たくきの綱渡り人生日記 1997 (2)




◇1997年7月4日
 ■酒鬼薔薇事件雑感

 インターネットはいろいろな意味で情報革命をもたらした。僕は今、フォーカスを買わなかったけれど酒鬼薔薇事件の容疑者少年の顔と実名を知っている。
 少年法を破ってフォーカスが容疑者少年の顔写真を掲載したことへの是非は別として、変だなあと思うのは、被害者の少年少女の実名、顔、住所、親の名前や職業がマスコミで報道されていること。
 酒鬼薔薇少年逮捕の警察発表記者会見で、刑事課長は彼の通う学校名の発表を拒否した一方で、誰も訊いていないのに、被害者の家の住所を番地まで読み上げていた。こういうのこそ、役人特有の精神の鈍化ではないのだろうか?

 テレビのワイドショーの情報は、今でもほとんどがゴミだ。精神分析医や心理学者を呼ぶなら、もっと生物学的な情報・知識を提供したらどうか。
 例えば彼が、猫や犬を可愛がる暖かい家庭で育っていたら、ああいう性格・気 質の少年には育たなかったのかというようなこと。そういう領域の学問的知識や 情報を得たいと思う。
 ちなみに、彼の家庭では神戸の新居に10年前引っ越してきた当初から、柴犬を飼い始め、可愛がっていたという。その柴犬の運命はどうなったのか、非常に気になる。
 学校教育のひずみのせいで、彼は猫殺し、弱者殺しをしたのか? 違うだろう。
 別にあの学校、特別な環境でもなんでもないし、むしろ全国の平均からしたら ましなほうなのだと思う。「さっとひと流しと言いますか……」なんて迂闊な台詞を吐く校長にしても、どこにでもいるタイプ。

 彼の顔写真をここに掲載するわけにはいかないので、代わりに僕の高校3年生のときの写真(大学受験の受験票用に撮影したもの。1973年当時)を公開(なんの意味があるの?)
容疑者じゃないよ
 とても暗い顔をしているでしょ? なぜか……。
 僕は中学・高校時代(私立の一貫教育校)、髪が耳にかかっているというだけで(上の写真参照)物凄いストレスにさらされ続けた。例えば「おまえが髪を切るまでは体育の授業 は1時間中全員走るだけにする」と言われて、級友たちから「よしみつのおかげで俺たちまでいい迷惑だ」と責められたことがある。
 宿題を忘れたり、教材を忘れたりした生徒がいると、その生徒の座席がある1列全員が床の上に1時間中正座させられるという卑劣な連座制体罰もあった。
黒板用の木製の巨大な三角定規で思い切り頭を殴られ、血を流した生徒もいた。
 学校指定の焦げ茶色の学生鞄があって、それは学校の購買部を通してしか買えないのだけれど、これがちょうど5年くらいで駄目になる。中学からずっと使っているから、みんな高校2年くらいのときにはぼろぼろ、ずたずた。元の色なんかほとんど分からないような状態になる。で、隣のクラスの生徒の一人が、あと1年ちょっとで卒業なのに高価な新品を買うのはもったいないからと、別の学校に通う兄が使っていたお古の黒い学生鞄(いわゆる普通の革製のやつ)を使い始めた。それを持って登校した途端、教師に「なぜこんな簡単な校則が守れないんだ」と殴られた。
 僕が率いるバンドが学園祭の演芸会 オーディション(審査員は校長を含めた教師Θ_Θ;)で1位をとったときは、その後「おまえが髪を切るまでは出演は認めない」と通告され、結局演奏できなかった。
 毎日、学校へ行くのが憂鬱だった。というより、怖かった。いつ教師に髪を鷲掴みにされ、殴られるかという恐怖。そうしたストレスは卒業のときまで続き、結局卒業式も、「髪を切らなければ卒業式に出させない」と通告され、出席しなかった。
 今はもう、かなりよくなっていると思うけれど、多分こういう理不尽な痛めつけられかたをしている子供は全国にごまんといる。というか、ほとんどの子供はそうだろうと思う。友が丘中学校の生徒だけが、特別に強いストレスを受けていたわけではない。むしろあの学校はまだいいほうだったと思える。

 僕は、酒鬼薔薇事件と学校教育問題は切り離して論じるべきだと思っている。教育環境をなんとかしなければいけないのは事実。でも、こうしたのこぎり少年が出現して活発になる議論なんて、はなから底が見えているし胡散臭い。
 そもそも、猫や年下の子供を惨殺して初めて話題になるということがおかしい。それこそ滅茶苦茶な彼の言い分を認めたことになるのではないだろうか。


◇1997年7月24日
 7月17日から岩手・青森に短期で旅行に行った。20日のお昼に帰京。
(帰りは一気に帰れず、仙台の手前で一泊)
 青森はやっぱりちょこっと遠い。
 今回の走行距離は1740キロ。ついこないだ、ここで走行キロ数77777をご披露した愛車エリック(CELICAの最初と最後の文字を消してある)の積算距離計は8万キロを超えた。
 
 行きは早朝に出て、お昼には盛岡に着いてしまい、市内を歩いた後、やることなくてホテルでふて寝していたというくらいもったいない計画ミス。遠野を組み込めばよかったなあ。

↑97/7/17 盛岡市の榊山稲荷にて

 翌日はキリスト来日伝説で有名な戸来へ。なんだかしょぼい観光地という感じ。キリスト伝承館でアブに脚を刺される。山芋のアイスクリーム賞味。甘すぎる。

 戸来の直前でマフラーが折れて暴走族状態に。修理工場に飛び込み、溶接してもらう。ふつうなら断るような面倒な仕事を嫌な顔せずやってくれた職人さん、かっこよかった。2カ所も溶接してくれて、なんと修理代はたったの3500円! お世話になりました>有限会社 西十和田整備工場さん。

 そのまた翌日は岩木山に登り、足がぱんぱん。
 弘前のホテルで、医療ジャーナリスト・永井明さんと映画監督・大森一樹さんが極楽寺を訪ねる番組を見る。(帰宅したら、その永井明さんから新刊「奇跡の生還」が届いていた)

 狛犬は全部で37対の収穫。整理するのが大変そう。でも、東北の狛犬は当たりが多いから好き。関西圏は駄目。中国地方から南へ行けばまたいい狛犬がいっぱいいるんだが。

 帰還後の翌日21日(祝日代休)は、神田明神で三遊亭円丈vs鐸木能光の狛犬五番勝負リターンマッチ。
 今回の旅行で結構いい勝負ができそうな狛犬が揃ったんだが、間に合わずに残念。青い目の天狗狛犬(鼻が高くて目玉が青く塗りつぶしてある)なんてのは、「不思議な狛犬」に出したかったなあ。
 結果は2勝3敗で負け。しかし円丈師匠の落語は感動ものだった。惚れ直したぜ三遊亭円丈!

