このコラムも今回を含めてあと2回。最後は軽い、楽しいことを書いて、ソフトランディングしたいと思っているところに、無視できない、とんでもないニュースが飛び込んできた。
1999年6月18日未明、石川県志賀町にある北陸電力志賀(しか)原子力発電所1号機で、定期検査中の原子炉から出力制御棒3本が抜け落ち、臨界状態に入るという事故が起きていた。一歩間違えば日本国中阿鼻叫喚となったかもしれないこの事故が、現場の一存で今まで隠し通されてきた、というのである。
最初耳にしたときには、にわかには信じがたかった。
さらに信じられないのは、このことをメディアがあまりにも小さく報道していたことだ。
第一報は2007年3月15日昼すぎに流れたと思うが、15日夜のニュースでも、それほど大きな扱いはされず、翌日にはほとんど取り上げられなかった。
ホリエモンに実刑判決とか、ハンカチ王子が卒業式で第二ボタンの行方は、などというニュースの後で、短く、関連追加情報が流れただけなのである。
日本人はここまでぼけてしまったのかと、愕然とさせられた。
8年前、能登半島の一角で、一体、何があったのか?
<まずは基礎知識を復習>
原発関連記事は読み解くのが難しい。忘備録という意味も込めて、まずは日本の原発の基礎構造について復習しておきたい。
原発は、核分裂エネルギーで得られた熱で水を沸騰させ、その蒸気の圧力で発電タービンを回すという、「蒸気発電」の一種である。
日本の原発はすべて軽水炉と呼ばれるタイプで、減速材・冷却剤として軽水(普通の水)を使っている。軽水炉はさらに、沸騰水型(BWR)と加圧水型(PWR)の2つに大別される。
沸騰水型は、沸騰させた水から直接、タービンを回す高圧蒸気を取り出す。
弱点は、沸騰させた水が放射能を帯びているため、タービン発電機の建屋(たてや)なども含めた発電システム全体が放射能に汚染されることである。放射能を帯びた蒸気を回収することはもちろん、システム全体を厳重に封印する必要がある。
また、制御棒を原子炉に対して下から上に挿入する構造のため、制御棒のコントロールが不能になると、重力に従って下に抜け落ちやすいという欠点も抱える。
今回発覚した事故を起こした志賀原発1号機は、この沸騰水型であり、まさに周知の欠点である「制御棒の抜け落ち」が起きてしまった。
加圧水型は、原子炉によって直接熱せられた一次冷却水と呼ばれる300度以上に熱せられた水(加圧水)を得て、それを蒸気発生器に通すことで二次冷却水を沸騰させ、発電タービンには二次冷却水だけを通すという方法を取っている。
放射能に汚染された一次冷却水と、タービンを回す二次冷却水を分けることで、発電部分の放射能汚染を減らせる。また、制御棒を上から下に差し込む構造なので、万一、制御棒のコントロールが不能になったときでも、沸騰水型のように「下に抜ける」という最悪の事態は防げる。
その一方で、システム全体は複雑になり、特に、蒸気発生器部分のパイプは熱交換させるために太くできないので脆弱になる。この「細管」に穴が空くなどのトラブルが多いのが弱点。
1991年2月に蒸気発生器のパイプが完全破断し、一次冷却水が漏れるという重大事故を起こした美浜原発は、この加圧水型である。
1991年の美浜原発事故は、国内で初めて緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動する事故だった。美浜原発はその後、2004年8月に、3号機の二次冷却系の復水配管が蒸気漏れを起こし、定期点検中の作業員4人が死亡、7人が重軽傷を負うという、国内初の「運転中の原発による死亡事故」も起こした。
これもまさに、加圧水型の弱点である蒸気発生器の脆弱性が実証された形だ。
<何が起きたのか?>
各社報道機関の記事、及び
北陸電力が出している報告に書かれている情報をかき集めて統合すると、どうやら以下のようなことが起きたらしい。記事によって書いてあることの細部が微妙に違うので、一部、不正確かもしれない。例えば、北陸電力の報告書では一旦閉めた弁を元に戻し(開い)て制御棒を元に戻したと書いてあるが、某新聞記事では逆になっていた。8年前の事故、それも今まで隠されてきた事故の内容についての話であり、事実と食い違う部分があるかもしれないということは最初にお断りしておく。
