たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年1月23日執筆  2002年1月29日掲載

究極の耳かき

長野県は鬼無里(きなさ)村の山奥に、Sさんという、今年82歳になる老人がいる。彼は60年以上、ある物の製作に打ち込んできた。それは「耳かき」。
誰の耳管にも心地よく、どんなタイプの耳カスでもきれいに取れる耳かきの研究を続け、耳かき作りでは彼の右に出る者がないという次元にまで上り詰めた。
材料に使う竹は、厳選された孟宗竹。それをなんと、15年寝かせてから使う。竹を寝かせておく「仕込み小屋」と呼ばれる建物は、湿度の管理が難しく、梅雨時には湿気を取るためにストーブを炊くこともある。
それらの竹から何本の耳かきができるのか? 耳かきは細いから、たくさんできると思うのは素人で、実は竹の表面から5ミリくらいは捨ててしまうのだそうだ。その理由を、彼は「粘りが違うから」と言うが、一般人にはその違いが分からない。

そんなわけで、彼が作る耳かきは、とてつもない手間と時間がかかっている。それに見合った値段をつければ、1本で最低2万円はつけなければ見合わないという。1本2万円の耳かきを買う人がこの世にどれだけいるだろうか? 100円ショップに行けば、1本100円でも高いと思われるため、3本1パックで売られている。1本33円だ。その33円の耳かきと、Sさんが作る2万円の耳かきでは、どれくらい気持ちよさが違うのか?

悲しいことに、10人中8人までは、その違いがよく分からないらしい。残りの2人のうち、1人は「Sさんの作る耳かきのほうが気持ちがいいってことは分かるけど、微妙な違いだし、耳かきはすぐになくしちゃうから、やっぱり3本100円のほうでいいや」と言う。最後の1人だけが、「素晴らしい! 耳かきがこれほど奥深いものだとは知らなかった。人生において、これほど素晴らしい耳かきに出逢えた私は幸せだ!」と絶賛する。
でも、絶賛したその人も、では、2万円でその耳かきを購入するかというと、少し悩んだ末に見送ってしまう。
だから、Sさんの作る「究極の耳かき」は、世間に流通しない。商品として売れないから、ほとんどの人は存在すら知らない。
決して売れることのない究極の耳かきを、Sさんは今日も黙々と作っている。



……という内容の短編小説を書けないかなあと、ずっと前から思っていた。
え? あ、すみませんね。ここまでの話は全部フィクションであります。嘘つきは小説家の始まり。わたくし、一応小説家なもんで。(あ、それから、こんな感じの短編小説に興味があるかたは、文藝ネットへどうぞ。『世にも悲しい物語』シリーズという拙作を無料公開しています)

さて、なんでこんなことを書いたかというと、今の日本、いや、先進国と呼ばれる社会が直面している大きな問題が、このお話のテーマと深く関係していると思うからだ。

先週のこのコラムで、ドメインという「形も質量もない商品」の話をした。ドメインは、工場で製造する必要もなければ、保管しておく倉庫もいらない。劣化もしなければ故障もしない、完全にデジタルな商品。
でも、人間はデジタルなものだけでは生きていけない。本来、形のあるもの、具体的な「モノ」を愛する性癖がある。

例えば、世の中には100万円の腕時計というものが存在する。
腕時計本来の実用性や機能性だけを問うなら、100万円という値段に見合うことはありえないだろう。腕時計は1000円くらいから買えるし、それこそ100円ショップでも売っている。
100万円の腕時計が1000円の腕時計の1000倍精度が高く、壊れにくいなんてことはない。100万円の腕時計が実際に売られていて、買う人がいるというのは、機能性とは別の価値観が存在するからだ。

最近、13年12万キロ弱乗り続けた車を手放した。とても気に入っていた車で、まだ数年は乗り続けるつもりだったのだが、このところ立て続けに深刻なトラブル(まったくエンジンがかからないなど)が起きたため、悩んだ末に、買い換えたのだ。愛し続けたものを見捨てるという罪悪感の伴う、辛い別れだった。
13年の間には何度も修理している。車好きな僕は、そのたびに修理担当者と話し込んだ。修理工場で働く彼らが異口同音に言うのは、今の車はヤワにできていて、故障率も高いということだ。
「最近の車は、ちょっと見には高級そうですけど、ぎりぎりまでコストを下げていますからね。実際にはバブルの頃に作られた車のほうが、しっかりできていますよ。この車がまさにそうですね。修理して、長く乗ってあげてください」