 8月はほとんど新潟にいる予定。



◇1997年8月17日
 8月5日。タヌパックスタジオ越後に滞在中、夕方、風呂から出て身体を拭いているときに左手の薬指を曲げたまま身体にぶつけ、バキッという音がする。痛みもないし、軽い突き指だろうと思い、最初は全然気がつかなかったのだが、よく見ると指先が曲がったまま元に戻らない。意志に反して指が伸びない。
 川崎の本宅にいる妻に電話し、保険証をFAXしてもらい、すぐに隣町の外科病院へ。診断は腱の断裂。ここでは手が施せないので明日、すぐに県立病院へ行くようにとのこと。
 恐らくすぐに手術だろうと言われる。

 8月6日。ギターが弾けなくなるのではないかという恐怖を抱きながら、混んでいる県立小出病院整形外科へ。
 ここの医師(結構投げやりな感じ)の話では、2か月完全固定。その後リハビリ。手術は下手にできない(かえって悪化させる結果もあり得るから)とのこと。完全治癒は難しいようなニュアンスのことも言われる。普通の生活には全然差し支えないだろうが(その医師も右手薬指の腱をスキーで断裂したことがあり、少し曲がっているとか)、ギターのことは分からないと。
 ただ、いずれにせよ手の専門医に相談したほうがいいとも。

 で、その足で、前日診てくれた医師を訪ね、もう一度相談したところ、新潟中央病院に手の外科専門医がいるので、専門家の意見も聞いてみなさいとのこと。が、その手の専門医は本当は今日が外来日で、次はめちゃ混みの土曜日だとか。だったら最初からそっちを紹介してくれればいいのに……。
 いずれにせよ、固定期間2か月、その後リハビリ期間を入れると数か月はギターがまともに弾けない。落ち込む。
 専門医のところには一応行ってみるつもりになるが、結局はそこで手術を勧められても、割り切れないだろうとも思う。いちばんいいのは、その専門医も「手術はしないほうがいい」と言ってくれることだが……。
 しかし、県立病院の医師の話では、こういう事故は結構あるらしい。普通に仕事をしている最中いきなり切れる人もいるとか。多分、指の腱が疲労していたのだろうとも言われた。
 真っ暗。
 千葉真子、ついにメダル取る。山崎、高岡は怪我で棄権。スポーツの世界も、怪我によるドラマの連続。



 8月7日。昨夜遅く雷雨で、5分くらい停電した。真っ暗な部屋の中で、ノートパソコンの液晶ディスプレイだけが光っている状態。でも、5分で復旧するというところが凄い。どういう仕組みなんだろう。落雷箇所にヘルメット被ったおっちゃんが駆けつけて……というなら、絶対に5分じゃ無理だろうし。
 二重三重のバックアップ体系が整っているということになる。日本という国はほんとに凄い。そこまで頑張らなくてもいいのにとか思ってしまう。

 送電に比べ、通信はまだまだ開発途上。サーバーダウンなんてしょっちゅうだし。

 友人のいおりさんが、数日前、親不知が抜けなくて悲惨な手術をして、今、目も当てられない状態らしい。
 自分にとって左手薬指が使えないくらいどうってことないけど、状況が交換できたらどうなんだろうと言われた。
 考えてみると不思議なものだ。痛みもない僕は不安だらけ。痛みと不快感のまっただ中にいる彼女はとにかく楽になりたい。人間ってつくづくやっかいなんだなと思う。
 タヌキとかだったら、迷うことなく、痛みのない指1本駄目状態のほうがはるかにいいに決まっている。
 せめて逆ならよかった。右手の薬指なら、暫くは3フィンガーで弾けばいいだけ。

 昨日くらいから、他のあちこちの指も不安になってきた。
 特に右の人差し指。曲げると、切れた左指と同じ部分の腱が少し痛む。もしかして全体的にタイピング疲労なのかも。

 左手の薬指が使えないので、その分、左手の小指が代用している。もうかなり慣れてしまって、ほとんど10本指と変わりない。小指を多用する分、リハビリ後、ギターもうまくなればいいんだが……。

 でも、よーく考えてみると、左手薬指と右手人差し指というのはギターでいちばん無理をする指なのだな。やっぱり(あんまり練習していなかったのに)ギター疲労かも。

 8月9日。新潟中央病院の「手の外科」というところに行って来た。
 紹介された吉津医師は、日本でも有数という専門医だそうで、研修医やら韓国だか中国だかから来ているらしい医者やら3人が後ろで見学しながらの診察。
 診断は小出の県立病院の医師とそれほど変わらなかった。腱が完全に切れているので、元には戻らないだろうと。くっつくといっても、従来の腱の間に新たな膜みたいなものができるだけで、腱と腱が直接つながるわけではないらしい。だから指を完全に真っ直ぐに伸ばすのは無理かもしれない(多分無理だろう)とのこと。
 指の腱は薄い膜状のものなので、手術で直接つなげる(縫い合わせる)のはまず不可能らしい。手術をするなら、指を固定するための手術で、金属棒を入れるという。後ろで見ていた中国人らしき医師は、手術をしたそうなことを言う。痛くないものを切り開かれるのは嫌なので、「それはやめましょう」と申し出る。
 結局、外部から固定したまま安定するのを待つということに。聖マリアンナ大学にやはり手専門の外科医仲間がいるとかで、帰ったらマリアンナ通いということになった。1週間おきくらいに要チェックとのこと。
 
