去る2月10日、「書籍流通の理想をめざして」というシンポジウムが新宿・紀伊國屋ホールで開かれた。
このシンポジウムの中で基調講演をされた佐野眞一さんが、100円ショップで売られている本のことについて言及されたので、ちょっと反応してみたい。
佐野さんは、
ダイソーに代表される100円ショップで、地図や、冠婚葬祭入門、手紙の書き方といった実用書をはじめ、今では小説までが100円で売られていることをさして、「僕は冗談めかして『ダイソーから村上春樹が出る日』というレポートを書こうと思っているくらいだ」と発言した。究極的には、「本」という形は消えないにしても、日本の出版産業はつぶれるだろうと予測しているともおっしゃっている。
今のままでは日本の出版業界がつぶれていくだろうという予測は、僕も持っている。かといって、それを黙って見ているだけでは切ない。
売れない作家が個人でできることは何かないものかと、森下一仁さんや佐伯一麦さんと一緒に
文藝ネット(http://bungei.net)を立ち上げたり、斎藤肇さんの協力を得て
著作権証明機構準備サイト(http://chosakuken.org)を設置してみたり、いろいろやってきた。
そこから学んだことは数多い。
ひとつには、電子出版はまだまだ一般には受け入れられないということ。ディスプレイで長文を読むのは疲れるという人が多いのだ。ベッドで寝ころんで読める、新幹線の中で読めるというだけで、本という形は電子書籍より優れている。
また、WEBでの文章配信については、「有料コンテンツ」にした途端、そっぽを向かれるということも痛感した。WEBでの配信で、50円、100円といった少額料金を回収することの技術的難しさもある。
e-NOVELSでは、様々な試みの末、現在はso-netと組み、料金はプロバイダが回収する(so-net以外のプロバイダを使っている人も、入会金・月額基本料無料の「こんてんつコース」の会員になることで、クレジットカードからの自動引き落としが可能になる)というシステムに落ち着いているようだ。
文芸作品のWEB配信については、ここにひとつの結論が見える。e-NOVELSの頑張りには本当に感服する。
僕自身は、WEBで小説を有料配信することを現在では諦めている。これから先もずっと諦めるということではないが、当面は無理だと悟った。
そこで、少し前からは、WEBで配信するコンテンツは無料にして、本当に気に入ってもらえた一部の人に本やCDを購入してもらう、あるいはライブを企画してもらう(いつでも出かけていきます)という芸人的生き方を目指そうと、発想を切り替えた。
印税でがっぽがっぽ(死語?)儲けて大金持ち……という人生は、若い頃には夢見たが、今のようなご時世では、そんなものを目指すのはばちあたりではないかという気持ちもある。
だいぶ前、五木寛之さんのラジオ番組『五木寛之の夜』で、わが
タヌパックスタジオの処女作『狸と五線譜』というCDを3週に渡って紹介していただいたことがある。その3週目に呼んでいただき、収録後、赤坂の高そうなレストラン(自腹では一生入れないかも)で、ニンニクが目一杯きいたステーキをごちそうになった。
「たくきくんはさぼって小説をなかなか書かない」とおっしゃるので「書いても、作品の質とは違う問題で、出版社が本にしてくれないんです」と打ち明けた。
編集部内の派閥抗争?とか編集者と上司の人間関係とか、僕自身とは関係のない問題で作品を出版してもらえず、新人賞受賞後、いきなり暗雲立ちこめていた時期だった。
すると、五木さんはこうおっしゃった。
「世の中には、書くことが好きで好きで、いつかは本を出したいと願っていても、結局一冊の本も出してもらえないで死んでいく人がたくさんいる。1冊でも本にしてもらえただけでも幸せだと思わなければいけない。作家なんて、本来は河原者だよ。芸を見せてわずかな投げ銭をいただければ幸せ。そう考えなければ」
う~ん。確かにそうなのだが、天下のベストセラー作家に言われてしまうと、ちょっと複雑だったりする……(汗)。
でも、その言葉は今でも大切に心の中にしまっている。
自分は芸人である。いなくても世の中が困るわけではない。好きなことをやって生きていこうという不届き者なのだから、堅気のみなさまからわずかでも投げ銭をいただければ幸せ。
WEBでの配信は、自腹を切って大道芸を見せる場所。CDや少部数自費制作書籍の自宅通販は、投げ銭を受けとめる空き缶。そう思うことにした。
では、WEBは無料と割り切った場合、投げ銭だけで生きていけるか?
ああ~~~、これはぜ~~んぜん無理である。
少なくとも、現状では無理。数の論理の前には、ひれ伏すしかない。
生きていけなければ、芸も続けられない。
かといって、数の論理を第一に考えてしまうと、創作なんてつまらない。
今までとは別の方法で、数の論理に打ち勝つことはできないものだろうか?
