテロ攻撃より怖いものなのだ。
そんな中で、数年前、NHKで見た
『エンデの遺言』は、大いに勇気づけられるものだった。
今回、池澤さんが『新世紀へようこそ』の中で書いていらっしゃることも、このエンデの考えと同じだろう。
なるほど、いきなり物理学の法則から説明するよりも、お金や利子といった、より身近なものを糸口にしたほうが、とっつきやすいし、説得力が増すかもしれない。不況の昨今、みんな、純粋に「理論」に耳を傾けるほど、余裕がないのだ。
余裕を失うというのは、本当に切ない。僕自身、考え方は変わらないものの、現実としての生き方についてはいろいろな修正を余儀なくされてきた。
創作や発言の場所を失い、家庭内経済破綻がもとで家族の絆も失ってしまってからは、地球環境や世界経済を語るどころではなくなった。まさに、貧すればどんするだ。理屈はともかく、まずは日常生活を続けていくための行動をとらなければならなかった。
もちろん今でも、機会があれば環境問題やエネルギー問題に触れるし、特に若い世代には、メッセージを発信するように心がけている。ただし、表現を工夫したり、なるべく反対論の立場からも問題を見て、無用な感情的摩擦に発展しないように気を遣うようになった。
人間の幸福感は、質量の伴う「モノ」によってのみ支えられるわけではない。愛する人から心のこもった言葉をかけられれば幸せになれるし、自分の好みに合った音楽を聴けば気持ちよくなれる。言葉も音楽も、その「本質」には質量がない。生産量で幸福が裏打ちされるような性格のものではない。
生産量やお金の流通量、為替レートといった数字に支配されているだけの経済学は、現代人にとっての正しい道しるべとはならないだろう。
要するに、多くの人が「幸せに」なれればいいのだ。経済はそれを支える重要な要素ではあっても、最終目標ではない。いちばん上に位置すべきガイドラインは、経済成長率でも売上高でも経常利益でもなく、「幸福指数」ではないのか。
そんなわけで、今の僕は、理論は理論として踏まえた上で、理屈を超えて楽しいもの、気持ちのよいものを創り出すことをまず心がけている。
その環境を得ることがどんどん困難になっていることも仕方がないことだと諦め、最低限度の経済活動をしている。
例えば、ライブをやると赤字になるから、経済的には意味のない行為だが、音楽を生で届けることは、僕にとってもお客さんにとっても幸福指数の高い行為だから、赤字を覚悟してでも行う。赤字を埋めるために(自分のスポンサーになるために)、やりたくない仕事でも、経済活動としてこなしていく。
僕はこうして矛盾を抱えながら生きていく自分を肯定している。そうしなければ鬱になるだけだから。
声高に何かを主張するだけの生き方は疲れるし、僕には向いていない。でも、事実を知らないまま、あるいは、間違った前提を信じ込まされたまま生きていくのは嫌だ。
人々が、間違った前提のもとに争ったりすることなく、正しい前提、正確な情報を知った上で、道を選択していけることこそが「大前提」なはずだ。
正確な情報を分かっていても、敢えて破壊や快楽を選ぶ人はいるし、それが人間の人間たるところだろう。しかし、「正しい前提」を知らないまま、間違った道を突き進むのはやりきれない。
……そんな風に悩みながら、なんとか日々の生活をこなしているとき、asahi.comのコラムを書いてみないかというお話をいただき、すぐに引き受けた。
実は、このコラムの隠しテーマは「幸福指数」だ。最初からそう決めていた。
間違った前提はないかチェックしながら、できるだけ楽しい話題や知的好奇心に訴える話題を見つけていく。
デジタル技術のストレスと闘いながら、デジタル技術を味方につけて、人生を楽しむ方法を考えていく。
デジタルストレス王(キング)としての僕のスローガンは、相変わらず「魂はアナログ、手段はデジタル」。これが精一杯。エンデや池澤さんの姿勢をまぶしく見つめながら、今日も締切の日に、これを書いている。
☆連載がスタートしてそろそろ半年なので、なんとなく所信表明のようなことをしてみました。この先どうなるか分かりませんが、書いている僕も、この隠しテーマを忘れることなく、続けていければいいと思っています。どうぞ、今後ともよろしくお願いします。