 でもまあ、半年後には多分弾けるようになっているだろう。2か月かけてくっつけて、3か月かけて練習して(猛練習すれば2週間で戻るかもしれないけれど、無理してまた切れたら嫌だし)なんとか元のレベルまで戻して……。

 こういう事故、嫌というほどよくあるらしい。で、予後はほとんど思わしくないとか。完全に元通りというわけにはいかないらしい。でも、指が曲がらなくなったのではなく、伸びなくなっただけだから、ギタリスト生命が終わるようなことにはならないだろうと信じることにする。

 昨夜、ギターの弦を全部逆に張って左右逆奏法に挑戦したが、1分で諦めた。ゼロからの出発はやはり無理。それやって右利きと同じレベルまで弾けるようになるには5年はかかるんじゃないだろうか。だったら怪我が治るのを待っていたほうがいい。今まで積み重ねてきたことって大きいんだなあとつくづく感じてしまった。

 8月12日。中学・高校時代の同級生・熊さんが「お見舞い」ということでやってくる。大阪は岸和田から飛行機で。
 物静かで気配りの紳士。変わっていなかった。井津先生の葬式でちょっと会って以来。

 庭でバーベキュー→タヌキウォッチング→雷つき嵐→翌朝は地元のコシヒカリで朝飯→簗場で鮎の塩焼き&鯉こく……と、短時間ながらフルコース。交通費に見合った楽しみ方ができたかどうかは自信がないけれど。

 8月15日。13日に、昨年代アニで知り合った伊勢講師が来訪。彼と妻と3人で柏崎のトルコ文化村というのに行って来た。「文化」と入れてあるのは、やっぱりオヤジ系の客で「写真で指名できるの?」とか勘違いするやつがいるからだろうか。
 予想通りせこいところで、金ばかり取る。狭い敷地に、レストラン、小さなショーホール、バザール、美術館があるだけ。これで駐車場代500円、入場料1000円(美術館込みだと+300円)もとる。入場料取るほどの施設ではないな。駐車場代だけで十分。
 トルコ人のダンサーによるショーはしょぼく、洞窟ホールとかいう名前のホール(もろストリップ劇場の感じ)ではたった一人の太めのおばさんがベリーダンスを2時間おきにやっている(要するに脱がないお色気ショーみたいなもの)。
 レストランはメニューがバイキングだけで2000円なり。まあ、これはそこそこの内容で、2000円は高いとは言えないから許してもよいけど。
 お盆の中日ということもあって、道も会場内もめちゃ混み。洞窟ホールでは、まったくステージが見えない。その後、トルコ人デュオによるギターの弾き語りというのがあったが、これはもう、音が外に漏れてきたときから、酔った客がふざけて飛び入りしているのかと思うほどの下手さだった。覗いてみたら、トルコ版猿岩石みたいな青年二人のうち一人がフォークギターのストローク弾き、もう一人が隣で完全に外したハモをつけているというおぞましさ。トルコ人ならいいってもんじゃないだろが。
 苦笑したのは、このトルコ文化村で、来月、渡辺香津美バンドのスペシャルショーがあるという告知。6000円だそうだ。KAMUNAも来年やるかなあ、トルコ村で営業。
 伊勢講師は、その後、柏崎から大阪行きの特急雷鳥44号に乗って帰る。そういう列車があることを初めて知る。

 帰りに小千谷の駅前の喫茶店に入ったら、マスターが漫画&パソコンオタクらしくて、店内には漫画本とパソコン雑誌が山のように積んであった。日経パソコンのいちばん新しい号(それでも6/30号)を見たら、私が載っていた。取材受けたはいいけれど、掲載号くらい送ってよこしなさいね>日経。喫茶店にコピー機があったので、コピーして持ち帰る。

 指が動かなくなっていろいろと考えることが多い。やっぱり音楽ができないのは辛い。 音楽も小説も、いい作品が売れないという点では同じだけれど、音楽は自分の持っている力を120パーセント出し切り、最高のものを目指した結果が一部のファンに受け入れられている。同じ売れないなら、音楽は真面目に、小説はしたたかにという使い分けをしていこうかと思う。

 暫くギターが弾けないのは、大袈裟に言えば人生を見直すいい機会かもしれない。交通事故にあって入院したとか、癌になったとか、指以外の部分がダメージを受けたとしても(どんな事故・病気でも)ギターが数か月弾けなくなるくらいのことは起こりえるわけで、それほど特別なことではないのだと言い聞かせている。考えようによっては、ギターが弾けない以外は何でもできる今の状況というのは、天から与えられた休暇&見直し期間かもしれない。
 音楽をやめて小説に専念せよという天の声だという解釈のほうが素直だろうけれど、どうしてもそうは取れない。むしろ、もっと真面目にギターの練習をせえよという警告ではないかと思えてしまう。

 多分、19日か20日に一旦川崎に戻る。で、フォステクスのデジタルレコーダー(ADAT互換機)を探す。指が動かない間に、次のレコーディングの準備。
 ギプスが取れたら、リハビリ期間中は、軽くコードを押さえながら作曲期間にしてもいい。ヴォーカルのアルバムの構想を練ってもいい。とにかく、音楽に対して攻撃的になろうと思う。

 リハビリが難しそう。いきなりがんがん弾き始めて、また切ってしまったら元も子もないし、かといって、ある程度は負荷をかけないと、硬くなったまま固まってしまいそうだし。
 
 あれ以来、他の指の腱のことも気になって仕方がない。右の人差し指は特に。強く曲げると痛みがある。他の指より腱が硬いような気がする。
 もしかしたら、子供のとき何本かの指はこの程度の事故に遭っているかもしれない。子供だから気がつかず、放っておいて自然治癒。回復力も比較にならないくらいあるから、ちょっと曲がった程度でくっつき、そのまま自然に治るのではなかろうか。

 気をつけていると、日常生活のあらゆる場面で、指を不自然につくということがある。荷物を持つとき、戸の開け閉め、タオルで身体を拭くとき、髪を洗うとき……。(他の指の)切れた腱のあたりにかすかな痛みが走る。でも、普通はそんなこと気にも留めない。とりあえず、指を凹形に曲げて(全部の関節を曲げきった状態)、爪の方向から強い力が一瞬かかるという状況が危ないみたい。