もしあるならば、苦労は惜しまないのだが……。
……と、ここで話は100円ショップに戻る。
実は、ダイソーには、昨年、実際にアタックしてみた。
先日公開した
「千亜紀ストリート ~フリーゾーンミュージックの試み」(http://chiaki.st)に置いた音楽作品を、CDとして100円ショップで売れないかという企画を持ち込んでみたのだ。
企画書には、「100円ショップは将来文化の発信基地になりえる」「薄利多売だけの経営哲学で突き進むのではなく、ソフトを開発しえてこそ未来が開ける」などという論をぶち上げた。
結果は、見事にはねつけられた。
ダイソーにおいては、現状ではソフトも含めてすべて買取方式。企画やコンテンツ制作を外部が行い、製品化はダイソーということはしない。あくまでも、すでに製品化したものを買い取るだけ。
国内作品はもちろんのこと、海外作品に関しても、今は商社が製品化して納入しているとのことだった。
商品化されていれば、たとえ1000枚のCDでも受け付けることは可能だという話だったが、1000枚しかプレスしないCDに100円の価格をつけることなどできるはずがない。100円で売るためには、最低でも5万、あるいは10万という単位が必要になる。
この段階で、まず「数の論理を逆手にとってソフト流通革命を起こす」という大前提が崩れてしまった。
音楽CDに関しては、まずは知名度の高い海外アーティストのものを版権ごと買い取るなどを考えているようだった。しかしそれでは、路上で売られている1000円CD、500円CDと変わらない。500円より100円のほうが安い、という理屈があるだけだ(それこそ100円ショップにとっては最大の存在意義、最強の正義なのだが)。
インディーズの新規アーティストを出すつもりはないのか?
別系列の100円ショップでは、社長が個人的に気に入ったインディーズバンドのCDを売り始めるというニュースも流れていた時だったが、これに関しても「現状では無理」とのことだった。
社内でもそういう意見はあるが、店に試聴設備がない以上、客に中身を知ってもらうことができない。その状態では在庫を抱えるリスクを負えない、という判断だそうだ。
(ちなみに僕は、100円=試聴代と考えている。そう思わなければこの企画はそもそも成り立たない。)
少しでも不安要素があるものは在庫として抱えたくないというのは、経営の論理としては至極ごもっともである。
しかし、この論理は、「つぶれるのは必至」と予測されている日本の出版業界や、ジャンルの多様性を失った音楽産業が陥った失敗の連鎖と同じものだ。同じというよりは、ソフトを大量消費財としか見ていない点では、もっと極端だ。
WEB配信も駄目。100円ショップも駄目。やはり「数」を追う気持ちを捨てなければ前進できないのか?
いろんなことを考え、試してきたが、結局同じ場所に押し戻される。その繰り返しで歳だけは確実にとっていくんだもんね。ふうう。
音楽に関しては、僕はだいぶ前に「数の論理」に従うことをやめた。自分がいちばん心地よいと感じる音楽だけをやっていこうと決めた。
(
http://chiaki.st に置いた作品は、その決意ができる前の、揺れていた時期=80年代=のもので、詞や編曲は当時の状況を思い起こさせて、結構恥ずかしいものがある。)
小説は逆に、歳をとるにつれ、自分のためではなく、より多くの潜在的読者のために書くという、商業的な要素が強くなってきた。
本にしてもらうために、自分では好きでも切り捨てなければならないもの、嫌いでも取り入れなければならないものがあるが、その葛藤もまた、プロの宿命ととらえている。
少なくとも、現在の出版業界には、自分がいいと思った作品を世に出し、ひとりでも多くの読者に読んでほしいと願う、活字魂を持った人たちがまだ残っている。
売り上げに直接関係なくても、自分の給料に反映されなくても、編集者は睡眠時間を削って校正し、僕と真剣に意見を交わす。売れない危険を承知で、編成会議で上司を説き伏せる。
作品の質を評価し、可能性を信じて苦しい状況の中で戦ってくれる編集者がいる限り、主役である作家が同じ土俵を放棄できないのは当然だ。
商業的成功を第一に見据えて書いた結果、自分の趣味とは多少ずれていても、悩むことはしない(もちろんそれもバランスの問題だが)。
問題は、志のある人たちが完全に職場を追われたり決定権を失ったりして、頑張りようがなくなってしまったときだ。今すでに、そういう状況にきている。
100円ショップは文化の発信基地となりえるか?
この問いは、実は創作現場からの悲鳴に近い呼びかけなのだが、現時点では答えはNOのようだ。
「100円は哀しい」
これは僕の言葉ではなく、ダイソー社長・矢野博丈氏の名言である。