2005年10月14日執筆 2005年10月18日掲載
教科書で英語を学べない国
本棚の整理をしていたら、大昔に書いたメモのようなものが出てきた。冒頭には「中学英語学習書が陥りやすいミス」と書いてある。
A4で4ページ分。20代後半から結構長い期間、教科書準拠の英語学習書の編集整理のような仕事をしていた。あまりにひどい内容に我慢ができず、しょっちゅう編集者と喧嘩していた。これは、そのときにどうにも我慢ができなくなり、編集長宛に書いた直訴状である。
「ミスの傾向」「ミスの具体例」「間違いを減らすには」という3つのセクションから成り立っている。
懐かしさと虚しさが混じる気持ちで、読み返してみた。
最初の「ミスの傾向」というセクションでは、こんなことが書いてある。
執筆者が「教科書準拠」にこだわりすぎるため、教科書に載っていない表現はすべて誤りである、という書き方をしがちである。
特に、適語補充、適語選択形式の問題では、別解がないかどうか十分検討しなければならない。例えば、
His master was a professer (at, in, of) Tokyo University.
というような問題。NEW EVERYDAY ENGLISH 3 に出てくる文だが、教科書では at となっている。しかし、これを of としても別に問題はない。こうした問題を作ってはいけない。
同様に、
When do you take him to walk?
I usually take him (at five, before dinner, every day).
という問題もおかしい。at five では間違いだといいたいらしいが、几帳面な人ならそういう答えはいくらでもありえる。
これも教科書に載っている英文を単純にいじっただけの問題だが、教科書の文以外は全部×にしてしまえばいい、という安直な姿勢から生まれている。
(註:ちなみにこの him は犬だったと思う)
……とまあ、こんな調子で僕は憤っていたわけだ。
金(生活)のためとはいえ、あの仕事をしていた何年間かは、大変な時間とエネルギーの無駄遣いだった。
もう少し見てみよう。続くセクション「ミスの具体例」では、こんなのがある。
◆some と any の説明のウソ
「someは肯定文で使い、anyは否定文、疑問文で使う」と教えているが、本当か?
例えば、学校の帰り道、腹が減ったので立ち食いそばを食べようとしたが、財布を忘れてきたことに気づく。一緒にいたクラスメートに「ちょっとお金もってない?」と訊く場合、
Do you have some money?
と訊くことは大いにありえる。むしろ、こうしたときに、
Do you have any money?
と訊くほうが不自然ではないか。
Do you have (some, any) money?
という適語選択問題は作るべきではない。
◆this と that は it で受ける、という説明のウソ
What is this?
(It, This, That) is a pen.
というような問題をよく見るが、問いかけている人間と答える人間の位置関係によっては(例えば二人が並んで座っていて、目の前のへんてこな形のものを一緒に見ているときなど)、This is a pen. と答えることはいくらでもありえる。
◆現在完了の説明におけるウソ
He has been to Kyoto. は「行ったことがある」(経験)で、
He has gone to Kyoto. は「行ってしまった」(完了、結果)である、という説明も、絶対そうだとは言いきれないのではないか。
アメリカ人は平気で「行ったことがある」(経験)の意味で gone を使うという話を聞いたことがある。
こんな説明に時間を使っているくらいなら、もっと他に覚えるべきことがたくさんあるだろう。
◆SVOC構文のウソ
My parents made me a doctor.(両親が私を医者にした。)
という英語は、多くの欧米人が「どういう意味?」と首をかしげる。しかし、英語の教科書には、make を使ったSVOC構文としては、むしろこうした文章しか載っていない。
中学では補語に名詞以外が来るSVOCの文は習わないことになっているから、こうした無理な例文が出てくるらしい。
makeを使ったSVOCであれば、
They made me go.
They made me happy.
といった、補語に動詞の原形や形容詞がくる文のほうが圧倒的に多いのに、なぜか中学ではこうした文章を「勉強してはいけない」ことになっている(学習指導要領にないから)。
挙げ句の果てに、They made me a doctor. などという意味不明の文章を丸暗記させ、テストに出して点数をつけている。
……とまあ、若きたくき氏の怒りは延々と続いている。
これは20年くらい前の話なのだが、今はどうなっているのだろう。
とにかく、学習指導要領に沿った教科書を使って、そこから少しでもはみださないように授業をしている限り、英語が身につくはずがない。
ただ、こうしたことを書くと必ず出てくるのが「生きた英語を学ぶことが大切」「文法にこだわるのではなく、話せる英語を」といった意見。
僕はそういうことを言っているのではない。
むしろ逆で、日常生活の中に英語の環境がまったくない一般的日本人が、中学生から英語を学ぶとしたら、文法をきちんとやるしかないではないか、という意見である。
1日中英語漬けになる環境に放り込まれれば(1年以上海外留学するとか)、文法など二の次で、身体と耳が反応するかもしれない。しかし、たかだか週に数時間の授業で語学の direct method なんて無理に決まっている。教えられる教師の数も圧倒的に足りない。
今の日本の教育現場で、英語を少しでもまともに教えようと思ったら、英語を数学のように論理的に教えることだ。つまり、文法をやるしかない。文法を教えないで「生きた英語」だの「聞く、話す能力」だのと言っても、無理である。
ルールも知らないで、やみくもに見よう見まねで身体を動かしていてもスポーツはできない、というのと同じことである。
日本人の教師が、週に数時間という限られた時間で、12歳以上になってしまっている(つまり、聴力の発達が終わっている)人間を相手に、ゼロから、母国語とはまったく似ても似つかない外国語を教えようというのである。「生きた英語」などという幻想はさっさと捨てて、効率のいい勉強法を研究することが必要だ。これだけの年月が経っていながら、それが確立されていないことが信じがたい。
古いタイプの教師、あるいは分かったふりをする親たちは、子供にこう言う。
「とにかく教科書を徹底的にやれ。丸暗記しろ」
それをやれば、確かに学校の定期試験では満点が取れる。教科書の中に出てくる文章しか出題されないのだから。しかし、そんなことをしていたら、「英語ができる人」からはどんどん遠ざかっていくだろう。
教科書で英語を学べない国に育つ子供たちは、本当に気の毒である。
●稲刈りが始まった
(2005年10月7日 阿武隈にて)
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