1999年6月17日深夜から18日未明にかけて、北陸電力志賀原子力発電所1号機で原子炉(日立製作所製)の定期試験を行っていた。
試験前、89本の制御棒はすべて炉に完全挿入され、核反応は止まっていたとされる。
具体的には、制御棒1本を「急速挿入」する試験というものを行おうとしていたらしい。
制御棒1本につき、2個の弁がついている。試験のため、これらの弁を次々に閉めていたところ、その順番を誤り、水圧のバランスが崩れてしまった。結果、制御棒の駆動装置に異常な力がかかり、別の予期せぬ制御棒が3本、すっぽり下に「抜けて」しまった。
隣接しあう3本の制御棒が同時に抜け落ちたため、停止していたはずの原子炉が再び臨界状態(核分裂による連鎖反応が継続する状態)になった。
ちなみに、制御棒抜け落ち事故は、1本が抜け落ちることは想定されていても、3本も同時に抜けるという事態は想定外らしい。
システムは臨界状態を検知。すぐに緊急停止信号が出て、発電所内には警報が鳴り響いた。
このとき、普通ならば緊急停止装置が働いて、抜けた制御棒が窒素の圧力で炉に挿入されるはずだが、この日は、以前に実施した制御棒関連の別の試験のため、制御棒を緊急作動させるための窒素ガスをすべて抜いてあったという。つまり、緊急停止装置は働かなかった。
さらに怖ろしいことに、検査のために、事前に、原子炉圧力容器(炉心を直接覆う部分)と、その外側の原子炉格納容器のいずれも、「上蓋が外されていた」というのだ。
つまり、
緊急停止装置が働かない状態で、原子炉と、それを入れている格納容器の「蓋」が開いたまま、点検のため止まっていたはずの原子炉が再び動き出したのである。
現場にいた者たちが味わった恐怖は大変なものだっただろう。
事態を察知した当直長が、緊急全館放送を行い、弁の操作にあたっていた作業員に、一旦閉めた弁を元に戻すよう呼びかけた。結果、抜け落ちた3本の制御棒はなんとか元に戻り、15分後に臨界状態は収束。原子炉は再び停止した。
……どうやらこういう事態が起きていたらしい。
これがどれだけ怖ろしいことなのか、我々素人でも、十二分に想像できる。
核分裂は急速に起きれば爆発を起こす。これが原子爆弾だ。
核分裂が急速に起きないように、分裂を減速させるための制御棒が抜け落ちたのである。しかも、そのとき、原子炉の「蓋」は開いていた。
このままの状態が続いていたらどうなったのか。
抜け落ちた制御棒が3本ではなく、もっとまとめて抜けていたら……。
弁の開閉をさらに間違えて、制御棒が戻らなかったら……。
……想像するだに怖ろしい。
この事故は真夜中に起きているが、当時、作業員たちは、その4日前に起きていた別の事故(非常用ディーゼル発電機のひび割れ発覚)の対処に追われ、疲労が溜まっていたようだ。
また、定期検査は通常、機械保修課が担当するが、このときは、緊急時の原子炉停止機能の強化工事で電気系統の改修をしたことから、定期点検の経験がない電気保修課員が担当したという。
制御棒が3本抜け落ちた直接の原因は、作業手順書の誤記だという。制御棒についている弁の開閉の順番などが間違って記載されていたらしい。日立製作所が手順書を作成し、電力会社側がチェックするのが通例だが、このチェックも、機械保修課ではなく電気保修課が行ったという。
いずれにせよ、典型的人災といえる。
で、さらに大きな問題は、これだけの事故が8年もの間、完全に隠蔽されていたということだ。
現場の責任者が、その場にいた人間を集め、この事故を報告しない、口外しないことを決めたというのだ。
「事故を報告しない」と決めた責任者とは誰なのか。一体、組織のどこまでがこのことを知っていて口をつぐんでいたのか。
どうやら、社長をはじめ、北陸電力の上層部が知らなかったのは事実のようだから、命令系統のどこかで、情報がそれ以上上に行かず、握りつぶされていたことになる。その「ストップ点」にいた最上位責任者は誰なのか。今、どこで何をしているのか。
ちなみに、事故当時、現場では日立製作所の社員も立ち会っていた。北陸電力だけでなく、日立の内部でも情報隠蔽がされていたことになる。
過去、あと一歩で日本国中放射能だらけになるかもしれなかった事故がある。加圧水型軽水炉の説明で例に出した、1991年2月9日の美浜原発2号機の細管破断事故だ。
