たくき よしみつ の デジタルストレスキング デジタルストレス王

2002年10月4日執筆  2002年10月8日掲載

「まぜがき」問題を考える

文章を書く仕事をしているので、最低限度、言葉や文字の問題は考えざるをえない。
一時期広まっていた「UNICODEは日本語を滅ぼす」論については、機会あるごとに、その論に見られる誤解や認識不足を指摘してきた。このコラムの連載初期で書いた『山一女(やまいちおんな)の孤独』も、そのひとつだ。
筒井康隆氏の断筆宣言のときは、いわゆる「言葉刈り」問題に触発され『目の不自由なヘビ』という短編を書いた。出版はされていないが、現在、文藝ネット(http://bungei.net)に掲載してある。

言葉の問題は、とにかく神経を遣う。不用意なことを書けば、たちまちいろいろな団体などから抗議が来る(実際には一度も受けたことはないが)。
差別語とはなんなのか。本当にその言葉は差別的な思想から生まれたものなのか。だとしても、文脈の中でそれを使わざるをえない場合まで墨消しするような「言葉刈り」は、ただの暴力ではないか。
そうしたことを考えながらも、基本的には、だんだん、漢字か仮名かで迷ったときは仮名を使うことが多くなってきたし、危なそうな(?)言葉を無理に使うこともしなくなる。緩やかな自己規制かもしれない。

例えば、前回のコラムを読み直していて、「チョンボ」という言葉を使っていることに気づいた。
これって、「差別用語」を使うとは何事か! というクレームが来たりしないだろうな、と思い当たり、語源をいろいろ調べてみた。
結果、もともとが麻雀用語(つまり中国語)であり、なんの差別的思想はないと分かった。漢字では「錯和」あるいは「沖和」と書くそうだ

で、これを調べているうちに、言葉刈り同様に大きな問題ではないかと思われる事柄にぶつかった。
「まぜがき」問題だ。

まぜがきというのは、漢字だけで書ける単語の中の一部分を仮名で書くことをいう。例えば、「児童」を「児どう」、「原稿料」を「原こうりょう」と書くのがまぜがきだ。
これに関しては、以前から気持ち悪いからやめてほしいと思っていたが、とりたてて論陣を張るようなことはしなかった。世の中にはこうした馬鹿げたことがたくさんあり、いちいち目くじらを立てていたらストレスで胃に穴が空いてしまう。それに、どうせなら、ユーモア小説に仕立てるなど、スマートなやり方を取りたい。

しかし、「矢玉四郎はれぶたのぶたごや」というサイトを訪問し、問題の深刻さを改めて認識させられた。
まぜがき問題の中でも「子ども表記」問題というのがあるようで、矢玉さんはこの件についてだけでも相当な量の文章を書いている。
「子ども表記」問題というのは、ざっと解説するとこういうことだ。


  1. 子供の「供」は、お供の供に通じる。これでは子供がまるで親の付属品のようだからよくない。「子ども」にしよう……と言った人がいるらしくて、いつからか教育や出版・報道の現場で「子供」という普通の漢字表記を追放するような動きが広がっていった。

  2. しかし、「こども」という言葉の「ども」は、「男ども」というような場合の、複数を表す「ども」の意はもはやなく、「こども」でひとつの言葉である。つまり、「子」+「供」ではない。「ともだち」の「だち」が複数を意味するのではないのと同じだ。したがって、無理に「子ども」と表記するなら、それは「がきども」という意味になる。

  3. 「子ども」に限らず、まぜがきをするのは馬鹿げている。これは日本語教育の崩壊をもたらす。


矢玉さんの発言がじわじわと浸透したからか、ネットで「子ども表記問題」を検索すると、ほとんどは「子ども」と表記しましょうという意見ではなく、「子ども」と表記するのは愚かなことだ、という主張の文章にぶつかる。
中には、「○○は××の原稿で『子ども』と書いていた。文学者なのに馬鹿じゃないのか」というような文章もいくつか見られた。
しかし、雑誌に掲載されている文章などは、編集者が編集部指定の用字用語集に合わせて、筆者の原稿に使われている文字を勝手に変更していることがよくある。「子ども」という表記に単純に噛みつくという態度もまた、あまりにエキセントリックで感心しない。
「子ども」という表記を目にするたびに腹を立てて文句を言っていたら、大変なストレスになる。僕自身は、気持ち悪いな、とは感じるが、無視して先に進む。

問題は、「こうしなければならない」と押しつける態度だろう。間違った知識に基づく人権精神で、「子供」を「子ども」と書かなければならないと圧力をかけるなどというのは論外だが、圧力をかけられると黙ってそれに従ってしまう「事なかれ主義」や、「決められているからそうする」というお役所仕事的根性も問題だ。
「子ども表記問題」に矮小化させるのではなく、まぜがきをやめるという根本的な思想が重要だろう。

小学校では、「子」は1年生で、「供」は6年生で習うことになっている。したがって、1年生で「子」という漢字を習ってから、6年生で「供」を習うまでの間は、「こども」は「子ども」と書かなければならない。
……こんな馬鹿なことがまかり通っているから、日本人はどんどん馬鹿になり、子供は学校を信用しなくなる。