 8月16日。さっき、包帯したままギターを弾いてみた。薬指だけ使わないようにして。
 単音はなんとかなる(小指で代用して)けど、当然ながらコードは駄目。でもまあ、弾けるようになるという確信が持てた。うっかり包帯したままそっと押さえても、音は出るし。
 暫くは人差し指と小指だけでオクターブ奏法の練習とかしようかな。これも、3弦以上になると薬指を使うので駄目だけれど。



◇1997年9月9日
 当網頁にCGIを導入。一つは今までインターリンクのSSIを使っていたCD注文フォームを、BIGLOBEでのCGIに変更。インターリンクは重くて、つながらないことも多かったから、これでかなり軽くなった。
 掲示板も入れてみた。メールアドレスが文字化けする。変だな。でもまあ、それほど支障はないかな。
 この下にある「ゲストブック」というのがそう。公開掲示板というのは、あちこちでトラブルを起こしているので、とりあえずは試験的にひっそりとこんなところに置いてみた。日記を読んだ人だけが掲示板に気づくというわけ。ひっそりしすぎて、誰も書き込まなかったりして……。それも寂しいので、お気軽に書いてくださいね。


◇1997年9月17日
 家がでかくなりすぎてフロントページがごちゃごちゃしてきたので、表組にしてみた。
 でも、あんまりすっきりしたとも思えない。クリッカブルマップとかってあんまり好きじゃない。シンプルなのが好き。
 先週末から越後に来ていた。今から帰るところ。帰ったらすぐに部屋の掃除だ。なんだか人生、毎日掃除ばかりしている気がする。それなのにいつまでたっても譜面1枚机の上に広げられない。なぜだ?
 「ゲストブック」はまだひっそりしたまま。でもこのままでいいや。ごくごく内輪だけでたまーに書き込むくらいがちょうどいいと思う。フロントページにはリンクさせない。


◇1997年9月21日
 僕の本名は鐸木能光という。鐸木姓は川崎市では我が家と両親の家しかないはずだ。東京都の電話帳には数軒載っているらしい。
 曾祖父は福島町(福島市がまだ市になる前の)最後の町長で、福島市の信夫山にある墓地入口には、「鐸木三郎兵衛の墓」への道順という案内板が立っている。今では親戚にも忘れられた曾祖父だが、なぜそんな看板が立っているのか……ミステリーである。
 大昔、「もしかしてお宅は親戚ではないですか?」と電話がかかってきたことがある。千葉大学の教授に鐸木姓の人がいるらしくて、その親族だか親戚だかの男性からだった。その人の話では、先祖は鐸木三郎という人で、出身は四国だとか。「うちは出身は福島です」と答えると、「じゃあ、全然関係ないですね。失礼しました」と電話が切れたが、本当は関係なくもない。福島町長・鐸木三郎兵衛の本名はただの「三郎」だったという話がある。自分の本名「鈴木三郎」が平凡なので、町長になってから「鐸木三郎兵衛」と改名したというのだ。どこまで本当かは分からないが、もしそうならば、鐸木姓はこの三郎兵衛がルーツということになる。
 三郎兵衛は養子を多数取り、その中の何人かが四国に移り住んでいったという情報もある。
 infoseekの検索で「鐸木」と入れてみると、僕以外にいろいろな人の名前が出てきた。
 日本化学学会誌の人名リストには鐸木啓三さんという人が出ている。『現象の数学 II』(井早 康正 ・鐸木 啓三 著)という、何やら難しい本も出している。もしかして千葉大の教授というのはこの人だったのかもしれない。
 慶応大学法学部のなんとかというページでは、「鐸木昌之君学位請求論文審査報告」なる1行が引っかかってきた。啓三教授のご子息だろうか?
 「第9回全日本マウンテンサイクリングin乗鞍 一般男子Bの部」では、愛知の鐸木宣義さんという人が169位に入っていた。
 「鐸木三郎, 河合利幸, あべ木順一, 大西啓修, "画面分割型並列視線探索法における負荷分散手法の比較", 情報処理学会第52回全国大会論文集, Vol.2」なるものも引っかかってきた。この鐸木三郎さんは先祖と同姓同名だから、正統の(?)子孫かもしれない。鐸木三郎さんはザバダックという音楽デュオの関連ページも作っていらっしゃったようだが、残念ながら消えていた。
 出版検索(タヌパックの著書目録ページにも検索ボタンを追加)では、「鐸木」で8冊の本が出てくる。一つは僕の『アンガジェ』(この本から小説は鐸木能光名義で出していて、それまでは「たくき よしみつ」で出したから、「鐸木」ではこれしか出ない)だが、その他7冊は別人のものだ。

○著者名「鐸木*」
『アンガジェ』(鐸木 能光 著)、1996、\1,456 読売新聞社
『ヒランダル修道院』(ジューリッチ,V. 他著、田中 一生 ・鐸木 道剛 訳)、1995、\19,417、 恒文社
『21世紀に向かうアジアと日本』(小島 朋之 編著、井尻 秀憲 ・鐸木 昌之 他著)、1993、\3,204、 芦書房
『イコン』(鐸木 道剛 ・定村 忠士 著)、1993、\2,039 毎日新聞社
『東アジアの国家と社会 3 北朝鮮』(鐸木 昌之 著)、1992、\2,400、 東京大学出版会
『電子の軌道』(鐸木 啓三 ・菊池 修 著)、1984、\1,250 共立出版
『鐸木康孝論文集』(鐸木 康孝 著)、1981、\11,650、 鐸木康孝論文集刊行会
『現象の数学 II』(井早 康正 ・鐸木 啓三 著、高橋 秀俊 監)、1976、\2,200、 アグネ