このときは非常用炉心冷却装置が作動した初めての事故だったが、当時の状況が分かるにつれ、大事故に至らなかったのはいくつもの「幸運」が重なったためで、相当きわどい状況だったことが後に伝えられている。
美浜原発の事故としては、その後の2004年8月9日の二次冷却系でのパイプ破損事故のほうが、死傷者が出たこともあり、記憶にも新しいが、1991年の事故は、一次冷却系で細管が完全に破断(ギロチン破断)して20トン以上の一次冷却水が漏れたという怖ろしいもの。一次冷却水が抜ければ、原子炉は空焚き状態になり、炉心溶融(メルトダウン)が起きる。加圧水型では、同じ水漏れでも、一次冷却水の漏れと二次冷却水の漏れでは深刻さの度合が違う。
これが最初の「大事故一歩手前」だとすれば、今回明るみに出た志賀原発の制御棒抜け落ち事故は、2度目の大事故一歩手前ではないか。
一度でもしくじったら取り返しがつかない原発事故の恐怖を、我々は改めて感じるべきだ。しかも、今回はっきり分かったことは、原発を死守したい人たちにとって、「事故は隠したほうが絶対に得」だということだ。それを証明してしまった。
8年前にこの事件が知られていたら、直後に起きた東海村JCOでの事故と合わせて、「原子力発電の現場でどれだけお粗末な作業が行われているか」、国民は嫌でも理解し、それでも原発を「国策」として続ける国の姿勢にNOを突きつける力になったはずである。しかし、そうはならなかった。
原発を死守したい人たちにとって、事故を隠し通した責任者はヒーローであると同時に、口封じのためにこの世から消すべき標的にもなりうるだろう。
事件が明るみに出た今、報道は事故の真相を解明し、どう処理されるのかを逐一報告すべきだ。絶対にうやむやにしてはいけない。裏でどんな工作が行われたのか、また、今から行われようとしているのかを解明し、監視しなければならない。
実際、何が起きたのか、これからどうなるのか……続報を見守る僕の目に飛び込んでくるのは、ホリエモンやハンカチ王子の姿ばかり。
ホリエモンが刑務所に入ろうが入るまいが、我々の生活にはなんの関係もない。
しかし、原発事故は、我々の生活基盤そのものを一瞬にして崩壊させる。なぜもっと力を入れて報道しないのか。「8年前のこと」だからトップニュースにしないという姿勢は、報道機関が本来の使命を忘れているとしか思えない。
「見なかったことにしよう」「なかったことにしよう」「悲観してもどうにもならないのだから、忘れよう」……今の日本には、そうしたムードが満ち満ちている。
「原発は必要悪」だと、国民は思い込まされている。必要悪なのだから、真面目に考えるのは損だ、という姿勢で固まってしまっている。それは大間違いだ。
落ちれば一億総被曝という綱渡りをこれ以上続けることに、どれだけの実利があるというのか。
北陸電力は今、すべての原発を止めているが、停電は起きていない。過去、東京電力が17ある原発(約1700万キロワット)すべてを止めたときにも、停電は起きなかった。嘘を重ねて原発を続ける努力をするよりも、夏場の電力ピークを抑える努力をするほうがよほど現実的、実利的ではないのか。
自分が生きているうちに、放射能汚染の修羅場を経験するかもしれない。その思いが、ひしひしと迫ってくる。
2度あることは3度ある、という。1度目(1991年2月美浜原発重大事故)と2度目(1999年6月志賀原発重大事故)の間は8年4か月だった。今回発覚した「2度目」に8年4か月を足すと、2007年10月になる。
生きているうちに、どころか、明日にも修羅場が待っているのかもしれない。
(2007/03/20 追記)
その後、この臨界事故隠しを起こした1号機は、2006年6月の定期検査では、中性子計測器2個を、交換の際にケーブルを逆に接続し、適切な測定ができないまま運転していたことが分かった。計測器が正しく作動していないことに気づきながら、ケーブルを逆につなぐという初歩的ミスとは思わず、「一時的な故障」と決めつけて運転を再開していた。
これを知った保安院は2007年2月、北陸電力に対して、原因究明と再発防止策を3月15日までに求める指示文書を出していたところだったという。
北陸電力に原子力発電所を操業する能力も資格もないことは、もはや疑いの余地がない。