◆日記 99/10/4





 放射能を避けて、30日夜から避難していました。
 ……というのは大袈裟ですが、実は、30日夜から常磐道経由でいわき方面に遊びに行くつもりだったんです。
 ところが、出発しようとしていたところに、「東海村で放射能事故が起きたらしい」という第一報が飛び込んできました。
 夕方までに分かった情報をもとに判断し、即、いわき行きは中止して、反対側に遊びに行くことにしました。(結局、翌1日は贄川とか奈良井宿とかをのんびり見てきました)
 
 ウラン235の核分裂を急速に行えば原爆(広島型)だし、じわじわ起こしてその熱でお湯を沸かして蒸気発電をすれば原子力発電というわけですが、今回のは、まともな防御壁のない場所でそれをやってしまったということで、今までの「放射能漏れ」事故とはまったく意味が違ってきます。言ってみれば、普通の家の暖炉でウランのたき火をしてしまったということですね。
 長野の旅行中、車の中でずっとニュースを聞いていましたが、ぎょっとするようなことをいっぱい言っていましたね。もしかしてロシアや北朝鮮よりよっぽどひどいんじゃないのかな、原子力の現場。「日本の技術者は優秀だから、ミスはない」という神話は、すでに壊れていたけれど、これで一気に、ほんと、決定的に崩壊です。
 
 人道的に特に許されないのは、消防隊員が放射能事故と知らされず、防護服なしで、現場に急行し、倒れた3人を搬出し、被爆したことでしょう。消防署には防護服が備えてあったそうですから、知らせなかったJCO側はほとんど殺人に等しいようなことをしていることになります。
 
 いろいろ報道されていますが、美浜の事故も前回の東海村の事故も、まったくなんの教訓になっていないところが絶望的です。現場の人間だけでなく、一般人にとっても。
 なぜ、正しい情報を自分の力で得ようとしないのでしょう?

 原子炉というのは、もともとは高純度のウランやプルトニウムを爆弾の原料として入手するために考え出されたもので、戦後はその技術をある程度安価に、かつ持続的に維持するため、原子力発電ということが考え出されたといういきさつがあります。
 たかが発電用のタービンを回す蒸気を得るのに、わざわざ核分裂なんていうことをすることはないわけで、ほとんどは経済(それを扱う独占的な企業の利益)と軍事が理由になっています。
 
 また、今回のように間抜けなことをして事故を起こさなくても、核の廃物を処理できない(地球の生態系システムで分解・循環させ、宇宙に熱として捨てられない)ことは分かり切っているわけで、破綻を先送りしているだけです。
 僕らが生きているうちにその破綻がどれだけ現実化するのかは正確には分かりません。修羅場を迎える前に死ねれば幸せというだけで、破綻するのは分かっているわけです。それこそ「科学的に」ものを考えてみれば。
 核燃料サイクルの夢なんて、まともに実現を信じている科学者などいないのではないでしょうか。研究費欲しさ、あるいは独占的に利益を得ようとする企業のもくろみだけで嘘を並べているだけ。

 現実問題としては、破綻をどれだけ先まで延ばせるかということだと思います。原子力研究に情熱を燃やす学生って減っていますから、現場に優秀な人材が入っていかないことも心配です。できるだけ優秀な人間を原子力の現場に入れて、管理をしっかりやってもらわないと困るわけです。なにしろ廃炉にするのも大変だから、明日からハイやめますというわけにもいかないし、やめた後も放射性廃物の管理は子々孫々までしていかなければならないわけで。

 うちから車で10分くらいの場所に、武蔵工大の研究炉と日立の研究炉があります。どちらもほんとにちっぽけなもので、日立のほうは完全に封鎖されているし、武蔵工大のものも事実上動いていないのですが、武蔵工大の場合、廃炉にして、その後ずっと管理する費用が、大学の年間総予算を上回るので廃炉にしたくてもできない、という話をNHKのドキュメンタリー番組で紹介しているのを見た記憶があります。
 日立の研究炉も閉鎖されていますが、敷地内にある廃棄物を管理するだけで年間億単位の金が使われています。
 そういう話を聞くとほんとにくらーくなってしまいますが、とにかく、核施設というのは、閉鎖した後もずっと管理し続けるしかないわけです。