 ……なんかみんな物凄い専門書で、小説なんぞ書いているのは僕だけだ。鐸木姓というのは、学者肌なのかなあ。そういえば父も祖父も学者肌だった。父は理科の教師を経て理科の参考書の編集をしていたし、祖父は福島市に教会を建設するのに尽力したとかなんとか……(よくは知らない)。
 鐸木 道剛さんという人は、両親から、かつて通っていた教会(日本聖公会)で同姓の男性に出逢って驚いたと聞かされたことがあり、その人に間違いない。やはり四国の出身だったと思う。
 福島町最後の町長・鐸木三郎兵衛から連なると思われる鐸木姓だが、福島市にはもう叔母一人(70代・独身)しかいない。叔父は埼玉在住で娘が二人。僕は子供を作らないし、福島から東京へと流れてきた鐸木姓の流れはもうすぐ途絶える。血とか姓なんて、どうでもいいんだけれど、珍しい名字だけに、ちょっと残念な気もする。こうなったら四国へ渡ったと思われる鐸木姓(正統派学者の血筋?)一族に頑張ってもらいたいものだ。
 ちなみにinfoseekではこの日記ページも検索に引っかかってくる。もしも、鐸木姓の人間が「鐸木」で検索をかけてこのページにたどり着いたら、記念に下のゲストブックにでもお名前を残してください。


◇1997年10月3日
 指の装具を恐る恐る取って、リハビリを開始した。腱はうまくくっついたのだが、2か月真っ直ぐに固定していたので、今度は曲げることができなくなっている。無理に曲げればせっかく癒着した腱が切れたり伸びたりして元の木阿弥だし、かといってこのままでは曲がったままよりよほど困るし……まあ、気長にじわじわと伸ばすことにする。
 MP3なる音声圧縮技術が物凄いという情報が入ってきた。ほとんどCD並みの音質で1分1MBくらいに圧縮できるという。こうなるとテープはおろか、ディスクメディアさえ不要になり、下手するとメモリそのものに音楽を丸ごと取り込めてしまう。著作権問題をはじめ、いろいろと大変そうだが、売れない作曲家にとってはこういう戦国時代は面白いかもしれない。
 しかし、作品を製品化しすくなっても、悪貨が良貨を駆逐していくのでは状況はよくならない。インターネットも、今のところは文化の解放というより、文化のゴミ溜めのような働きしかしていない。ゴミに埋もれた宝石をクソまみれになって探し出す人がそれほどいるとは思えないから、今後も期待はできないかなあ……。


◇1997年11月3日
 指はほぼ元通りになった。まだ完璧には曲がらないけれど、ギターを弾くのにもそれほど支障はないところまで回復。よかったよかった。
 装具で固定していたときはあんなに弾きたかったのに、練習を再開して半月も経つと、もう以前のような怠け癖が出てくる。めんどくさいなと感じたときは、弾けなかったときの辛さを思い出して、えいやっと心の中でかけ声をかけてからギターを手にする。
 
 今また越後にいる。そのうちにここが自宅で、川崎のほうは事務所という感じになっていくかもしれない。雪がこいをして、水を止めて、ここは長い冬に突入。
 今年は岩手と青森を旅行した。その成果を「東北の狛犬」として一挙公開。ファイルはgeocitiesに入手した土地に置いた。2MBまで無料で使えるという不思議なサービス。サーバーの能力も非常に優秀で、下手するとここ(BIGLOBE)より軽いかもしれない。FTPもあっと言う間に完了する。ただより安いものはないとも、ただほど怖いものはないともいうけれど、どっちなんだろう……。
 「草の根通信」も「晶くんの小部屋」もここに引っ越しした。元の場所のファイルはまだ削除していない。なんか、ただで借りている土地というのは尻がむずがゆいというか、いつ追い出されるかもしれないという不安がつきまとうので。
 

◇1997年11月30日

 久々の日記です。
 最近は掲示板のほうばかりに書いていて、この日記はさぼりがちです。

 昨日、INETで知り合ったちきさん(http://www.arab-music.com)に声をかけられて、ちきさん率いるアラブ音楽ユニット(ナイ、ウード、サズーのトリオ)のライブを見てきました。
 最初は新百合丘のエルミロードあたりに車を入れて小田急線で行くつもりだったんですが、家を出た途端にあまりの豪雨にめげてしまい、急遽、現地まで車で行ってしまいました。途中、視界ゼロのウォーターコースターみたいな東名と環パチを通って。
 前日、マレットのご主人からの電話で、最後に「では、明日7時半からですので」と言われ、あれ? 網頁には7時となっていたのに、じゃあ、7時会場7時半開演なのかと解釈していたら、なんと7時には音が出ていたんですねえ。
 現地には6時半には着いていたんですが、まだ1時間もあるということで向かいの定食屋でカジキマグロ照り焼き定食を食べ、さらにコーヒーまで飲んでいたのでした。7時5分くらいに店を出て向かいのマレットに入ったら、もう音が出ていてびっくり。しかも、あの雨の中、キャンセルも出ずに満席。

 アラブ音楽はやはり不思議な代物でした。
 ちきさんとは実は初対面。
 身体の芯までミュージシャンという本物の音楽人間でした。基礎がしっかりしているし、なんだか凄い。いい加減に音楽をやっている僕は、ときどきこうした「本物」に出逢うとちょっとびびってしまうのでした。

 アラブ音楽というのは、ヨーロッパ音楽の12音階(平均律)とはかなり世界観を異にする音楽で、半音のさらに半分の1/4音とか、それの上目、下目なんていうものがいっぱい出てくる。この微音に「はまって」しまったことから、ちきさんのアラブ音楽人生が始まったようですが、ちきさんは他にもテクノ系音楽の打ち込みとかもしているとか、もともとはクラシックのトランペッターだったとか、なんかとても簡単には説明できないほどの「過去」を背負っている感じの人。想像していたよりはずっと骨太な人でした(体格・風貌がということじゃないのよ)

 ライブが終わった後、熱っぽくアラブ音楽のことを語るちきさん。理屈(理論)は理解できても、ちきさんがアラブ音楽にどれだけ「はまっている」かは想像するしかないわけで、もちろん即座にその快感を共有できるほど簡単な世界ではありません。
 でも、それ以前に、アラブ音楽の世界観や成立の基盤など、理論的な部分さえ理解できる人は日本には非常に少ないでしょう。
 ふと、数か月前、僕もある人から「敢えてギターデュオなどという超マイナーなジャンルに挑もうということに驚きを禁じ得ません」などと言われたことを思い出しました。