友人であり、ビジネスパートナーでもある電気工事会社の社長は、最近の電化製品は著しく耐久性が落ちていると言う。
エアコンを取り付けてスイッチを入れたら動かない。ふと見たら、室外機のプロペラシャフトが曲がっていた……なんてこともあったそうだ。そんな明らかな欠陥品が検査を通って出荷されるなど、以前では考えられなかった、と嘆いていた。

一見見栄えのいい商品が大量に流通し、安く購入できるようになった一方で、壊れたり飽きたりするのも早くなった。修理するより買い換えたほうが安いので、結果として、ゴミばかりが増えていく……これは、ほとんどの人たちが感じていることだろう。
適度に買い換えさせたほうがメーカーの利益につながるから、保証期間が過ぎた頃に壊れるよう、わざと耐久性を落としているのだという内部告発もある。(携帯電話機のバッテリーなどは、わざと寿命を短くしているという噂が……)
エアコンが最初から動かない程度ならまだいいが、自動車のタイヤがブレーキドラムごとすっぽ抜けたとか、急にブレーキが効かなくなったなんてことになれば命に関わる問題だ。大丈夫なんだろうか、現代日本の工業。

「究極の耳かき」の価値を、10人のうち8人は理解できない。
商売というものは、多数派のニーズに合わせたほうが楽に儲けることができる。2万円の耳かきを1年で1人に売るよりは、100円の耳かきを1年で20万人に売ったほうが儲かる。製造業を営む人たちの価値観が、利益を上げることだけであれば、誰も2万円の耳かきを作って売ろうとは思わない。

しかし、僕は、2万円の耳かきを作る人がいるような「豊かな」世界に暮らしたいと思う。10人中8人の人が、感動もなく、仕方なく買わされる「安物」は、確かに必要なものだ。そうした消耗品がなければ現代社会は成り立たない。でも、同時に、残りの2人が、その気になれば「究極の耳かき」を買える世の中でもあってほしいと思うのは贅沢すぎるだろうか。

また、この究極の耳かきの違いが分かる人を、10人のうち2人から4人、あるいは5人に増やすことが、広い意味での「教育」なのかもしれないと思う。いくらいいものを作る人がいても、それを評価し、愛する人がいなければ、技術や芸術は衰退していく。
「いいもの」の評価基準が変わってしまい、お手軽で、こけおどしの、子供っぽいものばかりが氾濫する。そんな薄っぺらなものばかりに囲まれて育った子供が大人になったとき、それまで人間が長い間かけて作り上げてきた「いいもの」が再生産できなくなる……。
今の日本は、まさにそういう道を進んでいる気がする。

すでに、日本の車や家電製品の高品質神話は崩壊し始めている。また、所有する喜びを与えてくれる商品が少なくなった。メーカーが、多数派に合わせたものだけを優先し、儲けることを至上の目的とした結果だろう。

かつては個性溢れる魅力的な国産車(決して高級車という意味ではない)がいくつかあったが、今はどうだろうか。
車を買い換えようと思ったとき、僕と同居人は、サイズがコンパクトで、デザインが洗練されていて、走行性能が高く、運転者の意志にスムーズに従ってくれる車を探した。特に変わった要求ではない。そうした欲求を満たしてくれる車なら、高くてもいい(もちろん、我が家の経済力では限度があるけれど……)と思っていた。
しかし、いくら探しても、所有したくなる車が見つからないのだ。コンパクトなサイズの車は、どれも性能が不満。僕と同居人が望む基本性能を満たす車は、不必要に大きく、デザインもダサく、運転の楽しさとも無縁のものばかり。日本には、コストをぎりぎりまで抑えた小型の大量生産車と、小金持ち趣味のオヤジ仕様大型車しかないのか?

高級オーディオを作っていた国内メーカーは、次々に倒産したり、カーオーディオ中心に転身してしまったた。暴力的に強調された低音と刺激的な中高音に埋め尽くされた音楽ばかり聴いて育った世代は、恐らく「ハイファイ」なんて言葉も知らないだろう。今では「よい音」を楽しむという趣味さえもが消えかけているようだ。悲しいなあ。

日本のメーカーには、物が売れないと嘆く前に、原点に戻って考え直してほしい。自分たちは、所有する喜びを与える「本物」を作っているだろうか、と。
それは、利益を上げることとは矛盾するのかもしれない。でも、5年後、10年後も同じだと高をくくっていたら、メーカーとして生き延びられないのではないだろうか?

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