 また、今までは発電所や再処理工場にばかり目が向けられ、今回のような民間施設は意外と見落とされがちでしたが、核を扱う施設ならどこでも危険は抱えているのです。例えば横須賀にも核燃料関連の施設はあります。
 
 原子力発電所の建設に携わっていた人の話では、すでに建設している段階からして危ないんだそうです。作業員の質が落ちてきていて(農家の出稼ぎみたいな人が増えているらしい)、予想外のことをしてしまうらしいんですね。
 例えば配管用のパイプが1本10メートルだったとします。8メートルのパイプをくっつける場所では2メートル余るわけです。そういう余りが何本か出てくると、捨てるのはもったいないと言って、4メートルのパイプを使うところで、2メートルの余りパイプを2本つないじゃおうとする。すると、余計な継ぎ目ができるから、安全上は非常によろしくない。設計図では4メートルストレートなパイプを使うことになっているのに、出来上がってみるとつぎはぎだらけだったりする。
 現場では「そういう次元」のことが頻繁にあるらしいです。
 ほんとにそんなにひどいのか? 誇張があるんじゃないのか? とも思っていたんですが、今回の事故のあまりのお粗末ぶりに、ああ、やっぱりそういうレベルなんだ……と、実感できました。
 
 また、例えば、「真面目に働いても認めてもらえない」という不満を持った作業員がいて、切れてしまったら……? 包丁振り回したり、駅にクルマで突っ込むのとは訳が違います。池袋事件の青年も、前日までは真面目に、何一つ変わったこともなく新聞を配達していたそうですしね。


 その後、いくつかの情報が入ってきて、それらを整理してみるに、今回の事故の性格は放射能漏れ事故というよりは、「放射線漏れ事故」に近く、結果的には、周辺環境の汚染は意外と少ないのかもしれません。もちろん、施設内には相当量の放射性物質が放置されているはずで、しばらくは調査すらできないでしょう。
 
 しかし、何よりも衝撃的なのは、原子力を批判する人たちでさえ考えてもみなかったような現場のずさんさが明らかになったことでしょう。

 事故原因がいろいろ言われていますが、本質は、


 低濃縮のウラン溶液と高濃縮のウラン溶液の処理が同じ施設の同じ沈澱槽(毎日新聞の報道)で行われていたということ。しかも、なんのフェールセーフも施されていなかったらしいこと。

 ──につきるようです。

 核分裂性のウラン235を5%以下しか含まない低濃縮ウラン(一般軽水炉用)と19%程度含む高濃縮ウラン(今回のは高速炉の実験炉「常陽」用)はまったく別の性格を持っています。
 低濃縮ウランは、普通の状態であれば、どれだけ集積しようと「臨界」には達せず、連続的なウランの核分裂反応は起こらないとか。
 しかし、ウラン235の割合が10%を越えると、連鎖反応は停止しにくくなり、ある程度以上の量の高濃縮ウランが集まると、自然に連鎖反応が継続するようになる。この「ある程度以上の量」が臨界量であり、連鎖反応が継続している状態が「臨界に達している」状態です。

 つまり通常状態では臨界になりえない5%以下の低濃縮ウランと、臨界に達しうる10%以上の高濃縮ウランを、同じ施設、しかも同じ設備で扱っているということ自体が、世界の原子力専門家をして「信じられない!」と絶句させた点です。
 当然、高濃縮ウランを扱う場合には、どのような扱いをしても絶対に臨界量が集合しない工夫(フェイルセーフ、フールプルーフ)がなされていなければならないわけなのに、それがほとんどないばかりか、裏マニュアルまで作ってインチキをしていたJCOという会社はなんなんでしょう。