 KAMUNAは決してマイナーなことをやっているつもりはないんだけれど、多くの人たちには「売れ線を外れたマイナーな音楽」でしかないのかなあと、寂しく思ったものです。
 ジャズの理論的なことなんかまったく分からない、メロディーの力も分からない、そういう人たちには、「えらいもんに入れあげているんやなあ」という醒めた目しか持てないんだろうなと。
 KAMUNAの音楽を聴いても、メロディーやハーモニーというよりも、なんとなく「音」として楽しんでいる人も少なくないのかもしれない。なんだか分からないけれど、ほわんとギターの音が心地よいとか、耳障りじゃないからいいとか、BGMにしたとき邪魔にならないとか、そういう楽しみ方。
 音楽を聴く場合、すぐにメロディーを探っている僕には分からない楽しみ方だけれど、結局、世の中っていうのはそんなもので、同じものを前にして同じように「好き」だとか「いい」だとか言っていても、楽しみ方、感じ方はまったく違っている場合があるということなんだろうな。

 アラブ音楽は、言ってみれば、コードがあってメロディーがはまっているというヨーロッパ音楽の堕落(別の見方をすれば「解放」でもあるのだろうけれど)を横目に、旋律(それも非常に原初的な意味での)の連続という世界観。日頃、あまり考えたことがなかった音楽のあり方だっただけに、ちょっと目からウロコでした。
 
 サズーという弦楽器をちょこっと触らせてもらいました。フレットがあるんだけれど、フレットの並び方が平均律ではない。ギターでいえば「フレット音痴」。ふうーーーん。こりゃ、大変だわ。
 
 まあ、とにかくいろんなことを考えさせられたひとときでした。
 
 今日は2時からお稽古なので、東京女子マラソンの最後が見られない。
 このところ男子マラソンにヒーローが出てこないねえ。福岡で早田君は復活するのだろうか?


◇1997年12月3日
 ステファン・グラッペリが亡くなったという記事を、昨日の朝刊で読みました。
 彼の音楽が得に好きだったということではないんですが、彼の生き様は好きでした。あんなふうにかっこよく歳を取りたいと思って、37歳でジャズギターを習い始めました。
 ジャズのコードなどを学んで、最初に創ったオリジナル曲に『ステファン』というタイトルをつけました。あやかりたかったのです。彼の人生に。
 享年89歳。死の直前までライブ活動を続けていて、しかも超絶と言うしかないようなテクニックを誇っていました。物凄い人です。
 『G線上の悪魔』という小説にも、彼のイメージはずいぶん使っています。小説の中に登場する老バイオリニストは決してかっこよくはないんですが……。
 今年は青春時代に聴きまくったローラ・ニーロも亡くなったし、寂しい年になりました。


◇1997年12月8日
おーのー

↑本日のオマケ。「売れなかった本」の稿料?? 怖い怖い。


 CDの通販をしていると、ときどき購入者と直接電話などで話すことがあります。
 今日、『グレイの鍵盤』1枚を注文してくださった仙台の男性とは、妙に記憶に残るやりとりがありました。
 最初に問い合わせのFAXが入ったのはかれこれひと月くらい前でしょうか。確か週末の夜の8時過ぎでした。
 FAXのヘッダーに表示されている番号に折り返しFAXで注文方法やタヌパックCDのカタログを送ったのですが、携帯電話のほうに電話をくださいと書いてあったので、その後、電話してみました。既に9時近かったと思います。
 彼は帰宅する車の中で、「あ、今、車を停めますから」と答えて、道路脇に停めた気配がしました。会社を出る間際に問い合わせFAXを送ったので、僕がすぐに返信したFAXは見ていないそうです。
 「会社にFAX入れちゃったのまずかったですか?」
 「あ……いえいえ、大丈夫ですよ」
(と答えながらも、本当はまずい気配。会社のFAXを私用で使ったのがばれてしまい、彼の立場がまずくなるかもしれません。
 実はずっと前にも同じようなことがありました。
 山梨のほうの精密機械工場らしきところからFAXでCDの問い合わせがあり、返事はこの番号にFAXでお願いしますと書いてありました。さっそくその番号に返信したのですが、注文はありません。数日後、同じ番号からもう一度問い合わせがあり、再び資料を送信したのですが、翌日、今度はその会社の事務の女性から電話があり、「うちあてに関係のないFAXが送られてきています。うちの会社には○○という者はおりません」とのこと。
 「そんなはずはないですよ。そちらの番号から発信されていますし、そのFAXあてに返事がほしいという内容だったんですから」と答え、念のため、元のFAXを送り返したのですが、結局そのままになりました。気になって仕方ありませんでした。
 多分、会社のFAXを使って仮名で問い合わせをしたものの、返信を別の社員が取ってしまったのでしょう。せっかくそこまでして問い合わせをしていながら、最終的にCDは届かないわけで、そういうのはこちらもやるせなくなります。
 長い括弧とじ)

 仙台のその男性は、明るい声で電話を切ったのですが、その後、注文はありませんでした。
 こういうケースは山梨の工場からのFAXに続いて2度目です。
 CDの問い合わせをしてくださるかたは、ほぼ全員がすぐに注文してくださいます。BS7で耳にして、CDショップを回り、それでも見つからずについにNHKに問い合わせるという根性の持ち主ですから。
 それだけに、問い合わせのみで注文がない場合は、こちらとしても、多少悩んでしまうわけです。
 値段が高いのかなあ……とか、インディーズだと分かった途端に欲しくなくなったのかなあとか……。
 でも、今回は、単なる勘違いだったようです。
 今日の朝いちばんに届いたFAXにはこうありました。
 〈以前問い合わせをしました▲▲(会社名)の○○と申します。すっかり注文したつもりで忘れていたので……〉
 どうやら問い合わせをした時点で注文したように錯覚していたらしいのですね。そう分かって、こちらもほっとしました。
 彼から、さっき電話がありました。
 「あのう……今日の午前10時頃、CDの注文のFAXを入れた○○ですが、注文書は届いていますでしょうか?」
 「はい。発送いたしましたので、早ければ明日、遅くとも明後日には届くと思います」
 「は、早い……。それでですね、おるくすぐりーふ……えーと、イルカのため息ですね、あれの他に、もう1曲BSで流れてますよね」
 「えーと、ワルツですか? 昼間に流れるやつ」
 「いえ、ちょっと時間帯までは覚えてないんですけれど、タラーンタラッタラッタラー……♪」(と電話口で歌い始める)
 「ええ、はいはい。『Waltz for I.』ですね。Iは『私』じゃなくてイニシャルの……」(文法的に間違っているのではないかと思われてしまいそうで、すぐにこう付け加えてしまう私)
 「ワルツ・フォー・アイっていうんですか? それもCDに入っているんでしょうか?」
 「あれはもう1枚のアルバム『アンガジェ』のほうに入っています」
 「はあー、そうですか。では、そっちのほうも注文すれば聴けるわけですね」
 「はい。よろしくお願いします」

