日記 2004/11/06

タヌパック越後の最後 4

(承前)
つぶしてしまうのは惜しいものは何か。
買って3年目の大型冷蔵庫。しかしこれは大人の背丈以上ある。運び出せるのか? 台所はいちばん危険な場所だけに、振動を与えて上からどずんなんてことになれば死んでしまう。
風呂場には去年買ってまだ何回も入っていないバスタブ。注文生産の製品。
どちらも10万円程度のものだが、この家での生活を快適にするために無理をして買ったものだけに、このまま雪に埋もれさせるのは惜しい。なんとか救出したい。
風呂場はいちばんダメージを受けている場所だった。柱が完全に折れている。
脱衣場横の窓は大きく平行四辺形に変形しているし、壁は丸ごと落ちていて、乗り越えないと中に入れない。
バスタブそのものはFRPなので軽い。必死の思いで、割れた窓から外に放り投げて救出。
洗濯機は先代住民の寅さん一家が使っていたものをそのまま残していったので、それを使い続けていた。二層式で、よくスイッチが馬鹿になり、排水貯水の切り替えができなくなった。何度も修理しながら使い続けてきたが、これでお別れ。何十年ものあいだ、ごくろうさん。
冷蔵庫救出大作戦
本日最大のハイライト。大型冷蔵庫救出大作戦。
とても持ち上げられないから、2個ついているキャスターをつかって引っ張るしかない。
割れたガラスが氾濫する家の中を通すのも至難の業だったが、外に持ち出してからも大変だった。板を渡してレールを作り、少しずつ移動させた。

これが終わる頃にはもう日が傾いていた。あとはコンピュータなどが置いてある二階からどれだけのものを持ち出せるか。
階段
↑階段は一見なんとか登れそうに見える
踊り場は40cmほど陥没していた
↑しかし、踊り場が陥没。
階段は壁が崩れていて足の踏み場がなかった。壁土をどけてなんとかはい上がれるようにする。
ところが、一番上まで行くと、踊り場がない。ないというか、40cmくらい落ち込んでいて、階段の最上段より下になっている。しかも床板が今にも抜けそうだ。この踊り場を踏まないようにして、二階の廊下になんとか足を伸ばして移る。
ロフト
↑いちばんまともに残っていたロフト
ロフトはかつては蚕部屋で、荒れ放題になっていたのを自分で全部手直しし、寝室に改造した。
壁はもちろん、畳敷きだった床をフローリングにした。床を張るという経験は、後にも先にもこの部屋だけ。波打っていた土台のわりにはきれいに床板を張れて、人が来るたびに自慢していたのだが、皮肉なことに、この部屋はいちばん被害が少ないように見える。壁も床もきれいなものだ。
しかし、このベッド2台は見捨てるしかなかった。ばらして運び出す時間などとてもない。
仕事部屋はまるごと見捨てる
↑僕の仕事部屋。この机もFAXも2台のプリンターも見捨てるしかない