 また、常陽のための高濃度ウラン燃料がまだ作られていたということも驚きでした。
 もんじゅ事故以降、常陽などはとっくにお払い箱と思っていたものですから。

 常陽は大洗にある高速増殖炉実験炉で、発電はしていません。「燃える」ことを確認するためだけのもので、事故原因になりやすいナトリウムによる熱交換の仕組みを持っていません。科学技術庁にサイトには、
 
 我が国においては、実験炉「常陽」が、動燃により茨城県大洗町に建設され、昭和52年に初臨界を達成し、実験炉としての当初の目的である、高速増殖炉として安全かつ安定的に運転をすることが実証されました。「常陽」は、昭和57年に高速中性子炉としての特徴をいかした照射用炉心に改造され、燃料・材料の照射データを蓄積しながら、現在まで順調に運転されています。
 

 という説明がありますが、今は具体的に何を目的に運転されているのか……?
 本来ならプルトニウムを燃やす炉のはずですが、今回の事故で、臨界に達した燃料が常陽のためのものだったということは、高濃度ウランを使った燃料を使っていたということになりますよね。なんか不気味です。

 そうまでして常陽やもんじゅにこだわり、プルトニウムの再処理をしたがる裏には、やはり高純度プルトニウム(もちろん核兵器用)を自前で作りたいという意図が隠されているのではないでしょうか。
 それだけではないとは思うんですが、とにかく、一旦ぶちあげてしまった再処理政策が破綻したにもかかわらず、国外に再処理を委託した結果出てくるプルトニウムはどんどん日本に戻ってきてしまうし、やっかいなプルトニウムを燃やしてしまいたいという思惑が空回りして、どんどんドツボにはまっていく感じですね。

 プルトニウムの再利用というのは、日本を除く先進国のすべてが諦めてしまったものです。怖くて、とてもじゃないけどやれないと。
 
 電気は天然ガスや石炭で発電すればいいんです。炭酸ガスと放射性廃棄物との環境負荷を比較していること自体が馬鹿げています。地球温暖化の原因は炭酸ガスだけではないし、温暖化してどのくらいまずいことが起きるのかということも未知数です。いいことだってあるはずですから。
 
 原子力に費やしている金を、天然ガスのパイプライン建設やメタンハイドレートの開発研究にあてれば、大きな国力に結びつくと思うけれどな。バスケットやプロ野球の元選手は何も知らないでPRしているんでしょうが、某早稲田の教授はすべて知っているはず。で、そのギャラも電気料金に入っているのかと思うと、腹が立ちます。


 最後に、今後、大規模放射能漏れ事故が起きたときはどうするか。
 一刻も早く、風上に逃げる──これしかないらしいです。ただ、そう言ってしまったらパニックになりますから、絶対に報道では言いません。家の中から出ないでくださいと言うだけです。
 今回、風向きの情報がほとんど報じられていませんでした。いちばん欲しいのはその情報だったんですが、後から分かったところ、東京に向かって吹いていたようです。

 半径10キロとかなんとか言ってましたが、もし核爆発が起きて放射能がばらまかれたとしたら、風下の10キロと風上の10キロでは全然違います。また、無風状態ではまた違ってくるし、爆発が起きて放射能が上空に飛び散ったかどうかでも違ってきます。
 
 自衛隊が出動しても、放射能を止めることなどもちろんできません。できるのはパニックに陥った市民が暴徒と化すのを鎮圧することです。島国である日本国内に戦車があって意味をなすのは、こういう場合しか考えられません。

 まあ、どう対処したところで、ダメなときはダメですね。

 ちなみに、原子力関連は一時期結構本を読みましたが、それが仕事に役立つということはまったくなくて、逆にマイナスに働くばかりでした。ちょっと口にするだけで「危険思想の持ち主」と見られてしまうんですね。(それでも広瀬隆くらい売れてしまえば、これまた経済的な理由で仕事にはなるわけですけど)
 
 でも、ようやく時代が少し動いてきたかな。

 原子力と人間の関係について書いた小説『マリアの父親』は、今ではほとんど入手不能です。文庫化もされませんでした。あれを書いたときの気持ちに戻れるのかどうか……。あ、これは僕自身の心の問題です。
 
 (99/10/4)
 

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