 電話を切る直前、ちょっと恥ずかしそうに「あのー、これからも頑張っていい曲を作ってください」と付け加えられ、思わずこちらも電話口でにやけてしまいました。

 ふと、彼の生活を想像してしまいました。
 何を扱っているのかは分かりませんが、多分営業マンで、携帯電話を持ち、営業車を乗り回して外回りする日々。帰宅後、夜遅くBSを見るでもなくつけていて、耳に飛び込んできた『オルカのため息』。何度か聴くうちにどうしてもCDが欲しくなってCDショップを回ってみたものの見つからず、店員に訊いても分からず、最後はNHKに電話をして、インディーズであることを知り、自宅にはFAXがないので会社から1日の仕事が終わった後にこっそりFAXを入れて……。
 彼が電話口で歌ったメロディーはちゃんとしたものでした。流れている時間帯は忘れたと言いながらも、メロディーはきちんと覚えていてくれているわけです。
 しかも、確か、昼間の『世界の天気』で流れている『ワルツ・フォー・I.』は、KAMUNAのクレジットが入っていないはずなのです。つまり彼は、サウンドとメロディーを聴いただけであの曲もKAMUNAであると確信したのだと思います。
 そこまで思い至ったとき、ああ、これがメロディーの力なんだと、しばし感慨に耽ってしまいました。
 いやはや、毎度のことながら手前味噌でした。失礼失礼。

 ★追記:
翌日、「あのう、昨日電話した○○ですが、実はまだCDは届いていないんですが、家に帰って話したら『なぜ一緒にもう1枚のほうも注文しないのか』と家内に叱られまして、『アンガジェ』のほうも注文したいんですが……」という電話がありました。


◇1997年12月24日
あちゃー

↑本日のオマケ。これがタヌパック「四畳半」スタジオだ!

 
 タヌパックスタジオはバージョンアップ作戦まっただ中。
 
 今年はもうだみだなー、来年に架ける橋……ということで、大枚はたいて新機材を大量購入したのが夏前のこと。
 今後は生録音中心で行くことを考え、FOSTEXのA-DAT互換機を探し回り、ようやく最後の一台を手に入れたのは6月頃だっただろうか。
 ところがこれが全然駄目。考えていたものと違う。それに、まともに動かない。新品だという話だったのに中古だったし。
 文句言ってD-160というハードディスクレコーダーと交換してもらった。タヌパックで使うハードディスクレコーダーとしては、AKAIのDR-4dに続いて2台目。
 その後、音源とシーケンサーを一体化させ、ぐちゃぐちゃと山のように積んであるあまたの音源、パソコン、専用シーケンサーを一掃しようと考えた。その救世主になるはずだったのが、AKAIのMPC-2000。品切れが続いていて、入手までにひと月以上かかった。
 ところがこのAKAIのMPC-2000(サンプラー内蔵型のシーケンサーというか、シーケンサー内蔵型のドラム音源サンプラーというか……)は、トラブル続き。
 デジタル入力にするとノイズが出てメモリ内容が破壊されるトラブルに見舞われ、いきなり入院ひと月。
 物凄い時間がかかった後、連絡してきた内容は、僕が秋葉原で買ってきたEDOメモリが相性悪いとのこと。結局、AKAIが持っていたメモリに交換した。
 ところがこれで直ったと思ったら、最近また、数時間経つと簡単に熱暴走し始めることが発覚。これはデジタル入力時のみで、他の作業中は平気だったから気がつかなかった。文句言ったら、「あれから原因が分かって、現在はデジタルノイズ対策にコンデンサーを入れてます」だと。
 日曜日に送って、1日で直させて、さっき寝ている間に戻ってきた。
 MPC-2000はおばかななので、ゴンタと命名。ドラムパッドをゴンゴン叩きながら入力するところも、なんか間抜け。こいつめ、こいつめと頭を叩いているうちに、どんどんバカになったらどうしよう。
 
 ゴンタ用の台(液晶ディスプレイが見えにくいので、かなり急な角度をつけた斜めの台と、MOやCD-ROMドライブをのせる下の棚がついている木製のオリジナル)のキャスターが、一方向にしか動かないやつだったので、狭い四畳半では身動きがとれない。方向が変えられるキャスターを買ってくるつもりだったのだけれど、今までのシーケンサー用の台についてるやつと交換しようかな。
 
 演歌計画がスタートした。来年末をめどに、大阪の飲み屋のママさんにオリジナルを歌わせ、CDにする計画。店の20周年記念イベントの一環としてやることが決まっている。
 
 D-160のほうは、使い慣れてきたらかなりお利口なものであることが分かってきた。
 大枚はたいて購入したFOSTEXのA-DAT互換機が初期不良で、結果よし。

 A-DATは光ケーブルの互換フォーマットとしては定着しつつあるけれど、個人で使うには周辺機器などが高くつきすぎる。卓もデジタル対応でないと無意味だし。それに、S-VHSテープを使うという部分が、どうしても不安。回転系というのはいちばんトラブルが起きるから。
 考えてみれば、ハードディスクレコーダーというのは、ハードディスク以外は機械的に可動部分がまったくない。ただの電子回路だから、かえって安心かもしれない。
 D-160は普通のIDEハードディスクをリムーバブルキットに取り付けてカートリッジのように簡単に入れ替えられる。HDDそのものがテープであるという感覚。
 4GBが3万円台の今、従来の2インチ幅のアナログテープなんかよりはるかに安くつく。
 