僕は英語の学習書編集の仕事で、同じ問題に長年苛立ってきた。このコラムでも書いたことがあるが、教科書準拠の問題集や学習書など使っていては、いつまで経っても英語など身につくはずがない。
こうした問題集や学習書の多くは、「教科書にappleは出てくるがorangeは出てこないから、orangeという単語を使った例文は作ってはいけない」などという馬鹿げた足枷をかけて編集されている。教科書準拠の問題集に、教科書に出てこない単語がまじっていると、購入した生徒や母親(!)から、苦情の電話がかかってくるというのだ。

何を覚え、何を覚えない(あるいは忘れてしまう)かは、個人の自由だ。
「試験に出る英単語」的な、単語と意味を羅列しただけのような本が受験生の間ではベストセラーになっているが、僕はあの手のものをハナから馬鹿にしていた。まず、「試験に出る」から、その単語を覚えなければならないという発想が馬鹿げている。百歩譲って、「試験に出る可能性が高い」から覚えるという動機づけが、受験生にとっては仕方のないものだとしても、試験に出るかどうかは自分が判断すればよいことだ。
問題集をはじめ、いろいろな英文を読む中で、何度も目にする単語は、当然覚えたほうがいい単語であるはずだ。文章の中に出てくるからこそ、単語の意味や用法も覚えられる。

漢字まぜがき問題は、これと同じ根を持っている。
歴史に興味がある子は、歴代の天皇や元号に使われている漢字を全部書けなければ嫌だと思うかもしれない。一方で、漢字を知っていても、ある言葉については敢えて仮名で書きたいと思うかもしれない。
僕は「すべて」という言葉を、何年か前までは「全て」と漢字で書いていた。あるときから、仮名のほうが読みやすい気がして、「すべて」に改めた。しかし、某雑誌の連載コラムでは、編集部が、僕の原稿の中にある「すべて」のすべてを「全て」に直してしまう。その編集部が使っている用字用語集(記者ハンドブック)が「全て」と表記することにしているからだという。
こうしたことは、極力、押しつけられたくない。

「子」は1年生で習う。「供」は6年生で習う。したがって、1年生で「子」という漢字を習ったら、「こども」の「こ」は漢字で書かなければならない。しかし、「ども」は未習なのだから、「こども」の「ども」を漢字で書いてはいけない
書き取りテストで、「こども」を「子供」と書いたら、「習っていない漢字を使った」という理由で×にされてしまう。みんなと違うことをしてはいけない。教育は生徒全員に対して「平等」でなければいけないから。
……もしも小学校の現場でこうした馬鹿げたことが実行されているとしたら、それは教育ではなく、子供の知的発育や学習の権利を阻害する一種の暴力だ。

そもそも義務教育とは、最低限度この程度の教育は受けておかなければならないというガイドラインのはずだ。この漢字は1年生で知っているべきだが、この漢字は1年生は使ってはいけないなどということがあっていいわけがない。
子供にとっては、接することの多い言葉、文字、表現は、すべて学ぶべき事柄であり、それをいつ、どのように覚えようが自由だ。学校という教育の現場で、それを阻害するようなことをなぜするのか。

文部省指導要領については、別の機会にきちんと書きたいが、ともかく、「○○を使ってはいけない」という指導は即刻やめるべきだ。小学校1年生の教科書に、3年生や6年生で教える漢字が出てきてもかまわないではないか。「○年生で教える」ではなく「○年生までには少なくとも教えておきたい」というガイドラインにすべきだ。

教科書には、どんどん漢字を使えばいい。「○年生までに教える漢字」ガイドラインから外れているなら、ルビを振っておけばいいだけのことだ。
「子供」などという基本的な単語については、漢字1字1字に分解して教えるのではなく、単語というワンセットで教えるのがあたりまえではないか。「子供」という漢字で書いたのなら、初回だけルビを振っておき、後は知らん顔していればいい。
しかし、そうした教科書があった場合、文部省は検定でそれを排除してしまう。その結果、馬鹿げたまぜがき表記が増える。これこそが問題だ。

「まぜがき」はほとんどの場合、読みにくく、何のメリットもない。まぜがきをする精神は不条理であり、美しくない。それを押しつけられる子供は、美しくないものに対して平気になる。感性を磨いたり、理論でものを考えることをせず、与えられた既成のルールに惰性で従うだけの生き方を身につけてしまう。
こうした風潮を、親ではなく、公的教育機関が助長している。

公的教育がどれだけ怖ろしい力を持っているかは、戦前の日本や今の北朝鮮を見れば分かる。
間違ったことを押しつける教育はいちばん怖いが、判断する力を阻害するような教育もまた、怖ろしいことだ。
八王子神社のミニ狛犬群

■写真 子供が作った陶製狛犬
八王子神社(岐阜県瑞浪市陶町大川)
この神社参道にはこうしたミニ狛犬が数多く奉納されていたが、2000年8月12日の夜中、通りがかりの男により、ほとんど破壊された。 これは、壊される前に撮影したもの。

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