↑廊下を挟んで隣の別の仕事部屋。パソコンもCRTもこのまま見捨てていく
2つある仕事部屋は、損傷は少ないが、階段があの状態なので大きなものはとうてい運び出せない。
衣服や布団などは窓から全部放り投げた。布団を下に置いて、そこにいろいろなものを投下する。衣装ケースがいくつか落下の際に衝撃で壊れたが、そんなことかまっていられない。
パソコン1台、スキャナ&コピー&プリンターの複合機(この夏に購入したばかり)の1台だけを運び出し、後の機材はすべて見捨てた。
ゴロの寝床である「ねこつぐら」だけは軽いし、想い出が深いので窓から放り投げて外に出した。
窓から外を見ると、一見いつもと同じ、のんびりした山里の風景がある。
よく見ると、電柱が倒れていたり、畑が崩れていたりしているが、静かないい日和だ。
もうこの風景を見ることもなくなるのかと思うと、残念でならない。
しかし、毎日聞こえていた鳥の声が聞こえない。生物の気配がない。虫さえ飛んでいない。
生き物たちもこの土地を見捨てたのだろうか。
2階から外を見る
まあ、感傷に浸っている暇はない。日没前に片を付けて集落を抜け出さないと、閉じこめられてしまう。
シンデレラモードで片づけを続けようとしたところ、ぐらっときた。
全身から血の気が引いた。ここで崩れ落ちたら無事で済むはずがない。二階にいたから恐怖はそれほどではなかったが、台所や風呂場などにいたら、この何倍もの恐怖に襲われたことだろう。
(後から調べたところ、このときの余震は震度3程度のものだったらしい。その後も震度4以上の余震が続いているようなので、これでは被災者の神経がとてももたないとつくづく思った。)
避難所の中
最後はほとんどやけになりながら持ちだしたものを片づけ、日没ぎりぎりで集落を抜け出した。
まがりなりにも建っている我が家を見るのはこれが最後だろう。雪が降れば完全に押しつぶされ、雪解けの後には瓦礫の山が残っているだけ。この地で本当に再スタートが切れるのだろうか。
家を建て直す金などもちろんないし、それ以前にこの集落そのものが消滅する運命だ。重い気持ちを抱えたまま、お向かいの一家が避難している避難所に寄った。
村の中心部にある小学校の教室に、集落全戸が避難していた。他の集落や本村(ほんそん)の被災者などがみんな集まってきている。
ちょうど夕食を始めたところだったようで、タイミングが悪かったが、仲のいい向かいの家のおばあさんの元気そうな顔もようやく見ることができて一安心。しかし、校舎の冷たく固い床は数分いるだけで足の裏からどんどん冷気を身体の中に送り込んでくる。ここでもう2週間も寝泊まりしているのだから、気力・体力ともにもう限界だろう。
お向かいの一家は仮設住宅の申し込みをしたという。そこから先はまったく見えない。集落ごと消滅するのはほとんど間違いなさそうだ。
家がなくなっても、村がなくなっても、またきっと会いましょうねと誓い合って、避難所を後にした。
もう一か所、タヌパック越後を十数年前に売ってくれた寅さんを小千谷市に訪ねた。
寅さんの家は我が家を売ったときに新築した立派なものだが、建物は無事だったものの、土台が傾いてしまった。
建物全体を持ち上げて土台を作り直すという特殊工法の可能性を今探っているところらしいが、一体いくらかかるのか、本当に可能なのか分からないらしい。
「あの家は私たちにとっても思いで深い家でしたから。それをたくきさんが買ってくださって、壊しもせず、自分でこつこつ直して住んでくださって、嬉しかったですよ。それなのにねえ……申し訳なくて……」
奥さんが声を詰まらせた。申し訳ないもなにも、天災なのだから。むしろ、避難所に入ることもなく、外から見ていた僕たちのほうが申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
寅さんにも、再会と再出発を誓って別れた。
「すぐには無理ですけど、チャンスがあればまた越後に住み着くために、ゼロからやり直しますよ。そのときはまた一緒に土壌浄化層作ってくださいね」
「もちろんもちろん」

土佐屋の背脂味噌ラーメン もうすぐ雪が降り、あの集落が埋もれる。
春が来ると、雪の下から崩壊した家々が姿を現す。3年後、5年後、10年後、タヌパック越後が「あった」土地はどうなっていることだろうか。
大渋滞の国道17号線を東京方面に向かいながら、思いを巡らす。
今日は朝から何も食べていなかった。隣町の堀之内にある超有名な人気ラーメン店・土佐屋で、背脂味噌ラーメンを食べる。うまい。
しかし、こんなに空いている土佐屋に入ったのは初めてだ。空席があるのは珍しいほどの人気店なのに。
地域全体の経済力が一瞬にして冷え込んでいることを実感する。
張りつめていた神経と、背脂のもたれで胃が痛くなりながら、関越道を南下した。
さらば、タヌパック越後。悔しいけれど、今はひとまずお別れ。

一つ前の日記へ一つ前の日記へ    HOME     次の日記へ次へ

タヌパック音楽館は、こちら
タヌパックブックス

ただ今の新潟の気温→    これを読まずに死ねるか? 小説、電脳、その他もろもろ。鐸木能光の本の紹介・ご購入はこちら  

今日の放哉