 どうやったらいい音で、効率よく録れるのかと毎日悩んでいる。

 ゴンタはメモリを最大(32MB)まで積んだので、まだまだ音源としての余裕がある。エンディング用の30秒近いシンバルロールを2種類入れたりしても(『カムナの調合』エレクトリックバージョンの最後に使ったやつを流用)、まだ空いている。
 ベースやストリングスの音源もみんなゴンタに入れておこうというのが当初のもくろみだったのだけれど、それは無理だということが分かってきて、でも、工夫すればできるんじゃないかとか……いろいろマニュアル眺めながら悩んでるとこ。  ゴンタは構造上ベーシックチャンネルが一つしか使えない。つまり内蔵音源に対してはマルチティンバーができない。これが最大の誤算だった。
 サウンドバンクも128で、同時に使用できるのはドラムパッドに割り当てた64個まで。となると、音階のあるベースや弦を割り当てると、肝心のドラムやパーカッション類が割り当てられなくなる。
 サウンドバンクの128というのも足りなくて、メモリが空いているのにバンクの空きがないから音数がセットできないというのがもったいない。
 一つの音を16段階に(半音ずつ)ずらして再生する機能というのもあるのだけれど、これはパッドからしか入力できないので、ベースなんかは感覚的に打ち込みづらい。リズムと音程を別々に入力していくステップレコーディングが簡単にできればいいんだけれど、……これは無理そう。なにせステップ入力にはほとんど対応していないに近い。休符の入力さえできないみたいなのだ。解説書も、ステップ入力に関してはほんの1/3ページしか使っていないし。
 
 それでも、スタジオに汎用型パソコンを置くのはどうしても抵抗がある。
 なんでマックにしないの? とよく言われるけれど、これはもう、感覚的なものでどうしようもない。
 『アンガジェ』では初めてCUBASE(WINDOWS3.1版)を使った。
 CUBASEはいろいろなことができる凄いソフトなんだろうけれど、CRTを見ながらマウスを動かして音楽を造るというのがどうにも馴染まないのだ。
 多分これは、スタジオの広さの問題も大きい。はんだづけも記譜もする大きな作業机と、ミキシングコンソールと、音源・エフェクター類のラックと、入力用キーボード2台(スプリング鍵盤とピアノ鍵盤)……これらが整然と並べられ、しかも歩き回れるくらいのスペースがないと、息苦しくてパソコンを使う気になれない。それには最低でも8畳は必要。タヌパックスタジオは4畳半しかないのである。ここに、どでかい録音卓(サウンドトラックスPC-MIDI24)やらなんやらが押し込まれているわけで、こんなところでよくCDの原盤を録音するよなー……と、我ながら感心してしまう。
 
 ゴンタは、一度やり方を決めてしまえば威力を発揮するのだろうけれど、それまでが大変。最初にいっぱい悩んでおこう。非効率的なやり方が定着すると、ずっと損をすることになるから。
 
 今までのサンプラー(ローランドS-330)も併用することになる。これは古い型なのでメモリが圧倒的に足りない。弦などの持続音はループさせて無理をしている。ゴンタに入れられる録音スペースがいっぱい空いているのに、少し分けてやりたいもんだ。
 
 プロカッションやプロテウスは使わなくなる一方。
 やっぱ、これからはサンプラー中心主義かなあ。
 AKAIのXE-8というドラム音源、気に入って長い間使っていたのだが、ついに引退。箱にしまった。2000円で売ると言っても、もう誰も買わないだろうな。「あげる」なら、もらう人もいるかもしれないけれど。
 それでもこの音源は好きだった。AKAIのドラムサンプリングは、どれもリアルで好み。癖っぽい音は、エフェクトかければ作れるわけで、そういうのがいっぱい入っている音源は嫌い。プロカッションがまさにそれ。
 お別れの前に、XE-8のシンバルやパーカッションのいくつかをゴンタに移植する。

 プロカッションは売りに出そうと思っていたのだが、売ってもどうせ二束三文だから、シンセサイザーの一種として取っておこうかと思う。ヒップポップやテクノみたいなものをやる場合はいいかもしれない。つまり、ドラム音源というより、音階のついた瞬発系のシンセサイザーという捉え方。シンドラム、シンセベースとして取っておこうかなと。(絶対使わないことは分かっているのだが)。

 あと、ずっと使ってきたFOSTEXのU-110あたりも、現在ではさすがに貧弱に聞こえる。エスニック系はいいけれど、ノーマルな音は安っぽい。
 D-50は今でも好き。これの音源だけのユニットD-550、誰か売ってくれないかなあ。プロカッションとの交換可。
 
 昨日、演歌(もう、曲は一つできている)のカラオケを録音。
 なぜかギターがきれいに入らなかった。なぜだろう。エフェクトがまずいのか、マイク録音の成分が多すぎるのか……KAMUNAみたいに生音を生かす録音と違って、歌もののバックに入り込むギターは、エレクトリック出力の成分を多くしてやったほうが聴きやすいのかもしれない。
 途中、何かの拍子で親指の爪が6弦に引っかかってでかい音がしたところが、ちょうどチョッパーベースみたいに聞こえて、これは幸せだったけど。
 
 ベースは極力本物を使うつもり。そのためにD-160を買ったのだから。
 でも、簡単には人に頼めないので、自分で弾くことも考えている。ちんたらちんたら、4小節とか8小節ずつくらい、パンチインの繰り返しでやればなんとか弾けるんじゃないかと。
 バリバリのフュージョンは無理だけど、演歌のバックくらいなら……?
 ベースを一つ買おうかなあ。
 誰かプロカッションと交換しませんか? 使えるエレキベース求む。ヤマハのエレキギター(スタジオマスター……レスポールのコピーモデル。12万くらいかな)なんかも交換要員。ブランドものじゃなくてもいい。いい音がすれば。
 



BACK HOME NEXT