星を求める蛾の願い
朝を求める夜の願い
人の世の哀しみの地表から捧げる
遠く遥かなるものへの祈り(P.B.Shelly, "To--")
この世はすべてが二重構造になっている。表と裏、見えるものと見えないもの。正と負。
人間は二重構造の一方の側に住んでいる。仮にこの世界を「表」とするなら、「表」の住民である人間には、裏の世界はなかなか見えてこない。片方だけしか見えないから、人は心の中に、どうしても満たされぬ何かを感じる。
十八世紀の詩人シェリーは、その穴を埋める光を求めて夜空を見上げた。しかし、夜空とて、「見える世界」の延長上に存在している現実にすぎない。闇を埋めるものは星の光ではない。闇から生ずる空虚感・飢餓感を埋める光は、闇の中にある。「裏」の世界、見えない世界、闇の世界にこそ、求める光がある。それに気づいたとき、人はようやく視線を天から地へと移す。そしてようやく、自分の心の奥の世界へと戻ってくる。
……光?
もちろんそれは喩えだ。必ずしも明るく輝いているということではない。
その光は、実は闇よりも濃い黒衣をまとい、井戸の中の水蒸気のようにひっそりと身を潜めているのかもしれない。
目を閉じれば闇が訪れる。でも、それは仮想の闇だ。真の闇の世界が訪れるということではない。目を閉じただけで闇の世界に踏み込めるのなら、人は毎日のように闇の世界に散歩に出ることができるだろうが。結局、真の闇の世界へ通じる入口は、簡単には見つけられない。
心の中には、いくつもの井戸がある。何かの拍子に人は自分の心の中に暗い井戸の入口を見つけ、自然と中を覗き込む。
浅い井戸の底に見えている水面は、かすかに光を反射している。
少し工夫すれば、水面をかき回すこともできるし、水を汲むこともできる。でも、手に入れた瞬間、それは求めていた光ではなくなってしまうに違いない。時折、底が見えない深い井戸に出くわすことがある。暗く静かな井戸は、覗いても、その闇の先に求める水があるのかどうかは分からない。
私:「もっと臭くしましょう。「心の闇を照らす歌」の前に、「真の愛を求める旅人の」と入れたらどうでしょう?」
カバーは私の主張通り、クリスマスカラーでシンプルに行くことが決定。パッケージングは理想的だ。あとは中身だけ……ん?
ところで、総ページ数の関係で、削った部分がある。今読むと、これは削って大正解という感じなのだが、ちなみにこんな文章である。
∠¶∈
二日間、雨が降り続いていた。まだ八月の終わりだから、秋霖{しゅうりん}というやつには早すぎる。それに、雨が降っていても気温があまり下がらない。
読売ランド駅のそばには、「ヘルスよしの」という店がある。最初に見たときには風俗営業の店かと思ったが、ただの銭湯だった。
「よしの」という名前に、俺は特殊な思い入れがある。
昔、『桂小金次アフタヌーンショウ』というお昼の番組で、週に一度、浪越徳次郎の指圧教室というのをやっていた。そのアシスタント役の女性が「吉野さん」という名前で、真っ白な肌が眩しかった。俺はまだ小学生だったが、もしかして、俺の初恋はあの「吉野さん」への幼く密かな性欲だったのではないかと思うことがある。
いつも黙って、皺だらけの好色そうな老人に身体中を触られていたあの「吉野さん」とはどんな女性だったのだろう。どういうきっかけで指圧のモデルという職業に就いたのだろう。番組以外でも、彼女は浪越氏と何らかの関係があるのだろうか。
レースクイーンだとか、AV女優出身などという女性タレントが画面を意味もなく埋めている昨今、吉野さんのような女性「モデル」をテレビで目にすることはなくなってしまった。
「ヘルスよしの」という看板を見る度に、俺は吉野さんのことを思い出す。どんな顔だったのか、今ではほとんど映像を脳裡に結べないのだが。
今時風呂のないアパートに住んでいる俺は、三日に一度くらいその銭湯の世話になる。
雨の日は銭湯に行く気がしない。せっかくさっぱりしても、部屋に戻るまでに、またじわっと身体中に世の中の汚れが吸着したような気分になる。
もうすぐ銭湯の営業時間が終わる。どうしたものか。トタンの庇を叩く雨音を聴きながらスケール練習をしていたとき、電話が鳴った。