たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年12月28日執筆  2002年12月30日掲載

クローン人間雑感


このコラム、スタートが2002年1月1日だったので、ちょうど1年が経過したことになる。
AIC読者のレベルは高いので、毎週緊張しながら書き続けてきたが、なんとか1年。
当初は、軽いノリを心がけていたのだが、根が真面目なもので(本当か? ……本当です)、回数を重ねるごとについつい長くなってしまう。
1年目の区切りということで、今回は軽く、短めにしておきたい(などと前置きを書いていること自体、軽くないなあ)。

ラエリアン・ムーブメントというと、以前は書店で、ノストラダムスや謎の超古代史もの、あるいは『キリスト宇宙人説』などという本と一緒の棚に関連図書が並んでいた。あまり気にもとめなかったが、「ラエリアン」という語感がどこか「エイリアン」に似ているので覚えていた。
久しぶりに耳にしたと思ったら、クローン人間誕生の話題。いかにも、である。

クローン人間を誕生させることの是非を巡っては、倫理的というか、哲学的な見地から、反対論が多勢を占めている。僕自身は、クローン技術はもとより、遺伝子操作や臓器移植などについても基本的にはネガティブな感触を持っているのだが、一般に、「クローン人間」という言葉には、医療倫理や生命科学とは少し違った興味が隠されているように思う。

それは言うまでもなく「同じ人間の複製」が作られるという興味だ。
同じDNA情報を持つ肉体を人為的に作り出すと、元の個体と「同じ人間」が生まれてくると考えられがちで、昔から小説や漫画の題材にされてきた。でも、これはもちろん間違い。
クローン技術によって同じDNA情報を持つ人間が生まれても、「コピー元」とは別の人間であり、個性も人格も違うのは当然のことだ。

正確には、「DNAの一致=同じ人間」という勘違いは、次の2つの点で間違っている。

  1. DNA情報が一致していても、肉体的に完全一致しているわけではない。
  2. 仮に、肉体的に完全一致していたとしても、肉体の一致=精神の一致ではない。


1)については、産婦人科医ならみんな知っていることだ。DNAが同一の一卵性双生児であっても、生まれた直後から肉体の個体差が歴然としている例は珍しくなく、一卵性か二卵性かは外見からでは判別できないという。

2)については、哲学的な命題を含んでいて、いわゆる霊肉二元論論争に発展していく。精神とは、脳という肉体だけで生じるものなのか、それとも、肉体を操縦する精神は、肉体とは別に存在するのか、という、人類始まって以来の大論争。
肉体が一致していても人格は別だと主張する人でも、では、精神というものが肉体とは別に存在するのかという話になると、そうは思わない、という人が少なくない。
つまり、人間が精神と呼んでいるものは肉体から生じるのであり、存在するのは肉体だけである。しかし、肉体の完全一致があったとしても、精神は同一ではない……という、一見、矛盾したような意見だ。多分、この議論は人間の歴史がある限り続くのだろう。
(このへんのことは、加藤尚武氏の『クローン技術と倫理』というページによくまとめられている)

DNAが完全一致している実例は一卵性双生児だ。
一卵性双生児といえば、僕がすぐに思い浮かべる有名人は、マラソンの宗兄弟、スキー複合の荻原兄弟、漫才のポップコーン正一・正二……。で、みんなよく似た風貌をしているが、性格はずいぶん違うということが、テレビ画面を通したわずかな情報からでもうかがい知ることができる。

日本では、双子でも、どちらが兄でどちらが弟かを戸籍上区別する。生まれたときから「お兄さん」「弟」と呼ばれ続けることが、性格形成上、大きな影響を与えるという説がある。
宗兄弟などは、まさにその好例かもしれない。茂氏は猛氏のことを「弟が……」と言い、猛氏も茂氏のことを「兄貴は……」と言っているのは周知の通りだ。欧米なら、兄弟は名前で呼び合うし、ましてや双子なら、どちらが兄でどちらが弟かという意識など持たないで育つだろう。
面白いことに、宗兄弟の場合、実際に先に生まれてきたのは猛氏のほうだと、何かで読んだことがある。
当時の、あるいは田舎の?風習で、双子の場合は後から生まれてきたほうが腹の中では上にいたのだから兄(姉)だということで、兄=茂、弟=猛となったというのだ。ならば、もし、生まれた順番通り、兄=猛、弟=茂になっていたら、その後の人生や性格形成も逆になっていたのだろうか? いや、そうはなっていなかったように思う。
(ちなみに、僕は現役当時から宗猛氏のファンだった。宗兄弟、瀬古、中山が勢揃いしたレースでは、猛、中山、茂、瀬古の順に応援したものだった。)

DNAが同じといっても、結局、人格や精神はまったく別なのだ。
クローン人間の誕生についても、「同じ人間」のコピーが作られるということでの大騒ぎは間違っていて、そういうこととは関係なく、そもそも人間はどこまで生命の誕生をコントロールしてよいのかという、その他の議論と同じ問題なのではないかと思う。
で、これがどれだけ大きな問題なのかということを娯楽小説の形にしてみたのが、拙著『黒い林檎』なのだが、売れなかったなぁ……、
……とぼやきつつ、年を越す2002年であります。

三日前に背中を痛めてしまい、目下静養中。キーボードを打つのも辛いので、今回は根をつめず、このへんで……。みなさまどうぞ身体には気をつけて、新しい年をお迎えくださいませ。

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